いつか六花の降る屋敷(黒崎蘭丸)
I have done such a way of life, so I cannot hope in the future. …with you.



(1/2)
「おはやっぷー! ってあら珍しい朝から黒りん?」
事務所で月宮さんに会った。それからその隣にいる女と目が合った。
女は律儀に綺麗な会釈をした。
「……おはようございます、黒崎さん」
動かない表情筋のままそう言った。
おれは視線だけやって何も返さなかった。


「あ、弱ったな、一万円札しか入ってなかったよ」
聖川、お前持ってないの、とレンが言う。
「む、俺も確か小銭は……。すみません黒崎さん、どこかで崩して来ます」
「あーもういい、てめぇらはホント……万札しか入ってねぇってどういうことだよ」
おれは自分の財布を尻ポケットから取り出して自販機に小銭を入れた。ちらっと見えた財布の札の量にも顔をしかめる。落としたらどうすんだ。
「ランちゃんへのお礼のつもりだったのに、上手く行かないな」
「らしくねぇことするからだろ」
おれは自分の分のボタンを押し、「おら、好きなの押せ」と振り返る。
「いえそんな……! 俺達の事は気にせず」
「こういうのは受け取るのが礼儀ってものだろ? わかってないね」
「何だと? そもそも貴様が小銭を所持していないのに礼をなどと言い出すからこのようなことに」
「お前だって持ってなかったじゃないか」
「あーオイ! 戻ってきちまったじゃねぇか」
ガラガラと音を立てて落ちた小銭を、手を入れて取り出す。呆れて溜息をついた。
「すみません黒崎さん!」
生真面目に謝ってくる真斗に「いいからさっさと選べ」と言って、再び小銭を入れた。何だって自販機一つでこんなに手間取るんだ。
ピ、ピ、とボタンが押されたところで、レンが不意に、
「ランちゃんもう一ついいかな」
と言う。そして自分の後方を視線で示す。
廊下の向こうから歩いてきている姿が見えた。
黙っていたらガラガラ、と音がして釣り銭がまた出てきた。
「案外せっかちだねこの機械」
などとレンが言う。
「やあそこの可愛いレディ、喉は渇いてないかい?」
レンが向こうを振り向いて言う。
「え? レン…………」
おれを見て声を止める。丁寧に会釈をした。
「こんばんは……お疲れ様です」
長く真っ直ぐな髪が肩から滑り落ちる。
「ランちゃんが奢ってくれるって」
「神宮寺、お前はまた勝手に……」
「いいよねランちゃん」
レンがおれを振り向いて笑う。
女が暫く状況を推し量るようにレンやおれを見ていて、それから何か把握したのか声を上げた。
「いえ、そんな、申し訳な……」
「わかった。どれにすんだよ」
遮って口にした。
ソイツが暫くおれを見て、なおも遠慮しようと口を開いたところでレンがボタンを指差す。
「これがいいんじゃないかい? 確か好きだったよね」
レンが少し反応を伺ってから、特に返事を待たずにボタンを押した。ガコン、と音が鳴った。
「はい、熱いから気をつけな」
「あ……ありがとうございます」
ソイツはおれに向かって頭を下げて、レンからペットボトルを受け取った。
おれは何も返さなかった。
ソイツの瞳が揺れてから逸れる。


再会した時はどんなだったか。
いや、そんなのどうだっていい。
どうだっていい。
ポロン、ポロン、と鍵盤がなる。
グランドピアノの純粋な音が、静かな中に一音ずつ響いてゆく。
すっと消えた一拍の隙間に、ウッドベースの音色を滑り込ませた。
ピアノと、それから様々な音がバスの音色に絡みついて進んでいく。
そうして次々と消え入っていき、最後に残ったピアノの音も鳴らなくなった後、バスの音色も静かに息を引き取った。
「……はい! OKです!」
緊張の糸がパッと緩み、雑多な音が場に溢れる。
弓を下げて、遠くの方を見ると、グランドピアノの前に座ったまま鍵盤を見つめている姿があった。
睫毛を伏せたその様には何か音になるものがある。
再会した時の事は、どうだっていいし語りたくはないが、初めてコイツの音楽を聴いたときの事は、見ぬふりはできなかった。
正直呻る熱はなかった。
けれど、違う何かはある。
空っぽでも安っぽくも薄っぺらでもなかった。そんな音だった。
コイツの持つ儚い容姿と、よく合っていた。
それをわかって、オヤジは多分コイツにバラードばっか歌わせてる。バラエティじゃなくドラマや映画に出させてる。
「黒崎さん、お疲れ様でーす」
スタッフに返事を返しながら自分も楽器の片付けをする。
楽器を背負ったところで「黒崎さん、」と声がかかった。声でわかる。
「……セッションの機会を頂けて嬉しかったです、ありがとうございます。…………お疲れ様です」
おれが何も言わないからか、ソイツはそう文末を結んで頭を下げた。
「…………」
視線で答えたように見せて、そのまま足を進めた。
関係がどうであろうと、音楽だけにはそういう俗っぽいことを持ち込みたくはない。それだけには、正直でいたい。
けれど考え物でもあるのかもしれない。まあもう終わったからいい、が。
決別したはずが、案外しきれずに残っている。
コイツらもそうだな。
鍋の向こう側でまた何か言い合いをしている2人を見ながら、おれは肉に白菜を絡めて口に運んだ。
「おい、食わねえなら全部食っちまうぞ」
「ランちゃんが言うと冗談に聞こえないよ」
レンが真斗からこちらに視線を向けて少し笑った。
別に冗談じゃねぇからな、と内心で呟きながら外面はまた肉を口に入れた(それに忙しくて呟かなかったとも言える)。
番組で共演した流れで飯に来ていた。
「そういえば黒崎さん、今度プロモーションビデオの撮影でコントラバスを演奏されるとお聞きしました」
「あ? あー今日撮ったやつだな」
「なんと!」と反応した真斗はすぐに「公開されるのが楽しみです」と顔をほころばせて言う。レンが少し考えるような仕草をしたあと笑みを浮かべて顔を上げる。
「それってもしかして、名前をセッションに呼んだらしいそれかな?」
レンがわざとらしくにこにこ微笑むから、おれは、返しが少し強くなった。
「だから何だよ」
「いや? 名前、随分嬉しそうに言ってたからさ。それに、今朝会ったとき凄く緊張してたから、一体何があるんだろうって少し気になってたんだ」
レンの言葉におれは何も返さずに肉を口に入れた。
「なるほど、苗字とセッションですか」
「楽しみだね」
おれは箸を何度も動かしていたから、打った舌打ちは内で留まり外に出る事はない。
「オイレン水」
「ハイハイ」とレンは返事をして、ピッチャーを取る。
おれに手渡しながら口を開いた。
「そういえば、彼女今日は食事らしいよ」
隙あらば口を開くな。おれは眉を寄せてピッチャーを少し乱暴に受け取った。つーかだから何だよ。
許婚いいなづけとね」
注いでいたグラスの氷がざらっと音を立てた。
「通りで今日は迎えが来ていたはずだ」
真斗が頷きながら言う。
「その内に結婚しちゃったりしてね」
真斗がレンの言葉に少し考えるように視線を落とした。おれはそれらを尻目に鍋に箸を伸ばす。
「……しかし、俺にはどうにも苗字が納得しているようには見えない」
「そりゃそうさ。許婚なんて本人達にしちゃあ得てして不幸なものでしかないよ。自分以外の人間が身勝手に決めたものなんて、ロマンスとは正反対じゃない」
口を開けて肉を食った。おれは目の前の皿に意識をやっていた。
「ねぇ? ランちゃん」
レンがわざとらしく振る。
おれは箸を口に運んで、それから咀嚼し終わるまでレンは笑みを浮かべておれを見ているから、ついにゴクと呑み終わる。
「知らねえ、関係ねえ。」
言い放ってレンを少し睨んでから、水の揺れるグラスに口をつけた。
「なにか思うところがあったり?」
「しねえ」
自分の器を持って鍋の横のおたまを取った。大分食べたがろくに味わっていなかったことに気がついて舌打ちが出る。
「許婚と食事とか、相変わらず大層なご身分だな」
鍋の出汁を掬いながら言った。沈めたおたまに汁が流れ込み渦を巻いた。
「てめぇらもなあ! さっきから喋ってばっかで全然食わねえじゃねえか」
そう言えば真斗は「すみません黒崎さん! 頂きます!」と言い、レンは「じゃあ遠慮なく」と笑う。
おれはふんと息を吐いて器を置いた。箸で肉を挟んで口に入れる。
アイツは今頃、ちまちま出てくる料理をナイフとフォークでさらに小さく切り取りながら口に運んでいるのだろう。
間違ってもこんな食事はしてないんだろう。
どうだっていいが。


アパートに帰って玄関で靴を脱ぐ。
電気をつけようと思い、いやもう今日はこのまま寝ちまおうと手を下ろす。
そのまま部屋に入って、ソファに仰向けに寝転がった。
「…………」
目を閉じてゆっくり息を吐く。それから舌打ちを一つ打った。
レンの奴、ここのところうるせぇくらいにアイツの名前を出す。
今までもずっとそんな感じではあったが最近は以前に増して顕著だ。正直鬱陶しいったらねぇ。
家や親や金の話じゃ、折角の飯が不味くなる。
思い出したくもねぇのに。
決別したはずの過去は、何故かずっと後ろについてくる。
ゆっくり息を吐いて、そのまま眠りに向かった。

ガキの頃のパーティーなんざ途轍もなくつまらない時間で、その間をどう暇潰すかに子供は躍起になっていた。
パーティーはつまらないが飯は美味かった。
アイツはどう暇を潰していたのか。
何度も同じ様なパーティーで顔を合わせて、自然と覚えていく姿。アイツは確かいつも母親の隣にくっついていた。
自分でそうしているのか、母親がそう言いつけているのかわからないが、様々な人に挨拶を交わす母親について回り、あどけない顔で笑ってお辞儀をする。
よく出来た子供だった。三つか四つほど歳が下だが、女ということもあってかしっかりしていた。
『蘭丸さん』と呼んだ。
子供が子供にそんな呼び方をするのがおかしくて、呼ばれるたびに大人に呼ばれる時とは違うくすぐったい気分になった。
『なんかちげえな……あ、手が逆か』
ソイツの姿を眺めていたらやっと気がついて、ソイツの後ろに回った。
『おまえ左利きか?』
『ううん、右』
床にぺたんと座り込むソイツの後ろに立膝をついて、後ろから腕を伸ばす。
確認したら、やっぱりフレットを押さえる腕とストロークする腕が逆だった。
『ちょっと貸せ』
子供にすると大きなベースのネックと胴体を持って、くるりと向きを変えた。
『ほら、持ってみろ……』
顔を下げたら、存外近い距離にあった。
まだ背の伸びる前のおれは、四つ離れたソイツの小さな身体と、天と地ほどの差をつくれているわけでもなかった。
やらけぇ、と思った。
おれが動いた記憶はなかったから、ソイツが動いたのだ。小さな唇が、触れていた。
ソイツは顔を離すと俯いて、おれの服をぎゅっと掴んだ。
震えていたような気がした。
今考えれば、小学生のガキに何を教えてたんだ。アイツの家は狂ってた。
『……ベース弾くだろ』
おれが言ったらソイツはバッと顔を上げて、何度も頷いた。
ベースに夢中だったおれは毎回ソイツにそればかり教えていたし、だからおれたちの普段はベースであって、普段通りにするとソイツは楽しそうに笑った。
だがたまに何かに背中を突かれるように言えないような事をしてきて、それを何も言わずに受け入れてやっていた。そうするとソイツの緊張したような固さが消えるから。
仲がいいですねと言われた。
それを言われるたびにアイツの母親は嬉しそうにした。
財閥が没落して、全てがなくなったあの日から、アイツに連絡はつかなくなった。
ああそういう事だったんだな、と、何人もの人間に思ったことをアイツにも思った。
寒い土地だ雪が降っていた。

ヴー、ヴー、ヴー、という振動の音で目が覚めた。
そう言えば携帯も突っ込んだまま眠ってしまっていたようで、ポケットの中で振動を繰り返す。
開くと同時に時刻を確認すればてっぺんを回っている。
おれは暫くその文字を見つめていた。
理由は淡白だ。仕事の話だった場合、取らないわけにはいかないだろうと考えたからだ。
ボタンを押して、何かいう前に声が飛び込んできた。
『迎えに来て』
おれは天井を眺め、暫くそのままでいた。
随分と、切羽詰まった声だった。外か何処なのか、背景にはざわめきが鳴っている。
『…………レン……?』
不安げな声が聞こえた。おれは少し息を吸った。
「相手間違ってんぞ」
時が止まったようだった。何も聞こえずにただ周囲の喧騒は取り取りに動いていた。
『…………あ……ごめんなさいすみません』
動揺が電話越しでも伝わっていた。
「…………」
『…………』
意味のない時間が流れていた。
随分と長かったように思う。
プツッ、と急にそんな音がして、あとはツーツーツー……と単調な音が鳴り続けるだけだった。
おれはゆっくり耳から離した。
携帯を床に離して、そのまま深く目を瞑った。


ワザと、聴かねぇのもおかしいと思い、封を開けただけのCDがある。ただの一度も、ハードケースを開いたことすらない。
「…………そんなに見つめられると照れるなあ」
レンが苦笑いをしておれを振り返った。
「あ?」
「寝癖でもついてた?」
レンが楽屋の鏡の前で自分の髪を軽く触る。
「……おまえ、」
言いかけるとレンが「なんだい? ランちゃん」とすぐに振り返った。首を傾げておれを見ている。犬か。
「……何でもねー」
溜息を吐きながら言えば「そうかい?」とレンは不思議そうな顔をした。
「ん?」
ヴーヴー、とレンの携帯が音を立てたのか、レンがポケットに手を入れる。
メールだったのか、そのままタタとスマホを操作した。
「誰からだ」
おれが問えば、レンは顔を上げて少し目を見開いた。
「珍しいね。ランちゃんいつもは仕事ならともかく、オレたちのプライベートには無関心なのに」
言われて確かにそうだと思い、誤魔化すように舌打ちを打った。
「いいから言え。ただの気まぐれだろ」
「あはは、だとしても嬉しいよ、ランちゃんに気にかけてもらえるなんてね」
レンはそう言って人懐っこく笑ったあと、「でも……」と携帯を口元に当てた。
少し目を細める。
「相手は言えないな。ゴメンね」
何かを含んだ声色で言った。
すぐにわかっちまうのが恨めしい。一体何がしたいんだコイツは。しつこいくらい名前を出してくるかと思えば急に隠したりして。
はあ、と息を吐くと、レンは少し眉を下げて笑った。らしくなく格好のつかない笑顔だった。
その日の帰りに事務所に寄った。
台本や資料など諸々を受け取り廊下を歩いていたら、会議室から出てきたソイツの目と目が合った。
「あ……お疲れ様です……」
ソイツはいつも通りそう呟いた後、視線を落とした。
「…………」
おれは何も返さずにソイツを一瞥した。
「……どけ」
それだけ言うとソイツは顔を上げて、それから「はい……」と静かに言い、開けたままだった扉を閉めた。
垣間見えた会議室には誰もおらず、恐らく打ち合わせか何かの後残って雑務でもしていたんだろう。ソイツの腕の中には台本と単行本、ペンケースがあった。
さっさと立ち去ればいいものの、おれは物思いにふけっていて少しそこに足を止めていた。
「……あの、」
ソイツが口を開いた瞬間、さっさと帰りたいという思い一択になり、足を踏み出そうとする。
が、何か言いかけたのが確実に聞こえている距離でさっさと歩き出したのでは、流石にどうなのか。
足を止めたままただ視線をやった。ソイツの瞳が少し揺れた気がした。
「あの……新曲、聴きました……素晴らしかったです」
おれはただ、ソイツを見下ろしていた。
もう随分と背が高くなって、視線すら、簡単には交わらない。
「もう意味ねぇぞ」
無意識に、か、意図的に、か、曖昧でわからなかった。どちらにしたい気もした。
ソイツの動きが確かに止まっていた。俯いたままそのままだった。
「……てめぇにやれるようなもんは、おれはもう持ってねぇ。だから、褒めたって意味はない、何一つてめぇの得にならねぇからな」
おれはフラと視線を外した。それから足を踏み出した。
後ろから何か聞こえてくることはなかった。



「……何かあったのかい?」
名前の髪を優しく梳かしながら言う。
ソファに並んで座り、瞼を閉じてオレに身を預けるようにしていた名前が、ゆっくり瞼を開ける。
首を振った。
「……何でもない」
オレは髪を撫でていた手を離して、肩に移した。そっと触れて、抱き寄せる。ギュッとより彼女の身体が俺の胸に沈む。
「何でもない、ねぇ? オレが何年キミを見てきたと思ってるのかな」
肩の手を唇へ移して、指でそっと撫でる。
「嘘をつくなんて……いけない子だね。オレはそんな風に教えたつもりはないよ」
暗い部屋の、オレンジ色の照明。それを微かに乗せる睫毛が、細かに震える。
「…………」
指が外れて唇が触れた。オレはキスをするその顔を見ていた。
「…………」
はあ、とオレは溜息にも似た息を吐き出す。その誤魔化しが、誰にでも通じるわけじゃないって、わかってやってないんだからギルティだねぇ。
「……レン……?」
「…………」
彼女の顎に指を添えて、瞼を閉じて口づけをした。
舌を絡めて、深く、長く。
唇を艶めかしく、音を立てて離せば、至近距離に睫毛を揺らす顔がある。
オレは内心で視線を逸らして、外面では小さく笑って、彼女の手を引いて立ち上がる。
ベッドに深く身を沈めると、綺麗な長い髪が白いシーツに散らばった。
その様を、数秒眺める。
それからすっと手を伸ばした。
ビクッと肩が跳ねて、手を止める。
目が合って、視線が逸れた。
オレは眉をひそめて彼女を見つめた。
「…………」
彼女の上に自分の身体を密着させ、顔を近づける。
シャツの第1ボタンを片手で外して、そのまま襟元を広げる。
首元を少しさすってから、再びボタンに手を掛けた。
そのままシャツを暴いて白い肌色が露わになる。
手を浮かしてするっとスカートの中に手を入れれば、細い肩が跳ねた。
瞳を揺らして目を合わせない。
「……そう、誰かがこんな下品な触り方をお前にしたんだね」
視線を逸らし続ける彼女に顔を近づけた。
「どこの男なの、それは。キミを慰める他の誰かが現れたんなら、オレはお役御免かな」
名前はオレに視線を戻した。目が合う。
「レン……そうじゃ、なくて……」
ああごめんね。そんなことわかっているのに言わせている。別にオレの代わりかどうかなんて聞くべきことではない、キミが悲しそうな顔をする理由が知りたかっただけなのさ。それなのに、オレは私情を上手く絡めて、素直なままのキミに誘導尋問をしている。
「…………昨日……、」
昨日、とオレは口の中で繰り返す。
昨日といったら、オレはランちゃんと聖川と夕食を食べに行っていて、名前は……。
「…………結婚するまで手は出さないって約束じゃなかった?」
オレは顔を歪めた。名前は視線をふらりと逸らした。
睫毛が震えている。
オレは息を吐いて、その小さな身体の上に身を預けた。目を閉じると、とくん、とくん、と鼓動の音が聞こえる。
「……約束の一つも守れない男なんて、やめておきなよって、……そんな話ならどれだけ楽だろうね……」
フラと視線を上げると名前は苦しげに眉を歪めてオレを見ていて、オレは無理に少し笑って見せた。
ベッドの軋む音を立てて、キスをする。ん、と唇を離す。
「……まあ、いいかな。さぁ、目を閉じて」
近い距離で額を合わせて、前髪を横に押さえつけながら囁くように言う。
「一晩で……オレが全部塗り替えてあげるから」
啄ばむようなキスをして、
「安心して全部を、オレに任すといいよ」
と囁く。
名前の最初の相手が誰で、昨晩誰に犯されたのかなんて些細なことだ。
一番身体を重ねたのはきっとオレで、ベースはオレが全て教えたんだからね。
いつからこうなっちゃたかな。初めは、危なっかしかった名前を助けてあげているという心地で……兄みたいな感覚で、オレにとってはあくまでままごとで、それなのに。
瞼を閉じて胸のあたりに優しく口づけをした。ランちゃんのデモテープを渡したりなんかしたのを、今は後悔している。
目を閉じる彼女は美しい。
だけどもうすぐ、たった一人の男の物になる。
睫毛が細かに震えていた。オレは顔を寄せて、瞼にそっとキスをした。



「お待たせ」
そう言ってにこにこ笑ってやって来たレンは、一人ではなかった。
隣に女を連れていて、やましさを感じさせずごく自然に肩を抱いていた。
女は目を見開いて固まっていた。それからレンの顔を見上げる。
「大丈夫だって。ね、ランちゃん、彼女もいいよね? 男三人で食べてばかりじゃあ、色がないってものじゃない」
レンはおれへ笑みを浮かべる。おれは眉を寄せてレンを見ていた。
「神宮寺、黒崎さんに何も言っていなかったのか?」
真斗が声を上げる。
レンの隣でおれを見つめるソイツは、瞳を揺らしていて今にも帰りますと言って駆けていきそうな雰囲気だった。
「……あのっ、」
「来ちまったもんは仕方ねぇだろ」
遮るように被さった声に、レンは「さっすがランちゃん懐が深い」と笑みを浮かべ、「さ、レディ」とソイツの肩を抱く。
向かい同士に座っていたおれと真斗の隣にそれぞれ2人が座った。
おれの隣にレン、真斗の隣にソイツだ。
「あ、このお肉美味しいね」
レンが何を言っても裏があるとしか思えずに、おれは苦い顔をしてフォークを口に持っていった。
「そういえば、セッションはどの様な感じでしたか」
「あ?」と真斗の言葉に顔を上げる。気使ってんのか、いや単純に聞いてみたかったってどこだろうな。真斗は怪訝な空気に気付いてんのかも怪しい。
「おっ、いいね、オレもその話聞きたかったんだ。ランちゃんからオファーしたんだよね」
レンがにこにこ聞いてくるからおれは眉間にしわを寄せる。
「……オファーっつーか、ピアノだけスケジュールとかの都合で見つかんねぇから、知り合いでいい奴いねぇかって聞かれて」
「それでも、嬉しかったです……」
ソイツがおれに視線を向けて、けれども言い終わる前に段々と下げながら。
「……そうかよ」
それだけ言って飯を口に入れた。ソイツも小さい口で食べている。
「ランちゃんのロックに名前の儚さか、面白いよね」
「ああ、確かに。黒崎さんも楽器を演奏される際は繊細な部分も持たれる。二人は意外と合うのやもしれんな」
真斗が嬉しそうに言うと、レンが隣で「やるねぇ」とおれにしか聞こえないような声で小さく呟く。おれはレンの時より、より顔を歪めることになる。
レンが「まっでも、」と切り替えるように口を開く。
「色々やりたい事をやっておくのはいいかもね。結婚しちゃったら、何かと自由も効かなくなるかもしれないし」
カツン、とレンのナイフが肉を切って鉄板に着き音がなる。
「レン、」
ソイツがどこか焦ったように名前を呼ぶ。
「? どうかしたのか」
真斗が少し不思議そうな顔をして隣のソイツに問う。
ソイツは瞳を揺らして視線を逸らす。
「……ごめん何でもない」
「もうすぐ結婚するんだよね? 3ヶ月もないんだっけ」
ソイツが目を見開いてレンを見る。
「なに? 本当か? そんなすぐに……お前はまだ成人もしてないだろう」
レンはソイツに笑みを返しただけだった。
揺れた瞳がこっちを見た。
目が合うとすぐに逸れた。
「アイドルの活動はどうするのだ、まさか辞めるなんてことは」
「続けるよ、……ちゃんと理解のある人だから……」
「そうか……それは良かった」と真斗は呟いて視線を下げた。
会計を終えて店を出ると、レンが扉のすぐそこにいておれに気がつく。
「ご馳走さま、美味しかったよ」
「そりゃ良かったな」
おれは少し顔を歪めながら言う。
真斗達は少し離れたところにいて、止まっている黒塗りの高級車の運転手と何か話をしている。見たことある顔だ、真斗のとこか。
「ねぇランちゃん」
「あ?」と振り返る。
レンはおれから、向こうの二人へと視線を向けた。
「お願いがあるんだ」
ロクなことじゃねえのがもうわかりきっていて、だがレンが、おれに視線をやるから。眉を歪めて、苦しそうな顔をするから。足蹴にできなかった。
「今日さ、あいつを送ってやってくれないかな」
おれは黙ってレンを見ていた。レンは、眉を下げて情けなく笑った後、遠くを、向こうの二人を眺めて硬い表情をした。
「奥さんも頑張ったよね。力のある財閥でね、一財閥の三男坊が、どうにかできる相手じゃないんだ」
レンは息を吐く。漆黒の夜の背景に白く渦を巻いてバラけた。
「だからせめて……最後にさ、いい思い出をつくってやってほしい」
遠くの灯りが滲んでいる。車の走行音がやってきては過ぎていく。
「…………その役目はおれじゃねぇだろ」
「ランちゃんさ」
レンはすぐにそう言って、それから無理矢理に笑ったような顔をした。
それからゆっくり力を抜いて、瞼を閉じる。「オレと同じ事を、ランちゃんが言うなら救えるんだ。……レディっていうのは、そういう浅ましくて美しい生き物さ」
最後の台詞を言ったときのレンはもう普段のにこにこした笑みで笑っていて、「じゃ、行こうか」と颯爽と歩き出した。
寒い夜だった。
こんな日はもしかしたら、雪が降っているかもしれない。


雪の降る白い日だった。
それは親父が死んでからそう経っていない日だった。
どうやって来たのかそこに立っていた。鼻の頭と指の先が真っ赤になっていた。
黙って通り過ぎても声は掛からなかった。数メートル歩いて立ち止まった。
『……ついて来い』
ソイツはなにも言わずに黙っておれの後を歩いた。
二人分の足跡が、薄っすらと積もった白い地面に黒いアスファルトを露見させた。
苛立っていた。梁谷に、親父に、自分に。
その怒りを、どうすればいいかわからなかった。
ソイツへぶちまけてしまった。何をしたかも覚えてねぇくらい、怒りに任せて、乱暴に、身体を繋げた。
ソイツは泣きもしなければ、抗う言葉一つ出さなかった。
コイツを見ると思い出す。
自分の甘ったれた感情も、言動も、消し去りたい、全てを。
タクシーは静かに走っていた。
おれは頬杖をついて何も見えない窓の外を眺めていた。
窓に映ったソイツは少し俯き加減にただ座っていた。
静かな沈黙だけが場を支配していた。
「ここで良かったですか」
運転手がミラー越しに言う。
「ああ。いくらだ」
料金を払って運転手に渡すと、運転手が確認してドアを開ける。
「……ご馳走さまでした」
「てめぇも降りんだよ」
動きを止めたソイツは車の中からおれを見上げる。
手を伸ばした。腕を掴んで引きずるように降ろした。
扉が閉まってタクシーが走り去っていった。古びたアパートの前は、この時間には人も通らずただ街頭に蛾がちらついているだけだ。
「…………」
黙って歩き出せば、暫くして足音が増える。
コートのポケットに手を入れながら歩いた。
カンカンと音を立てる階段を上がって、部屋の前に行けば猫がたむろしていた。
「……今日は先客がいんだよ」
そう呟きながら猫を追い払って、部屋の鍵を開けた。
ガチャンッ、と鍵が回った。
玄関に足を入れ、黙ったまま少し後ろを振り返ってドアを押さえておいてやった。
ソイツが敷居のところにつま先を置いたまま少し躊躇して、けれどもおれがずっとドアを押さえたまま視線をやっていると、意を決したように足を踏み入れた。
コツ、と簡単な音が鳴ってから暫くして、パタン、とドアは閉まった。

部屋の中に入る。
適当に座れ、と言うとソイツはテーブル周りの、扉に一番近い場所へ、床に座った。
おれはソファに座る。
暫く静かで、茶でも淹れるかと立ち上がった。
「あの……」
キッチンに行きかけると背中に声がかかった。
振り向くと、ソイツは座っている上に俯いているから、顔は見えなかった。
「…………」
「…………」
どちらも何も言わずに、秒針の音だけが狭い部屋に響く。
おれはフラと顔を戻して、背を向けキッチンへ歩を進める。
服が引っ張られる感じがした。
「ら…………蘭丸、さん…………」
服の背中の裾が、ぎゅっと握られていた。
立ったって随分と低い所にある顔は俯いている。
震えて。
上を向かせてキスをした。
顎に引っかけた指を、ぐっとさらに上向けて口を押し付ける。
身長差で、ソイツは上を向いて、おれは下を向いて、そうしないとキスにならない。
唇を離せば艶めかしく音が立って、ソイツの瞳は蛍光灯を反射してキラキラと揺れていた。
ソファに雪崩れ込むように倒れた。
ソイツを組み敷いて、キスをする。
顔を離すと、ソイツの上には影が落ちていて、ソイツの身体の全てはおれの大きなそれの下にすっぽり収まっていた。
白いブラウスのボタンを、外す。
静かに順に外れていき、すっと手を入れて、肩から剥がす。
露わになった身体は、知っているものとはもう全く違った。
胸の膨らみも、滑らかな肌も、細く長い腕も、何もかもが変わっていた。
おれはただ、それを見下ろしていた。
「……嫌だったら、言えよ」
ソイツの頭上から言葉を落とす。
布の擦れる音がした。
ソイツは首を振った。
水滴の膜が張って、今にも零れ落ちそうだった。
「……蘭丸、さん…………」
震えてもう、聞こえないくらいの声だった。
ずっと、そうかずっとコイツはあの時のまま。
ああならば、おれは逃げ回りながら、どれだけコイツを傷つけたのだろう。
信じてやれないんだ、おれは。そういう人間に、なっちまった。
顔を近づけてキスをした。
ゆっくり、確かめ合うように重ねた。
ソイツが自分の手の平を握りしめているから、おれはそれを指で開かせて手首を掴み、自分の胸に持っていった。
ソイツの手が、ぎゅっとおれの服を握りしめた。
おれは顔を寄せて、深いキスをした。
だがもう、全ては遅い。


next→(2/2)
prev next
back top
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -