12


「飛来骨!」


強く上げられた声と共に放たれる飛来骨。それが大気を切り裂くように勢いよく飛んでいくと、やがて飛妖蛾を包む妖気の球体に深く大きな裂け目を刻みつけた。しかしその裂け目は粘性の液状となり、ドロドロと溶け合うようにして瞬く間に傷口を塞いでしまう。

そうして傷跡ひとつ残さず元の球体へ戻ってしまった妖気の中、気を張り詰めたように見開かれていた飛妖蛾の目が現実へ引き戻されるかのごとく確かな光を宿した。


「ふん…人間どもが…」


中断させられた草笛を手にしながら低く疎ましげに漏らす声。それを向けられる珊瑚はようやく辿り着いた時代樹の枝へ飛び降り、大きく旋回して返ってくる飛来骨を受け止めた。その勢いにわずかながら体が押されたが、背後に降り立った弥勒がそれをそっと支えて。
次いでは共に、頂上の飛妖蛾を鋭く睨み付けてやる。

するとその時、背後から慌てた様子の情けない声が降らされた。


「それじゃ弥勒の旦那、珊瑚姐さん、頑張ってくださいっ」


そう口にするのは変化したままの狸で、彼はそれを言い切るよりも早く逃げ帰るように身を翻してしまった。だがそれに振り返る弥勒と珊瑚は彼を責める様子など見せず、あっという間に遠ざかっていくその後ろ姿をただ見守るように眺めていた。


「この妖気の中、ハチもよくここまで来てくれたものです…」
「…法師さま…」


感心するように言う弥勒へ、不意に珊瑚が真剣な様子で呼びかける。
どこか緊張感を持っているようにも見えた、その表情。それに応じるように、弥勒もまた真剣な表情で向き直り「珊瑚…」と名を呼び返した――途端、


「なぜ、手を摩る…!?」


低く怪訝そうな声でそう言われる。
それもそのはずだ。弥勒はこのような緊張感漂う敵前に置かれながら、それでもお構いなく両手で包み込んだ珊瑚の左手をじっくりと撫でまわしていたのだから。

まさかこの状況で、それも真剣な顔をしながらセクハラ紛いの行為をされるなど思ってもみなかった珊瑚は正気を疑うように弥勒を見つめやる。すると彼は依然として普段通りに、手を摩り続けるままにしみじみと言い出した。


「これが今生での最後かもしれませんので…」
「不吉なこと言うな!」


惜しむよう呟かれる言葉に思わず声を荒げながら手を振り払ってやる。

緊張感があるのかないのか。そんな彼に珊瑚は呆れ果ててしまいながらも、再び敵前であることを認識するように気を引き締めては飛妖蛾の姿を見上げた。そして、弥勒と共に妖気の球体へ歩みを寄せていく。
それを見下ろす飛妖蛾は嘲笑に似た薄い笑みを浮かべ、抑揚の少ない声で淡々と呟いた。


「無駄と知りながら挑んでくるとは…人とは不思議な生き物よ」
「さあ、それはどうでしょうか?」


飛妖蛾の挑発的な言葉に弥勒は一切怯むことなく強気に返してみせる。その意思を表すように右手の数珠を握り構えれば、同じく珊瑚も飛来骨を握り締めながら身を屈め、いまにも戦闘を始めんばかりの姿勢を堂々と見せつけた。

どうやら諦めるつもりはないらしい。それを感じ取った飛妖蛾は余裕そうに浮かべていた笑みを消し、疎ましげに、つまらなそうに「ふん」と小さく言い捨てた。



* * *




――カラカラン…

一本の矢が軽い音を立てて地面に転がる。それを見下ろすのは、ほんのわずかに苦痛をにじませる程度の無表情な彩音。
どうやら先ほどの飛来骨の一撃によって飛妖蛾の支配が途絶えたらしく、今しがた矢を握っていたはずの手は緩く開いたまま硬直しており、その額に灯る勾玉の赤い光が徐々に消え始めていた。それに伴うように、勾玉と同じ色に染まっていた瞳が元の色を取り戻していく。


「っ…犬、夜叉…いまの内に…逃げて…」


弱々しく微かに、それでも懸命に言葉を紡ぎ出す。この支配が薄れた隙に、彼を助けたかったのだ。

しかしそんな彼女の意思に反して、体は矢を拾おうと地面へ膝を突く。彩音は未だ言うことを聞かない体へ必死に抗おうとするが、徐々に伸ばされる手は相反する二つの思想に震えを刻むだけで止まってはくれなかった。
このままではいずれ犬夜叉に矢を放ってしまう――そう思わざるを得ない状況に一層恐怖を煽られながら小さく口を開くと、彩音は唯一自分の意思が伝えられる“声”で犬夜叉を助けようとした。


「お願い…犬夜叉…私…っ体を、止められないの…だから…早く、逃げて…犬夜叉のこと…殺し、たく…」
「ったくよお、いい加減にしやがれ!」
「!?」


突如張り上げられた怒声にビクリと体を揺らす。そしてゆっくりと、光の戻らない虚ろな瞳を犬夜叉へ向ければ、彼は満身創痍の体に力を込めてその身を徐々に立ち上がらせていた。


「…ったく、どいつもこいつも…逃げろ逃げろってうるせったらねえぜ…おれは逃げねえ! お前を残したまま、逃げたりしねえんだよ!!」
「……犬、夜…叉…っ」


真っ直ぐにこちらを見つめながら言い切られる強い言葉に胸が痛む。
そう言ってくれることが嬉しかった。嬉しいのに、そんな優しい彼を自分は未だ手に掛けてしまおうとしていることが嫌で、とても苦しかった。胸が潰れてしまいそうなくらい、悲しかった。
どうにもままならない思いばかりが渦巻いて仕方がなく、いまにも涙をこぼしてしまいそうなほどの痛切な悲壮が彩音を苛んでいく。

しかし意思に従わない体はそれでも矢を拾おうとし、小さく震える手で何度も矢に触れては落としてしまうのを音もなく繰り返していた。



* * *




「風穴!」


その言葉と共に勢いよく封印の数珠を取り払う。その瞬間解放された風穴が全てを闇へ飲み込まんと凄まじい風を巻き起こし、飛妖蛾を包む妖気の球体を丸ごと引き込もうとした。すると球体は大きく引きつけられ、重く揺れながら自身に纏う枝や葉を千切られるよう風穴に奪われていく。

このまま球体ごと飛妖蛾を吸い込んでしまえば…そうよぎる思いに意識を集中し、風穴を真っ直ぐ向け続けていた――その時、突然どこからともなく「風穴!」という女の声が強く響かされた。
それに気付くが早いか、声の元へ振り返った瞬間に豪風が襲い掛かり、自身の風穴と同等の力で体を引き込まれそうになった。

瑠璃だ。風穴をコピーするように自身へ宿したあの女。それを理解すると同時に強く舌打ちしては強く踏み止まり、すぐさまこちらの風穴を瑠璃の方へと向け直した。途端、風が唸る轟音を響かせながら向かい合った風穴は吸い込まれんと舞っていた木片や木の葉を中心にとどめ、双方の力が互角であるということを明確に示してしまう。

恐らく、どちらかが手を緩めた瞬間に勝負が決するだろう。それが分かるほど拮抗した勝負に身動きの取れない弥勒を見兼ね、途端に地を蹴った珊瑚は歪な時代樹を跳ぶように駆けだした。
それが向かうは瑠璃の元。恐らく彼女も同様に身動きが取れないであろうことを悟り、今のうちに仕留めんと考えたのだ。

そうして瑠璃の姿を数メートル先に捉えた頃、腰の刀を抜いた珊瑚はそれを強く握りながら一層速く駆けようとした――その時だった。


「あなたの相手はこの(わたくし)!」


そう言い放ちながら突如行く手を阻むように姿を現す影。それは雲母の背に乗り双剣を構える玻璃であった。
それを目にした珊瑚ははっと足を止め、途端に飛び込んでくる雲母から大きく跳び退る。しかし目の前に現れた雲母は止まることなく、恐ろしい獣の顔をして珊瑚に噛みつかんと何度も牙を剥いてきた。
やはり操られているのだろう。そうとしか考えられない姿に後退を続ける珊瑚は堪らず舌打ちをこぼし、雲母を傷つけないためにも己の刀を納めることしかできなかった。

――そうして我が身から遠ざけた二人の姿を、飛妖蛾はただ蔑むように冷ややかな瞳で見据えやる。


「ふっ…つまらぬ邪魔が入った…」


そう小さく言い捨て、手にしていた木の葉を再び口元へ持ち上げる。唇に押し当てたそれを震わせるよう息を吹き込むと、強く広く甲高く、ピイィィ…とその音色を響かせた。




「! また…音がっ…」


耳をつんざくように鋭く響いてくる独特の音色。それに誘発されるようひどく頭痛が増していくのを感じた彩音は大きく顔を歪め、右手で頭を押さえ込みながらその場に小さくうずくまってしまった。


「彩音っ…くそっ。また蛾の毒が…」


弱々しく疎ましげにそう声を漏らす犬夜叉の視界に、無数の蛾が忙しなく飛び交う光景が映される。どこからともなく集ってくるそれは毒を含んだ鱗粉を撒き散らしており、いつしか周囲の景色が霞んでしまうほど深く濃く漂わせていく。

その間にも、地面へ向けられる彩音の瞳は再び妖しげな赤に染まろうとしていた。


「や、だ…いや…」


自分が自分で無くなっていく感覚。自分を奥底に封じ込められる感覚。それを否応なく味わわされる彩音は懸命に抵抗を続けるが、徐々に震えを小さくしていく手は矢を緩く握り拾い上げた。
その手が、ゆっくりと弓を構えようとする。


(いや…やめて…)


微かな震えを残しながらも、己の手は構えをとり、キリキリと弓を引き絞っていく。

――いやだ。このままでは、犬夜叉にとどめを刺してしまう。自分が、犬夜叉を殺してしまう。そんなのは絶対にいやだ。嫌。もうこれ以上犬夜叉を傷つけたくない。自分はこんなこと望んでない。やめて。こんなことさせないで――


「もうやめてっ!!」


強く念じた思いが確かに自身の口から発せられる。その瞬間、構えていた弓矢を地面へ落としては、崩れ落ちるようにその場へ膝を突いた。

微かだが、それでも確かな変化に目を丸くする。体が動くのだ。自分の意思で、思うままに動かせる。緩く握りしめる手に、それを実感することができる。
感覚が戻った。解放された。それがどうしてかは分からない。それでも確かに飛妖蛾の支配は感じられず、どこか狼狽えるように呆然と地面を見つめていた。

…だが、いつまでもこうしてはいられない。いつまた支配されるか分からないのだ。自由となったいまのうちに、犬夜叉から離れておくべきだろう。
そう考えた彩音が立ち上がろうと腕に力を込めた、その時だった。

――ピイィィィッ…

あの頭をつんざくような忌まわしい音がまたも響く。まるで思考することさえ許さないかのように、一層強く鳴らされる音が否応なく届いてくる。それに伴ってズキッ、と鋭く走る痛みに強く目を瞑れば、ふと、目の前で誰かの足音が鳴らされた気がした。

苦悶に歪めるままその顔を上げた先に見たのは、どういうわけか、ここにいるはずのない飛妖蛾の姿であった。こちらへ背を向けながらもわずかに笑みを見せつけてくるそれは犬夜叉へ向き直り、体中の傷と蛾の毒で動くこともままならない彼に不穏な歩みを寄せていく。
その姿に、表しようのない強い不安が滲みだす。


「な…なに、を…」
「お前に殺せぬというなら、私がこの手でとどめを刺してやろう…」


滑稽そうに笑う声でそう呟いた飛妖蛾の手には怪しく光る銀色の剣。
ゾクリと胸が冷える。嫌な予感が確信へ変わるような感覚を抱いては、視線の先のそれが犬夜叉の前で足を止めるのに激しく鼓動を響かせる。

そして飛妖蛾が剣を高く掲げたその瞬間、彩音は焦燥感と衝動に駆られるまま咄嗟に掴んだ矢をその背中へ強く勢いよく放ってみせた――直後、


「ぐおっ!!」
「っ!?」


ドッ、という鈍い音と共に響かされた覚えのある声に目を見開く。
それは飛妖蛾のものではない、どういうわけか、犬夜叉の声であったのだ。それに気が付いた瞬間見開いた目には飛妖蛾の姿など映っておらず、それらしい影さえどこにも見当たらない。

ただそこに見えるのは、一斉に飛び立つ無数の蛾の中に儚く佇む犬夜叉の姿だけであった。


「…うそ…でしょ…? 犬夜叉…?」


呆然としたまま、ぽつり、ぽつり、と声が漏れる。彼の胸には、今しがた彩音が放った一本の矢。それがやがて弓と共に光の粒子となって消え去ると、御神木に背を預けて立っていた犬夜叉が崩れるようにその身を落とした。

――幻覚。彩音は蛾の鱗粉によって、飛妖蛾の術によって、この場にいるはずのない飛妖蛾の幻覚を見せられていたというのだ。そして犬夜叉を助けるために放った矢が、図らずして彼にとどめを刺してしまった。そんな残酷な現実が、実感として徐々に、はっきりと彩音の頭に焼き付いていく。


「うそ…やだよ、違う…だって…だってこんなこと……いやだ、いや…いや…っいやあああ!!」


張り裂けんばかりの悲痛な叫びが響き渡る。その瞬間大量に舞っていた蛾たちが一斉に斬り裂かれるように散らされていき、彩音の額から血のように赤い勾玉が光の尾を引きながら弾き出された。そして音もなく地面に転がるそれは彩音に拒まれたためか細かなヒビを走らせ、ついには破裂するように砕け散ってしまう。

そこから現れた四魂の玉のかけらが力なく転がるが、彩音はそれに見向きもせず。ただ涙を伝わせながら必死に犬夜叉の元へ駆け寄っていた。


「犬夜叉っ、犬夜叉…! いや…違うの犬夜叉っ…私はただ、犬夜叉を助けようと…っごめん…本当に、ごめん…っ」


彼の体を抱きしめるように縋りつき、後悔や懺悔、混乱といった様々な感情に思うままの言葉を漏らしながら涙を流す。
そうしてどれだけ彼に強く縋っても言葉は返ってこない。閉ざされたその目は開かない。それに一層心を掻き乱されるような思いで謝罪の言葉を連ねながら、止めどなく涙をこぼしていた。
その時であった。


「ふん…皮肉なものだな…」
「!?」


不意に向けられた凛と響く覚えのある声。それに驚くよう顔を上げれば、先ほどまで自分が立っていた場所に桔梗の姿があった。

いつの間に、どうしてここに。まさかまた幻覚を見せられているのか――そんな思いが巡りながらも震える声で小さく「桔、梗…」とその名を呼べば、彼女は厳しさを孕んだ鋭い目で彩音を見据えた。


「その格好といい、この場所といい…本来ならば止める側である美琴と同じはずのお前が、なぜ止められる側のこの私と同じ道を辿っている?」
「そ…そんなこと…私には…」
「…さあ…これを持ってお前の時代に帰れ…元々お前は…いや、お前たちはこの時代にあるべき存在ではない…我らとは異なる時の流れに身を置く異邦人なのだ…」


そう告げる桔梗が差し出してきたのは勾玉から出てきた四魂の玉のかけら。これを土産に、戦国時代というこの場所から完全に身を引けというのだ。
しかしそのようなことを言葉ひとつで容易く受け入れられるはずもなく、彩音は目の前で力なくうな垂れる犬夜叉をギュ…と抱きしめ、自身の手を犬夜叉の傷口へそっと宛がった。


「私は犬夜叉を置いていけない…それに私は、自分の時代に帰れないの…私の居場所は、ここだって…」
「それはお前の都合だろう!」
「っ!」


突然荒げられた声にズキッ、と胸が痛む。治癒の力を使おうとしていた手を怯むように下げてしまう。堪らず唇を噛みしめ、反論することのできない言葉に瞳を揺らしていれば、桔梗は小さく足音を鳴らしながらこちらへ歩を寄せ始めた。


「美琴の力で治せるから傷つけていいとでも思っているのか? 仲間がいてもいいと言ったから、本来いるべきでない場所に無遠慮に居座るのか? ここにいるべきはずの人間の体を乗っ取ってまで…」
「っ…私だって…私だってそんなこと、一度も望んでない!!」


頭上から降らされる声にかっとなった瞬間、心の奥底に沈めていた気持ちが爆発するように溢れ出した。滲む涙でいくつもの光が揺れる瞳は桔梗を睨みつけ、ただじっと押し黙るその姿を映している。
すると桔梗はどこか呆れたように深く目を伏せ、それをもう一度開いては彩音の前から御神木の傍へと歩みを進めた。


「よく聞け…飛妖蛾は、己の力を高めるために、あの巨大な時代樹を通じて力を集めている…」
「時代樹…?」
「そうだ…そしてこの木も時代樹だ…」


そう言って御神木の隣へ回り込んだ桔梗は伸ばした手をそれに触れさせる。


「時代樹は、我らとは全く異なる時を生きる木だ…飛妖蛾の時代樹は、あらゆる時代から熱を奪い成長している…恐らく他の時代は、全て冷え切ってしまっているであろう…お前たちの世界も…今は終わらぬ冬を迎えているはずだ…」


御神木を見上げながらそう語った桔梗は一度こちらへ振り返り、「来い」とだけ呟いて一人先に歩き出してしまった。
なんのつもりなのだろう、彩音はその姿に戸惑い訝みながらも、彼女の指示に従おうと考えて。犬夜叉からそっと手を離すと、もう一度小さく謝りながらその顔を優しく撫で、寂しげな表情を滲ませた。

――そうして森の中を歩いていく桔梗を追っていけば、やがて開けた空間へと辿り着く。とうに見慣れたこの場所。そう、ここは骨喰いの井戸が鎮座する場所だ。幾度も通ってきたその井戸の元へ連れて来られた彩音は、そこにほんの小さな違和感を抱くとすぐさま様子を窺うようにそれへ駆け寄っていった。


「な、なにこれ…井戸から、新しい芽…?」


古い材木で作られた骨喰いの井戸。到底芽など出るはずもないそこからどうしてかいくつもの新しい芽が生え、いまにも井戸を覆い尽くさんとその身を伸ばし続けていた。


「この井戸は時代樹を切り出して作られたものだ…だがいま、眠っていた生命力が、あの巨大な時代樹に共鳴し…再び目覚めようとしている…」


そう語られた言葉に彩音は思わず飛妖蛾の時代樹へ視線を向ける。あれが覚醒し姿を現したことで、この井戸のような本来あるはずのない異質な変化が各地で起きようとしているというのだ。


「この芽が井戸を覆ってしまったら、お前はもう二度と通り抜けることはできない…そうなる前に自分の…いや、あの女の時代へ行くが良い…」


諭すように告げられるその声に口をつぐむ。
桔梗の言うことは最もかもしれない。だが彩音の脳裏には置いてきた犬夜叉の痛ましい姿が焼き付いて離れず、やるせない思いに唇を噛みしめた彩音は「で、でも待って…」とどこか縋るように振り返った。


「やっぱり犬夜叉を放っておけない…せめて、傷を治してから…」
「帰るのだ!! お前はここにいるべきではない! お前と犬夜叉は、決して交わることはないのだ! 帰れ!!」
「っ!!」


桔梗が悲痛な声でまくし立てるようにそう叫んだ瞬間、まるで森が桔梗に同調するかのように凄まじい突風を勢いよく吹き付けてきた。それに不意を突かれた彩音は大きく体を傾け、井戸を覆い尽くそうとする芽を破るほど強くその身を深い闇の中へ投げ落とされてしまった。


「いやっ…犬夜叉あああっ!!」


様々な思いを抱えた叫びは彩音を拒絶するよう瞬く間に伸びた芽によって閉じ込められ、やがて彼女の体を包み込む神秘的な光さえ隠してしまう。
そうして井戸が鬱蒼と茂る緑の葉に覆われ塞がれてしまった姿を前に、そこを覗き込んでいた桔梗は変わらずそれを見つめるまま、


「決して交わることはない…だが、時が止まった死人である私も…交わることはできない…」


悲壮に歪めた顔で、ただ静かに戒めのように呟いていた。

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