10


太陽が昇り始め、辺りが白く明るさを取り戻していく頃。閑静な渓谷に流れる川のすぐ傍に大きくも狭い岩の裂け目があった。そこへ向かっていく、三匹の大きな蛾。それらが裂け目へ侵入しようとした瞬間そこに張られたお札の結界がバリッ、と激しい音を立て、蛾は見る影もなく粉々に散っていった。

狭い横穴のようなその奥には、鍋を火にかけるタヌキの姿。それだけでなく弥勒と珊瑚までもがそこに居座り、ただじっと静かに身を潜めていた。


「大丈夫ですかい? 弥勒の旦那…」
「…ああ…飛妖蛾は生きとし生けるもの全ての魂を吸収している…絶えず強い意識を保っていないと、すぐに奴の餌食です…」


掠り傷の残る顔に困ったような笑みを浮かべ、弥勒は自身の肩を叩きながら自虐的に言う。それに対してタヌキは鍋に蓋をすると、そこへ座り込みながら耳を垂らすほど落胆するように眉を下げた。


「いくらなんでも奴らは強すぎますよ…弥勒の旦那たちも、今度ばかりは手も足も出せねえって奴ですか…」
「…あたしは行くよ。雲母をあのままにしてはおけないからね」
「私も行きます…この風穴を悪用されるのを、黙って見過ごすわけにはいきません…」


不意に珊瑚が立ち上がったかと思えば飛来骨を手にし、さらには弥勒まで当然のように立ち上がる。そんな二人の姿を目の当たりにしたタヌキは二人を交互に見据え、信じられないと言わんばかりに「お二人とも無茶ですって!」と必死な声を向けていた。
だが二人が再び腰を下ろすことはなく、その足は出口へ向かって大きく踏み出される。


「なあに、なんとかなるでしょう…」
「なんとかするさ」


足を揃え、共にそう口にする弥勒と珊瑚。やはり二人はどうあっても諦めるつもりはないらしい。彼らの後ろ姿にそれを感じたタヌキはもどかしさを覚えながら、それでも諦めたように彼らへ背を向けて目の前の鍋へと視線を落としやった。


「…まあ、どうしてもって言うなら無理に止めませんが…でも、あのバカでかい時代樹をよじ登るのは骨だと……えっ?」


もうなにを言っても変わらないだろう二人へ最後の忠告とばかりに言いながら振り返ってみたのだが、そこにあった含みのある悪い笑み二つに間抜けな声が漏れる。それは明らかになにかを企んでいる顔だ。しかも、自分が巻き込まれる類の。
それを悟った途端タヌキは大きく顔を引きつらせると、慌てて立ち上がりながら拒否するように両手を左右に振ってみせた。


「そ…そんな!? カンベンしてくださいよ旦那…!」
「…てめえ…おれに吸い込まれてえか…?」
「ひえっ!!」


顔を迫らせながら右手の数珠を手に取る姿にタヌキは尻餅をついて後ずさるほど怯えてしまう。この時ばかりは珊瑚も弥勒の肩を持つようで止めてくれず、悪い顔で右手をちらつかせてくる彼と共に笑みを浮かべていた。
――こうなってしまっては、もう従うしかない。


「分かりました、分かりましたよ! 不良法師…」


観念したタヌキはすぐさま木の葉を取り出し、小さな声で悪態づきながらそれを頭へ乗せやった。そしてボウン、と音を立てるほど大量の煙を放って変化する――が、ここはまだ小さな洞穴の中。


「この狭いところで化けてどうするのさ!」
「てめえ、マジ吸い殺す!」


巨大に膨れ上がった体が小さなこの空間に収まるはずがなく、弥勒と珊瑚を押し潰してしまうほど圧迫してしまっては二人を完全に怒らせてしまったのであった。



* * *




その頃、爽やかな緑が生い茂る森から覚束ない足取りで歩を進める人影があった。犬夜叉だ。彼は満身創痍の体を杖代わりにしている鉄砕牙一本で支えながら歩き続けていた。だがそれも限界なのだろう、ドサッ、と鈍い音を立てて仰向けに倒れ込むと、ひどく疲れ切った苦悶の表情を露わにする。


「くそ…この程度の傷で…」
「犬夜叉さま…ここは危険ですじゃ…一度西国の方へ逃げて、力を蓄えましょうぞ…」
「逃げるだと…!?」


胸元で潰れていた冥加が甦ると共に向けてきた提案。それに犬夜叉は怒りすら垣間見えるほどの表情を浮かべて言い返した。だが冥加もその言葉を覆すつもりはないようで、「左様…」と声を返しながら体を向け直してくる。


「…飛妖蛾一族は二百年以上もの長い歳月をかけて、犬夜叉さまに復讐しようとしているのです…対抗するには、こちらもそれなりに時間を掛けねばなりませぬ…犬夜叉さまが父君ほどの大妖怪になるまで待ってから…」
「うっせえ! おれは気が短えんだよ!」
「しかし!」
「しかしもかかしもねえっ。すぐに取って返す!」
「無茶じゃ! 犬夜叉さま…」


言い争うように声を荒げては「黙ってろ!」と冥加を振り払うように体を起こす。だがその瞬間左腕に鋭い痛みが走り、思わずそこを押さえてしまいながら大きく顔を歪ませた。
その目を開くと同時に見える、遥か遠くにそびえ立つ歪な時代樹。あそこに飛妖蛾がいる。いまも力を蓄えながら、こちらへの復讐の機会を窺っている。
それを思いながら彼方の敵を強く鋭く睨み付けていた時、不意に胸元にぶら下がる冥加を強く掴み込んだ。かと思えば犬夜叉は紐を引き千切るほど強引に腕を振るい、掴んでいた冥加を後方へ投げ捨ててしまう。それにより小さな冥加は何度も地面を跳ねるように転がり、その勢いが失われるとすぐさま上体を起こした。


「な、なにを…!?」


不安を覚えた冥加はそれが一面に表れた面持ちで犬夜叉を見つめる。すると視線の先の彼は再び手にした鉄砕牙を地面へ突き立て、それを軸に傷だらけの体を起き上がらせていた。


「おめえはうるせえ…どこにでもとっとと…逃げろ! おれは…一人で行く…」
「だめじゃ! 絶対行かせませんぞ!! この冥加、命に代えても止めてみせます! どうしても行くと言うなら、犬夜叉さま。この冥加の屍を踏み越えて行きなされ!」


慌てて犬夜叉の前へ飛び出した冥加は懸命に声を上げながら大きく飛び跳ねる。しかし本当に止める気があるのか、彼は犬夜叉の鼻へ跳び付いたかと思えば真剣な顔でぢゅ〜…と血を吸うばかり。
当然その程度で犬夜叉が止まるはずはなく、ガンッ、と凄まじい音を立てて叩きのめされた冥加は「犬夜叉さま〜…」という弱々しい声を漏らしながら薄っぺらい体を宙に舞わすだけなのであった。


そして挫折することなく歩を進める犬夜叉――その姿を遠く、人魂が集う時代樹の頂点から見つめる飛妖蛾は強い呆れの様子を露わにしていた。


「犬夜叉め…諦めの悪さは人の血か…ならばその血で座興を見せてもらおう…」


胡乱げな笑みが湛えられる口元へ、小さな木の葉が持ち上げられる。それが唇にあてがわれると、ピイィィィ…と甲高い不思議な音色が鳴らされた。それは時代樹を、広大な空を越え、強く確かに響いて行く。

――その音色が楓の家へと届いた時、そこに横たわる彩音の表情に苦悶の色が滲んだ。疲れを見せながらも比較的穏やかに眠っていたはずの彩音は次第に顔を歪め、楓に着せ替えられた巫女装束に滴るほどひどく汗を伝わせていく。

その様子に気付いた楓が彩音に歩み寄り、心配そうに歪めた表情で彼女の顔を覗き込んだ。


「どうした? 彩音…?」
「はっ…う…気、持ち…悪い…」
「大丈夫か? いま水を持ってきてやるぞ」


顔を青ざめさせながら蚊の鳴くような声で呟く彩音に、楓はすぐさま腰を上げて家の隅にある水瓶へと足早に向かっていく。それと同時に体を起こした彩音はひどく顔を強張らせ、頭を抱えるようにうずくまっていた。


「…痛い…なに、この音…」


頭をつんざくように響くその音は次第に強さを増していく。伴うように頭痛の激しさも増していく中、不意に、その音色が一層強く響いた気がした。
――その瞬間、頭を押さえていた手がトン…と布団へ落ちる。同時に、勾玉の形をした怪しげな光が彩音の額で赤く確かに灯された。


「彩音…?」


水を汲んだ杓子を手にした楓が振り返ると、彩音は背を向けたまま静かに立ち上がっていた。否、自らの力で立ち上がっているのではない。その足は床からわずかに離れ、まるで吊るされた操り人形のように浮かび上がっていた。

明らかな異変。それに戸惑うよう楓が立ち尽くす中、ゆっくりとその身を振り返らせた彩音の瞳は勾玉のように赤く、光のない空虚なものとなっていた。


「彩音! どうしたのだ!? 彩音っ」


まるでなにかの障害物を通しているかのように離れて聞こえる楓の声。確かに彩音はそれを聞き取れていたが、彼女がその体を操作することは一切叶わなかった。


(な、なんで…!? 体が勝手に…まさか…いや違う、美琴さんじゃない…! 私がここにいるのにどうして…なんで言うこと聞かないの!?)


意識をはっきりと保った状態だというのに指一本動かすことのできない体。それも美琴の夢を見ているのではない、ここは現実だ。美琴が目覚めたわけでも、彩音の意識が閉ざされたわけでもない。それでも体は勝手に動きを見せ、まるで誰かに操られているかのように言うことを聞かなかった。
そんな不可解な状況にどうにか抵抗しようとするが意味を成さず、体は次第に楓へと迫っていく。堪らず杓子を落とすほど後ずさる楓に対し、体は右手を構えるように持ち上げた。


(やだ…いやっ、やめて! 楓さん逃げて!!)


自身の体が起こさんとする行動を悟った瞬間に強く叫び上げる。しかしそれが声となって発せられることはなく、まるで獣のように伸びた光の爪は無慈悲にも振るわれる。

静まり返る室内に囲炉裏の薪が折れる音が木霊し、小さな火の粉がほのかに舞い上がった。

bookmark

prev |10/20| next


back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -