09


不気味な音に振り返った一同が見たもの。それは時代樹にいくつもの亀裂が走っていく光景だった。どういうわけか亀裂からは怪しげな光が漏れ、立ち込める不穏な空気に一同の表情は硬く強張っていく。そして突如、時代樹を囲むように赤黒い不気味な煙が噴出し、一帯は地響きを轟かせながら深く濃く煙に包まれていった。その中で、時代樹の根元から禍々しい光を湛えた球体が這い上がってくる。それは、犬夜叉の父の牙で封印されていたものだ。

時代樹が朽ち果て崩れ落ちると同時に、木の根に覆われ支えられるそれが天高く昇っていく。歪な形をした根は長く長く伸び上がり、とうとうその成長を止めては不穏な姿をそびえ立たせた。
紺碧の夜空に、月の代わりとばかりに浮かぶ球体の上。そこに立ちはだかる瑪瑙丸は胡乱気な笑みを湛え、眼下の犬夜叉を嘲笑うように見下した。


「ふふふ…礼を言うぞ、犬夜叉」
「なにっ!?」
「我が父飛妖蛾は、貴様の父親との戦いに破れ、この地に封印された…貴様の兄殺生丸の持つ牙に、封印を破壊する力はない。あるのは、貴様に残されたもう一つの牙すなわち…鉄砕牙!」
「鉄砕牙を…おれを利用したって言うのか…!?」


声高に語られた事実に犬夜叉は強く顔を歪める。見抜けなかった。見抜けなかったどころか、まんまと乗せられ、相手の思う壺にはまってしまった。瑪瑙丸の笑みにそれを深く思い知らされてしまうと、鉄砕牙を握る手にひどく力が籠もる。
しかし瑪瑙丸はすでに犬夜叉など見てはおらず、両手で握りしめた剣を頭上高く嬉々として振り上げた。


「これで私は、我が一族の全てを受け継ぐことができる!」


――ドッ

勢いよく振り下ろされた剣が球体に突き込まれる。その瞬間、球体はまるで瑪瑙丸に呼応するかのように禍々しい光を強く大きく溢れさせた。すると瑪瑙丸は突き立てた剣の刃を握り締め、血が滴るほど傷つくことも厭わずにその剣を引き寄せる。それにより球体の表面に数十センチの切れ目が刻まれた次の瞬間、突如そこから凄まじいほどの妖気がゴオッと溢れ出し、瑪瑙丸を取り囲むよう噴き出し始めた。


「ふはは…ふははは!」


煙のように溢れ出る妖気が全て瑪瑙丸の体へ流れ込んでいく。それと同時に感じた、力の増幅。瑪瑙丸がそれに隠し切れない笑い声を高々と上げていれば、得体のしれないその行為に顔をしかめた弥勒が「…なにを!?」と不安げな声を漏らした。それに返したのは、同じく表情を強張らせる冥加だ。


「あれは飛妖蛾一族に伝わる継承の儀式…」
「継承の儀式…!?」
「奴らは子が親の妖力を受け継ぎ、より強大な妖怪へ変化すると聞いたことがありまする…!」


そう語る冥加の額にはいくつもの汗が滲み、鬼気迫る状況だということをより強く思い知らされる。
その間にも瑪瑙丸は丸く口を開けた球体の中へ体を沈め、まるで液体のような妖気の中にその身を浸していった。彼を受け入れた球体はすぐに表面を膜で覆い直し、先ほどよりも一層強く、早く瑪瑙丸へ妖気を注ぎ込んでいく。それに伴い、巨大な球体は瞬く間にその身を縮ませる。


「ふははは…」


待ち望んでいたこの瞬間に、瑪瑙丸は込み上げる笑みを惜しみなく響かせる。そんな時彼の顔に亀裂が走り小さく破片が散るが、瑪瑙丸自身、そして遠くで見守る女二人、皆その表情に一切の曇りを見せなかった。そこにあるのはただ一つ、自信に満ちた笑みだけ。


「ああ…新たなる飛妖蛾さま…」
「我らの新たなる主…」


膝を突き、胸に手を添えて敬意を表すようにその姿を見つめる二人。彼女らが見守るそれを、ただ不安げに見つめるのは彩音たちだ。中でも犬夜叉の肩で大きく後ずさる冥加は「終わりじゃ…」と絶望の声を漏らしてしまっていた。


「瑪瑙丸は妖力を吸い取り、新たな飛妖蛾となってしまった…もう誰にも奴を倒すことはできませぬ…」
「けっ! 親父は勝ったんだろ?」
「飛妖蛾一族は代を重ねることによって、その力を増して行くのですじゃ! 今の瑪瑙丸…いや、飛妖蛾は父君が倒した時よりも、遥かに強大な力を持ったことになります!」
「そんな…」


冥加の口から放たれた信じがたい現実に彩音が堪らず不安げな声を漏らす。それは誰しもが同じ思いで、言葉もなくそれを見上げる一同は皆不安に大きく瞳を揺らしていた。

犬夜叉よりも圧倒的に力を持っていたという犬夜叉の父が、封印に留めた敵を。当時よりもさらに強さを増してしまったその敵を、相手にしなければならないというのだ。これに絶望を覚えないはずがなく、彩音は嫌な鼓動を繰り返す胸を抑えるようギュウ、と強く握りしめていた。
そんな時、冥加が不安に塗れた声を上げながら自分に括りつけられる糸を解こうともがき始めた。


「これから奴はさらなる大妖怪へと変化するため、片っ端から…わあっ!?」
「それがどうした!」


突如冥加の言葉を遮るように地を蹴った犬夜叉が迷うことなく駆け出した。それが向かうのは当然、飛妖蛾となった瑪瑙丸の元。あまりに唐突すぎるその姿に驚いた彩音が「待って犬夜叉っ!」と制止の声を上げるが、彼はその足を止めることなく徐々に勢いをつけていく。


「倒しちまえば文句はねえだろっ!」
「ひょええーっ! 苦しーっ! この糸外してくれーっ!」


威勢よく飛妖蛾へ向かう犬夜叉とは裏腹に、糸を解くことができなかった冥加が目を回し涙を浮かべるほど必死に懇願の声を上げる。しかしそれを叶える者も叶えられる者もそこにはおらず、冥加は強く激しく揺さぶられながら犬夜叉と共に飛妖蛾へ近付いていた。
そして次の瞬間、犬夜叉は勢いをつけて高く跳び上がり、抜刀した鉄砕牙を大きく振り上げてみせた。


「食らえーっ!」


叫び上げ、落下の勢いに乗せるよう強く振り下ろす。それが飛妖蛾を包む球体へ叩き付けられるもそこには傷一つ付かず、それどころか突如犬夜叉を拒むように放たれた電気のような衝撃が彼を弾き返してしまった。


「うわっ!」


投げ出された犬夜叉の短い悲鳴が響き、次いで地面へ叩き付けられる激しい音が上がる。それに顔を強張らせた彩音たちが息を詰まらせると、まるで嘲笑うようにその姿を見下す飛妖蛾が言い放った。


「半妖。貴様のような下賤な者が、この私に触れることは許されん」
「ちいっ」


侮辱に舌打ちを返す犬夜叉は途端に跳躍し、天を突くような構えで鉄砕牙を握り締めた。その勢いのまま下方から球体を突き込むが、やはりそれに刃が通ることはなく。再び眩い光と衝撃によって弾き返されては、虚しくも真っ逆さまに地面へと突き返されてしまった。それでも犬夜叉は諦めることなく跳び上がり、二度、三度と鉄砕牙を叩き込む。しかしそんな彼の努力は一切実を結ぶことなく、型を付けるほど強く地面に叩き付けられてしまった犬夜叉は、とうとう起き上がることも叶わなくなっていた。
それは犬夜叉に縛られる冥加も同様で、目を回すほど伸びてしまいながら弱々しく「…もうやめてくれえー…」と懇願の声を漏らしている。

だがそこへ降らされた声は冥加とは裏腹の、諦めることを許さないという挑発的な言葉だった。


「この程度で死ぬなよ半妖…貴様を殺すために、とっておきの筋書きを用意してあるのだからな…」


不気味な膜の向こうで飛妖蛾の口元に嘲笑が浮かぶ。すると犬夜叉は満身創痍の体を起こし、「けっ!」と吐き捨てると同時に鉄砕牙を地面へ突き立てた。そしてそれを支えにしながら、力の入らない体を懸命に立ち上がらせる。


「…なにを言ってやがる…本当はおれとの勝負が怖えんだろ!? そっから出て来やがれ!」
「…ふん、減らず口だけは一人前のようだな」


飛妖蛾がそう言い捨てた直後、球体から妖しい色をした電撃が放たれ突如足元を穿たれてしまう。思わず「うおっ!」と声を漏らすほど呆気なく吹き飛ばされた犬夜叉だが、もう一度地面に突き立てた鉄砕牙でなんとかその勢いを殺し押し、その場に留まってみせた。

しかし相手を倒す算段もないまま、自分はボロボロだ。これでは本当に勝機がない。そう感じた犬夜叉は苦悶の表情を滲ませながら「…おい、冥加じじい!」と首元にいるはずの彼へ呼び掛けた。


「なにか思い出せないか!? 奴の弱点とか、やっつける方法とか!?」


そう問いかけるものの、先ほどの一撃で黒焦げにされたらしい冥加は「ほへ〜…」と弱々しい声を漏らして宙吊りになっているだけ。会話すらままならないその姿に堪らず舌打ちをこぼすと、犬夜叉はすぐさま鉄砕牙を構え直し、もう一度強く地面を蹴って跳躍した。


「死にたくなかったら早く思い出せ!」


そう怒鳴りつけた直後、「うおっ!!」という強い悲鳴が上がる。突如真正面から放たれた電撃に打たれ、凄まじい痛みと痺れが体中を迸ったのだ。その様子を見据える飛妖蛾は薄く唇を開き、胡乱げな笑みを湛えてその声を響かせた。


「まだ分からぬか…私の力が。祝宴だ! 跡形もなく吹き飛ぶがいい」


その言葉の直後、飛妖蛾の両眼がカッと見開かれると同時に一層強力な衝撃波が放たれた。思わず目を見張った犬夜叉を正面から襲うその力は計り知れず、鉄砕牙で受け止めながらもその体は徐々に背後の彩音たちへと迫っていた。


「犬夜叉っ!!」
「うおーっ!!」


咄嗟に上げられた彩音の声すら掻き消すように犬夜叉の叫び声が響く。しかし彼の必死の抵抗も虚しく、衝撃波は犬夜叉ごと彩音たちへ襲い掛かった。激しい光と衝撃、轟音が響く中で一同の悲鳴が上がる。次の瞬間吹き飛ばされた犬夜叉と弥勒と珊瑚が共に遠く宙へと投げ出され、残る彩音とかごめと七宝は木々が生い茂る森の中へ弾き飛ばされてしまった。その時咄嗟に変化した七宝が風船状の体で二人を受け止め包み込むが、三人はそのまま木々の向こうへ転がるように見えなくなり、そこに残されたものはとうとう飛妖蛾の高らかな笑い声だけとなっていた。


「はははは! 集え! 我に従う者ども!! 生きとし生ける者の魂を我に献上せよ!」


高揚する声で放たれたその言葉。直後、それに応ずるように飛妖蛾の周囲の地面、いたるところからいくつもの巨大な木の根が姿を現した。地表を突き破り高く大きく現れたそれは、飛妖蛾を囲んで触手のように踊り狂う。やがて飛妖蛾を支える根が地響きを轟かせ天高く昇り始めると、周囲の根はそれを支えるように絡まりながら、その影を大きくしていった。

横へ広がっていく根は幹となり、生い茂る緑を纏う。いくつもの枝を伸ばし、緑を広げ、天へと上り続けるそれはやがて成長を留め、ひとつのひどく巨大な樹へと変貌を遂げてしまった。




――それを遠くに見つめる、小さな村の人間たち。明らかに不穏なそれに大人たちが顔を強張らせ汗を滲ませる中、子供たちは「わーっ!」「なになに?」とただ不思議そうな声を上げていた。その声に釣られるように、村人たちはこぞって姿を現しそれを見つめる。
するとそこへ降り注ぎ始めた、大量の細やかな粒子。視界を霞ませるほどのそれに驚く村人たちが空を仰ぐと、そこには空を埋め尽くさんばかりに飛来する大量の蛾がひどく鱗粉をまき散らすという異様な光景が広がっていた。


「気持ちわりー」
「なんだよこれー…」


見たこともないほどの大量の蛾を前にしてどよめく村人たち。あまりにも不気味なその光景に不安を隠し切れず身を寄せ合っていたが、次第に一人、また一人と気を失い倒れる者が現れ始める。それは瞬く間に広がりを見せ、鱗粉に覆われた村はいつしか村人全員が倒れ伏していた。そして眠るように安らかな顔を見せる村人たちの口から、魂のような光がフウ…と抜け出していく。

それはこの村だけに留まらず、隣の村やその隣の村、さらにその向こうへと徐々に範囲を広げて行き、全ての魂は飛妖蛾の元へと集まっていた。まるで、飛妖蛾に呼び寄せられるかのように。それらを球体へ吸収し、縮んでいたそれを再び大きく膨らませていく飛妖蛾は込み上げる笑みを露わにし、ただ高らかに不気味な笑い声を響かせていた。








「おお…時代樹! これは…一体…?」


異変に感付き外へ出てきた楓が見たものは、飛妖蛾を中心に成長した時代樹とそれへ向かっていく魂の大群。まるで流星群のように空を横切るそれらに顔をしかめていると、不意に背後から「なにかこっちへ来るぞ!」という緊迫した声が響かされた。


「!?」
「たくさんいるっ!」
「虫みたい!」


振り返った視線の先、遠く山の向こうから確かにこちらへ迫る不気味な影があった。それは飛妖蛾に従えられた無数の蛾たち。この村にも鱗粉を振り撒き村人たちの魂を奪おうというのだ。

迫りくるその影に危機を悟った楓は「いかん!」と声を漏らすと、すぐに手を組み合わせて強く念じ始める。すると途端に清らかな結界が村を包むよう広がり、そこへ近付く蛾たちを触れたものから次々に滅してみせた。それでも数多く存在する蛾たちは絶えず結界へ向かってくる。それに対抗するよう楓は無心で呪文を唱え、結界を維持し続けた。

そうしてついに全ての蛾を滅した結界は、やがて静かに溶けるよう消えていく。おかげで村人たちは誰一人倒れることなくやり過ごせたのだが、それほどの結界を張ることは容易でないため、顔を歪めた楓はふらつき、散り散りになった大量の蛾が転がる地面へ力なく膝を突いてしまった。


「楓さま…!?」
「一体なにが起ころうとしておるのだ…?」


村人に手を差し伸べられるも、得体のしれない不気味な状況に楓は不安な声を漏らすばかり。その時、小さくも確かな足音が届いた。一体誰か、警戒するように振り返ったそこには、弱々しく足を踏み出す見慣れた姿が――


「彩音っ!?」


思わず目を見張った。なぜなら彩音が今にも倒れてしまいそうなほど痛々しい姿でそこに立っていたからだ。それも彩音だけではない。彩音に肩を借りるかごめと、気を失ったままそれに抱かれる七宝の姿まであったのだ。
事情を知らない楓はひどく驚き、すぐさま二人へ駆け寄るべく立ち上がろうとした。だがその瞬間、かごめの意識がフ…と途絶えて。それにより二人は共に膝を突き、力なく地面へ倒れ伏してしまった。


「かごめ…!? 彩音!!」


楓が必死に声を掛けるが、未だ意識の残る彩音でさえ言葉を返すことができない。ただ弱り切った呼吸を繰り返し、やがて彼女も同様に意識を手放し、深く目を伏せてしまったのだった。

ただ静かに立ち上り始める蒼い光を、虚空へ溶かして。

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