11


景色を霞ませるほどの深い霧が立ち込める渓谷。そこに架かる一本の長い橋を見つけた犬夜叉は強く地を蹴って橋を駆け渡ろうとした。だが跳躍と同時に感じた、人の気配。それに足を止めるよう着地し顔を上げれば、向こう岸の森の中から静かに歩みを寄せてくる女の姿が見えてきた。
霧に覆われる視界では、女の輪郭程度しか窺えない。それでも徐々に近付いてくるそれが巫女装束を纏っていることに気が付くと、犬夜叉は訝しむように眉をひそめた。


「桔梗…?」


自身の中に深く残る巫女の名前が口を突いて出る。だが歩みを止めることなく近付いてくるそれを凝視していれば、やがて薄い月明かりにベールを暴かれるよう姿を判然とさせた女が桔梗ではないことを思い知らされた。


「彩音っ!」


その姿に心臓が強く跳ねるような衝撃を覚え、咄嗟にその名を呼ぶ。
そう、犬夜叉の前に現れたのは桔梗でなく彩音だったのだ。飛妖蛾の攻撃により分断されて以来安否も知れず、その姿を捜しながら足を進めていた犬夜叉は心配する様子を残したまますぐさま彼女へと駆け寄っていく。


「無事だったんだな、お前…怪我はねえか…?」


そう問いかけながら、彩音の確かな足取りに安堵を滲ませるよう微かな笑みを見せる犬夜叉。だがそれを目の前にする彩音は表情を変えないまま、それでも確かに焦燥感を湛えた思いを秘めていた。


(ダメ…来ないで犬夜叉っ…いまの私は…)
「顔色わりいぞ…楓のとこに戻って休んでろよ」


普段着ていない巫女装束で気付いたのだろう、彩音が楓のところから出てきたことを悟った犬夜叉がそう提言するが、彩音はそれに言葉を返さないまま静かに歩み寄り、犬夜叉の頬を撫でるように手を添えた。
光のない瞳が犬夜叉を見つめる。それに哀愁を覚えたか、犬夜叉はわずかに顔を歪めるよう眉根を寄せると、彩音の背中へ腕を回し、彼女を優しく包み込むように抱き寄せた。


「彩音…すまねえ…おれがついていながら…」


どこか悔いるように、耳元で囁く。しかしそれを静かに聞いていた彩音はほんのわずかに苦しさを滲ませ、固く閉ざされた口を小さくも確かに開いた。


「…早、く…逃げて…犬夜…叉っ…」
「ああ? ぐっ!!」


彩音の言葉を訝しんだ直後、突然腹部を襲った鋭い痛み。犬夜叉がそれに大きく目を見張ると同時に、彼の背中では長く伸びる五本の光の爪が銀色の髪さえ貫いて深く赤い鮮血を散らした。


「…彩音…!?」


自身の胸へ確かに手を突き込ませる彼女の姿に隠し切れない動揺を露わにする。それでも目の前の彩音はなんの感情も持たない様子のまま、一瞬の躊躇いも見せることなくその爪を強く引き抜いた。そしてただ静かに、再びその切っ先を犬夜叉へ向ける。


(いやっやめて! 犬夜叉を傷つけないで!!)


なにひとつ言うことを聞かない自分の体へ必死に懇願の声を上げるも意味などなく、大きく踏み込んだ彩音の体は犬夜叉に向かって素早く爪を振るった。犬夜叉はそれをかわし、貫かれた腹部を押さえながら何度も振るわれ続ける爪を後ずさるように避け続けていく。
それでも決して、彩音から離れようとはしなかった。


「ちっ。誰かに操られてやがる!」


明らかな彼女の異変にそれを悟った瞬間、犬夜叉は体制を立て直そうと大きく跳び退った。しかしその衝撃が腹部の傷に響き顔を歪めてしまった一瞬、その隙を突くように彩音が振るった両手から弾丸のような光が放たれた。それに「くそっ」と漏らした犬夜叉は、大きく跳び上がることでその光の弾をかわしてみせる。

これも飛妖蛾の仕業か、そう確信に近い可能性をよぎらせると同時、犬夜叉は真っ向から彩音へと飛び掛かった。


(やめて犬夜叉っ…来ないでっ!)
「目え覚ませっ! 彩音!!」


彩音の必死な願いも虚しく、犬夜叉は突き込んでくる彩音の手を掴んでその体を拘束するよう再び抱き寄せた。だがその瞬間ガクン、と大きな衝撃に揺られて目を見張る。
なにかが焼けるような音、それに振り返れば橋の様々な箇所からわずかな煙が上がっているのが見えた。それは彩音の爪から放たれた光の弾が掠めた箇所。あれにより橋を構成する縄代わりの蔦が溶かされ始め、橋は瞬く間にそこから千切れるよう崩れていった。

その瞬間、犬夜叉に抱かれていた彩音は彼の体を突き飛ばし、自身の体は宙に浮かせたまま彼を見下ろす。驚愕に満ちた金の瞳が見つめてくる中、彩音は無慈悲に構えた手を静かに持ち上げた。


「死ね、犬夜叉!」


思ってもいない言葉が誰かの声と重ねるように発せられた刹那、まるで追い打ちを掛けるかのように犬夜叉へ光の弾を放った。それに目を丸くした犬夜叉は咄嗟に袖で刃を受け止め、その衝撃に圧されるよう成す術もなく渓谷の底へ落ちていく。
彩音がそれを追うように飛び込めば、岩場に着地した犬夜叉は腹部の痛みに顔を歪めながら、それでもすぐに彼女と距離をとるよう駆け出した。

腹の傷が痛む。彩音をこのままにはしておけない。様々な思いが交錯する中、犬夜叉はただ静かにあとを追ってくる彩音を背に、いくつもの岩を跳ぶよう素早く進み続けていた。


「(くくく…いつまで逃げられるかな犬夜叉…)」


成す術のない犬夜叉の姿に飛妖蛾は不気味な笑みを浮かべる。それが絶えず鳴らす草笛の音。彩音だけに聞こえるそれが彼女を操り続け、未だなお逃げるように足を進める犬夜叉を追わせていた。


「くそっ。どうすりゃいい!?」


駆けながら背後を見やり、変わらない状況に焦燥感を露わにする。例え操っているのが飛妖蛾だとしても、いま自身を追い込んでいるのが彩音であることに違いはない。そのため攻撃を返すなどできるはずがなく、大きな抵抗さえ許されない犬夜叉はただ纏まらない思考に悩まされながら彩音と距離をとることしかできなかった。

行く手を阻むよう立ち塞がる崖を登り、草木が生い茂る地表へ着地すると同時に腹を押さえる。だがそこへ彩音が迫ってくるのを見てはすぐさま駆け出し、彼女に放たれる光の弾をなんとか逃れながら木々を縫った。
そうして彩音から逃れるまま、犬夜叉は必死に森の中を駆け続けていた。


「(彩音にこんなことさせやがって…瑪瑙丸の野郎…許さねえっ!)」


沸々と込み上げる敵への怒り。どこへも向けられないその思いを抱くまま汗を滲ませ進み続ける彼は、いつしか無意識のうちに御神木の元へと向かっていた。やがてそれを目前にして立ち並ぶ木々を抜けた――その瞬間、右方に自身と並ぶよう飛び出してきた彩音の姿を目にした。


「!?」


それに気付き振り返ると同時、途端に振るわれた爪から再び光の弾丸が放たれる。犬夜叉は咄嗟に地を蹴ることでそれを免れたものの、着地の衝撃が腹の傷に強く響き、堪らず崩れ落ちるよう両膝を突いてしまった。

短い呻き声が漏れた刹那、その隙を突くように勢いよく迫ってくる彩音に飛妖蛾の影が見える。間違いない、やはり飛妖蛾だ。奴が彩音を使って自身を殺そうとしている。瞬時にそれを悟った犬夜叉は目を見張ると同時に身構えようとするが、間に合わず。拒むように突き出された両手から放たれる凄まじい波動に打たれ、体を強く大きく弾き飛ばされてしまった。直後犬夜叉は御神木へと体を叩き付けられ、崩れるようにズル…とその身を落とす。

衝撃に閉じてしまった目。それをわずかに開いた時、犬夜叉は目の前に見えたあるはずのない光景に強く目を見張った。


「!! …美琴!?」


愕然とした。ほんの一瞬の間に辺り一面が燃え盛り、その炎の中に弓矢を構える蒼い巫女装束の美琴の姿があったのだ。
ひどく見覚えのある光景に、それが桔梗かと見紛えそうにもなった。だがそれは確かに美琴に違いなく。本来ならばその桔梗を止めんとしていた彼女が、どういうわけかあの日の桔梗のように弓を握っている。

なぜだ。なぜ美琴がそのようなことを…
理解できるはずもない状況に思考を巡らせかけたその時、眩い炎に照らされる美琴が悲痛な表情を見せながらも容赦なく矢を放った。それは炎を纏うように迫ったのだが、突如炎も矢も姿を消し、代わりに現れた複数の光の弾が犬夜叉の体中へ突き刺さる。瞬く間に失せた光の弾は異様な煙と焼けるような痛みを残し、呆気なく彼の膝を折らせてしまった。

口元に血が滲む。溢れ出る冷や汗がいくつも頬を伝う。その中で強く胸を押さえた犬夜叉は、どこか嘲笑にも似た薄い笑みを浮かべていた。


「へっ…結局あの時と同じかよ…」


あの時――五十年前の、桔梗に矢を放たれた当時のこと。それを思い返して目線を上げるが、未だ燃え盛る炎の中に立つのは桔梗でなく美琴だ。最後までこんなことは間違いだと訴え続けていたはずの彼女にさえ、同じように追い込まれなければならないのか。そんな自虐的な思いを抱えていた時、やがて大きく揺れていた炎が消え去ると同時に彼女の巫女装束が深い赤に染まり始めた。


「(違う…あれは美琴じゃねぇ…彩音…なのか…)」


悲しげな表情を見せていたはずの彼女が、光のない瞳をした無表情へと変わる。それに混乱するよう、だが確かに確信を抱いたその時。対峙する彼女は色のない表情をこちらへ向けたまま、絶えず悲痛な声をその胸中に響かせていた。


(お願い…お願いだからやめてっ、早く逃げてよ犬夜叉!!)


――さあ殺れ…

彩音の懸命な訴えを掻き消すように響いてくる飛妖蛾の声。すると彩音の体は彼女の意思に反して一枚の木の葉を掲げる。それが妖しい光に染まると同時に線状へ形を変え、やがて一式の弓矢となって彩音の手に構えられた。

――犬夜叉にとどめを刺すのだ!

飛妖蛾の命令に合わせて弓が強く引き絞られる。彩音はそのようなことなど望んではいないのに、体は飛妖蛾の意のまま、犬夜叉を仕留めんと矢の照準を彼へ合わせた。


(やだ、いやっ…お願い逃げてっ! 早く!!)

「死ね! 犬夜叉!!」

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