いつか六花の降る屋敷(黒崎蘭丸)
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事務所の廊下ですれ違った。
「……おはようございます」
「……おう」
それだけ交わしてどちらからともなく歩き出す。
それでいい。
事務所で日向さんを待っていたら、嶺二がやってきてペチャクチャ話しをしだす。
適当に相槌を返しながらソファに座っていれば、テーブルの傍に乱雑に置かれたいくつかの雑誌のうちの一つに目が留まる。
「あっ、それ名前ちゃん? えーっと今から……2年前だ! デビュー当時のじゃない?」
嶺二が目ざとく気がついて、雑誌を引き出しそんなことを言いはじめる。
「『歌姫苗字名前を暴く!! ロングインタビュー!』だって!」
嶺二が表紙の写真の横の文字を読み上げ、ペラペラとページをめくる。嶺二が立ったまま読むせいでおれには表紙しか見えない。淡い光と流れるように吹く風で、雰囲気のある写真だった。
「あっ、いたいたれいちゃーんお待たせっ」
事務所に入ってきた月宮先輩が嶺二に声を掛ける。「はーい!」と嶺二は返事をした。
パサッと、テーブルの上に雑誌が置かれた。
「じゃあね愛しのランラン、また後でっ」
パチンとウインクをするから「さっさと行けよ」と顔をしかめる。
嶺二が居なくなった事務所で、会議室の予約確認などを取る雑音を脇目に雑誌に手を伸ばした。
パラパラとめくっていると確かに数ページに渡って掲載されていた。たまに挟まる写真のどれもが目を惹くもので、誰が撮ったんだと最後のカメラマンの名前を見たりした。
――そうなんですね。では苗字さんにとって音楽とは何ですか?
苗字: そうですね……うーん、その……大切なものには、違いないと思います。……本当を言うと、大事な方との唯一の繋がりだと思っていて。
――大事な方?
苗字: え? えっと……子供の頃の、その……知り合いで……。
――あまり突っこまないほうが良さそうですね?(笑) じゃあ歌うことは好きですか?
苗字: はい、それは、多分間違いなく。


久々に飯でもと誘われてやってきた音也の部屋には、ピアノにバイオリンの音を絡めたバラードがかかっていた。
何かしていたようで、テーブルの上には赤ペンやら何やらが散らばっている。
「ゴメンねちょっと散らかってて」
音也がエヘヘと頭を掻く。
小さなスピーカーから声が聞こえ初めて知る。
「……らしくねぇもんかけてんな」
「ん? ああこれ?」
音也が首を傾けてつんとテーブルの上の小さなスピーカーを指で小突いた。
「今度ドラマのオーディションを受けるんだけど、それが結構しんみりしたドラマなんだよねー。俺が受けるのは明るい役なんだけど、れいちゃんに相談したら全体の雰囲気も意識するべきだーってアドバイス貰って」
おれはテーブルの上にスーパーの袋を置きながら言う。
「んで? 何でこの曲だよ」
「しんみりって言ったら苗字かなあって。学園時代からそんなイメージなんだよね。あっ、蘭丸先輩知ってる? 苗字文化祭で……」
コートを脱いで椅子に引っ掛けながら音也の脈絡のない話を聞いていた。
「それでさ……」
プツッ、と急に音が切れて、テーブルの上でスマホがヴーヴーと小刻みに動く。
「ん? あ、れいちゃん? ちょっと出てもいい?」
音也におうと返事をすると、音也は携帯を耳に当てて「もしもしれいちゃん? どうしたの」と言う。
どうやらスピーカーはワイヤレスで携帯と繋いであったらしく、通話中の今はスピーカーからは何も聞こえない。
おれは何も鳴らさないスピーカーの、無数の穴をただ眺めていた。



事務所に行くと、親父の部屋から日向さんとソイツが出てきた。
「おう黒崎、おっさんに用事か?」
「……たまたま通りかかっただけっす」
日向さんに答えながら、ソイツを見た。会った瞬間に強く揺れた瞳。心なしか日向さんも浮かない顔に見える。
「お疲れ様です……」
「…………」
おれは視線の合わないソイツを見ていた。
「……すみません、この後打ち合わせがあって」
「おうそうか。……わかった」
日向さんは少し顔を歪めて言った。
「そうだ、まだ誰かに話したりするなよ。正式に決定してから、段取りもあるだろうし……」
「わかりました」
ソイツはおれと日向さんに綺麗に一礼をして廊下を歩いて行った。
日向さんが深く溜息をついた。
「何かあったんすか」
おれが問うと日向さんは、ハッとしたように顔を上げた。
「ああいや、何でもねぇんだ。何でもねぇっつうか……今は何とも言えなくてな」
悪い、と謝る日向さんは、どこか難しい顔をしていた。いや、とだけ返した。


「……! おい、本当にそう言ったのか?」
「わからない……俺も人づてに聞いたものだ……」
楽屋に入るとレンが真斗に掴みかかるようにして、珍しく声を荒げていた。
「! 黒崎さん、」
真斗がおれに気がついて視線を向ける。
レンはいつもの涼しい顔はどこへ行ったのか、酷い顔をしておれを見た。
おれは二人の様子に怪訝な顔をしながらベースを壁際に降ろした。
「んだよ、どうした」
「…………」
今度は真斗の方が珍しく黙ってしまって、おれは流石に眉をひそめる。
「あいつが、アイドルを辞めるんだってさ」
目を見開いた。は? と間抜けな声が口から出た。
「神宮寺! まだ確かとは言えん。財閥の関係者の噂話を立ち聞きしただけだ」
「でもあり得ない話じゃないだろ。約束なんて平気で破る男だよ」
レンはそう吐き捨てると顔を歪めて床を睨んだ。
「…………」
簡単には消えない沈黙が降りた。
破ったのは真斗の携帯の音で、ハッと真斗がポケットから取り出す。
画面を開いて苦い顔をした。
「……調べさせていたのが、……どうやら事実のようだ」
レンの顔が歪んでそれから震える息が吐き出された。
カチッ、と楽屋の時計の分針が動いた。


嫌なら自分で抗えよ、と思う。
だが、アイツがそんなことをするはずがないこともわかっている。
そうやって生きてきたんだ、人形のように座って、言われたままに。
それならそれまでだ。
おれも……助けてやるような人間にはなれなかった。築き上げてきたものすべてを捨てて、他人に賭けるような真似はできるはずがない。
生き方が、そうさせる。
もう二度と交わらないと、言う。
「おい嶺二……」
撮影の休憩中にどこかへ消えた嶺二を探していれば、別のスタジオの入り口でスタッフと小声で何かやりとりしているのが見えた。
「あ、ランラーン」
小声で叫んで手を振っておれを呼ぶ。女のスタッフと何やら会話をして笑っておれの元に走ってくる。
「ねえスッゴイ綺麗だよ!」
何がだよ、と顔を歪めながら、嶺二が引っ張る腕が鬱陶しくて振り払った。
特に気にも留めず「行こうよ! 見学許可ゲットしたから!」と前方を指差して歩いて行く。
一体何なんだと溜息をつきつつ、撮影再開にはまだ時間がかかりそうだったし、一応つきやってやることにする。
開け放たれた入り口からはスタッフやクライアントなどの背中が黒く見えた。
照明が明るいからだ。
アクリル樹脂の透明な器体のクリスタルグランドピアノ。中のハンマーなどの造りが透けて見える。そのピアノが中心に置かれた一つの部屋のようなセット。
真っ白な床と壁には、霞草が埋め尽くすように留められていた。細く枝のような茎と、白い幾多もの小花が広がっていた。
シャッター音が響く。何度も。
純白のドレス。
余分な飾りもない、真っ直ぐ裾が広がる純白のドレス。その代わりに、その生地にはここからみても光るものがあるほど、繊細に施された模様が浮かんでいた。
「……見とれちゃうよね」
隣でポツリと嶺二が言った。
プロデューサーが何やら指示をだし、スタッフがセットに近づきソイツにベールを掛ける。
薄く透いたそれは光を淡く通し、空気に浮かべたように柔らかく裾まで流れていた。
カメラマンが再びカメラを覗き込んで、シャッター音が聞こえ始める。指示のもと、少しずつ表情が変わる。
「じゃあ次映像いきまーす」
慌ただしく現場が動く。
その時後方で見ていたクライアントが動いて、プロデューサーとカメラマンに何やら言いに行った。
クライアントの言葉に、プロデューサー達は顎に手を当てて紙面を見ながら難しい顔をする。
それから微かに頷いたと思うと、ほかのスタッフに指示を出す。
「苗字ちゃーん、ちょっと笑ってみてくれるー?」
プロデューサーの言葉にソイツは少し動きを止めて、「はい」と頷いた。
「じゃあまず正面ねー」とプロデューサーがカメラマンの後ろで手をあげる。
ソイツがそちらを真っ直ぐに向いて、表情を浮かべる。
「もうちょっと笑ってみようかー、うん、一回全力で笑ってみてー、そう、笑顔笑顔ー、じゃあいくよー」
3、2、1……と掛け声を聞きながら、おれは視線を下げて瞼を閉じた。
どんな仕打ちだ。
爪先の方向を変え、背を向けようとした。
刹那、目が合った。
ソイツの目が見開かれ、一瞬で表情が一転した。
おれは足を止めていた。ただソイツを見ていた。
「カット!」
声がかかるとパッと視線が外れた。揺れた瞳が下に落ちる。
そのまま浮かない顔で俯くソイツをよそに、プロデューサーとカメラマンは何やら無言で考え込んで、顔を上げるとクライアントの元に向かった。
「びっくりした〜今の表情、思わず息止めちゃった」
「あの子やっぱり雰囲気あるよな〜」
前にいたスタッフ達が話している小声が聞こえた。
「今ぼくらの方見てなかった?」
声に顔を向けると、嶺二が意味ありげに眉を下げて笑っていた。
おれは視線を下げて舌打ちをすると、背中を向けて歩きだした。
「ランラン行っちゃうの?」
小声で嶺二が聞いてくる。答えなければ「もー」と嶺二も後をついてきた。
スタジオを出ると後ろから、「やっぱり悲恋テイストで行きまーす!」とプロデューサーの指示が聞こえた。


パサッ、と机の目の前に写真が落とされた。
おれは読んでいた雑誌から顔を上げて、眉を寄せてそれを見た。
見慣れた二つの背中が寄り添って歩いているところだった。レンとアイツ。場所は。
「どうかな? 頼んでみたんだけど」
見上げると、写真を置いたレンはそう言って笑った。局の楽屋が一緒になった。
「……何のつもりだ、思い出づくりならもっと別の場所があんだろ」
「ホテルでつくる思い出もあるんじゃない?」
レンが笑いながら角を挟んだへりに椅子を引っ張ってきて座った。
「よく撮れてるよね」
写真を手に取り眺めながら言う。
何のつもりだと雑誌に再び視線を戻せば、レンが口を開いた。
「週刊誌に売ろうと思ってね」
は? とおれは顔を上げる。
レンは写真から顔を上げて、笑みを浮かべた。
「アイドルを辞めさせるくらいだ、世間体に無関心ってわけでもないだろう? さてスキャンダルを起こした花嫁でも、貰ってくれるのかな」
口元に笑みを浮かべて話すレンの言葉におれは段々と顔を歪めた。
「……てめぇなあ、」
「なんだい?」
レンは口元にだけ笑みを浮かべておれを見据える。
「レディが浮気をしてたのは事実だし、オレは結婚を前に親切にそれを教えてあげるだけだよ」
「んなことしたら全部に飛び火すんぞ。アイツの家も、てめぇもアイツ自身も事務所も」
「だったらどうすればいいの?」
レンは笑みを消していた。
「ノーリスクで何かを起こせるわけがないじゃないか。対価は必要なのさ、怖がってちゃ何もできない」
テーブルの上で拳を握って話すレンの姿は、ガキが駄々をこねるようであって、けれどもちゃんとした真理のような気もした。
「あいつに歌がなくなったらどうなるんだろう……ランちゃんは知らないだろうけど、アイドルを目指す前のあいつは酷かったんだよ。あんな家で危険なことができるとは思わないけど、ひょっとしたらって……思わせる何かが常にあった」
確かにそうだったのかもしれないな、と思った。突然あんな所までやってきて、最低な扱いを受けても拒まなかった女だ。
「…………レン、」
全てを投げ打ってでも、他人に迷惑をかけてでも、誰かを。そんな風に、おれには。
「……やるなら徹底的に、だ」


日向さんは絶句したように目を見開いたまま固まった。
「おっ、まえら! 何考えてんだ!」
社長室にレンとおれ、日向さんと親父が向かい合って座っていた。テーブルの上にはレンの写真が数枚ともう一枚、おれの写った写真だ。
「馬鹿なことを言ってるのはわかってるよ。でもこれぐらいしか方法がないのさ」
「お前……! レンはともかく黒崎まで……何言ってんのかわかってんのか?」
日向さんは顔を歪めて疲れたように溜息をついた。
おれは黙ったままの親父を見据えていた。
「……よく聞け、お前らこれで本当にアイツを救えると思ってるのか?」
日向さんが真剣な声色で言う。
「これがもし上手くいって、アイツの婚約が破棄になったとしても、そんときにゃ芸能界にアイツの席はない。人気アイドルと二股掛けてたなんて、アイツのイメージぶっ壊して塵ひとつ残んねぇよ」
日向さんが視線を落とす。
「俺もアイツが辞めんのはどうにかしてぇけどな……」
真剣な目がおれたちを射抜く。
「現実を見ろ。お前らが考えてるほど甘くねぇ」
空気がピリつくような日向さんの気迫に、レンが顔を歪めた。難しい顔をして視線を落とす。
「その通ーりデーース」
ずっと黙っていた親父が口を開いた。
「Ms.苗字も大事デーースが、ミーたちとしてはMs.苗字一人のために人気アイドルを2人も手放すわけにはノンノン……いきまセーン」
サングラスの奥の瞳が垣間見える。
どうしてもというならば、と、言い出しそうなキツイ眼だ。
おれは口を開く。
「わかった」
「……! ランちゃん、」とレンがおれを見る。
「邪魔したな」
おれはそれだけ言ってソファから腰を上げた。
社長と目が合った。
先に外して部屋を出た。
その足で事務室に向かった。




息を吐けば白く渦になって消える。
レコーディングの予定時間を延長して、なんとか完成をさせた。
一つ一つ終わらせていかなければいけない、あと数ヶ月で、全て。
足を止めた。
一瞬固まって、けれども無理矢理動かして会釈をする。
「……こんばんは、お仕事ですか?」
慎重に言葉にした。無意識に震えてしまうような気がした。
黒崎さんが立っていた。
レコーディングスタジオの敷地の外、まるで、待っていたかのように見えて酷く動揺した。
黒崎さんは何も言わない。黙って私を見ている。
私は瞳を揺らして、視線を外してから、その元まで歩いた。
靴音がアスファルトに響く。
あと、一歩、二歩……。
ガッと腕を掴まれた。下を向いていたせいで近づいてきていることに気がつかなかった。
「黒っ……」
呼びかけるのを遮るようにグイッと引っ張られて、身体が傾き勝手に一歩が踏み出される。
ダンッ、とついた一歩が、アスファルトの硬さにジンジンと痺れた。
頭に何かを被せられた。
見ると黒いキャップ帽で、黒崎さんを見上げると同じようなキャップ帽を被り、伊達眼鏡をかけていた。
「ついて来い」
黒崎さんはそう言って、腕を離して歩き出した。
私は暫くそこに立ち止まっていて、けれども無意識に、その背中へ走っていた。
最初に踏み出した痺れる一歩が、あまりにも大きくて、あとは軽々しいもののように思えた。
後をついて見えてきたのは駅だった。
時計を見るともうすぐ22時になるかというところだった。構内は足早に行き交う人で溢れていた。
「てめぇここで待ってろ」
黒崎さんはそう言い置いて足を進めようとする。
思わず服の裾を掴んだ。
黒崎さんが「あ?」と驚いたように振り返る。
「…………あの……一緒に行っては駄目でしょうか……」
黒崎さんが暫く目を見開いて私を見ていて、が、不意に顔を歪める。
「……てめぇまさか来たことねぇなんて」
う、と言葉を詰まらせたら沈黙が降りた。呆れたような溜息が聞こえた。
「はー……いい気なもんだな」
「すみません……」
パッと腕を掴まれた。それからその手は黒崎さんの腰の辺りへと移る。
「繋ぎてぇけどまだ東京だしな、掴んどけ」
前半の言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかって動きを止めていると、「おら、置いてくぞ」と声がかかり慌てて後半だけを処理した。
「オイ、あんまきょろきょろすんな……目立つだろーが」
服を掴んだまま無意識にしていたらしく、呆れたような顔を向けられる。
「すみません……」
慌てて俯きそのまま歩く。帽子のツバのせいで視界は地面しか映さなかった。
発券機の様な機械の前に行き、画面の指示通りにタッチしている。
券が二枚出てきて「ほらよ」と黒崎さんが一枚私に渡す。
「とりあえず西に行こうぜ」
そう言って歩き出す黒崎さんに慌ててついていく。言葉の意味がわからなかった。
『新幹線のりば』とあった。
「いいか、それ持って機械に通す、んでくぐる。ほら行け」
背中を押されて、つんのめる様に前に出た。言われた通りに機械に券を通すとガシャンッと音がして、通した券が前方に出てくる。
「おいこれは取ってくもんだ」
後に通った黒崎さんが私の頭を券でパシと叩く。
「ご、ごめんなさい……」
黒崎さんは私を見てから、少し笑った。
「おら行くぜ」
歩き出した背中の裾を慌てて掴みながら、久々に見たと思った。久しく目にしてなかった。目にしていたことも忘れていた。蘭丸さんの笑顔だ。
「おら、そっち座れ」
黒崎さんが言う通りに奥の窓際の席に座った。デフォルトがわからないが、席が用意されていていっぱいではないということはすいているのだろう。平日の夜だから、混雑はしないのかもしれない。
黒崎さんが隣に座った。
隣に座る、なんてあっただろうか。座席の間には肘置き分の空間がきちんとあるのに、なんだか妙に緊張した。
「おまえ、これ付けとけ一応」
さっきからペリペリ音がするなと思っていたら、黒崎さんがさっきホームの売店で買ったばかりのマスクの封を開けていた。
紐を指で広げて私の耳にかけた。
黒崎さんから離れている側が、見にくいのか首をかしげる様に傾けて、私の顔を覗き込んでいる。
もう片側にもかかった。耳に指が少し触れた。
「……あ、ありがとうございます……」
「おう」
と黒崎さんは特に何ともないように返事をして、体を正面に戻した。
「なんか食うか? つーかおれが食う。腹減ったな」
そう言いながら売店でいくつか買った弁当を袋から取り出す。
「おまえどれがいいんだ?」
「え、いえ、どうぞ黒崎さんから選んでください……」
黒崎さんは暫く私を見つめた後、おもむろに手を伸ばした。
マスクの上から、頬に曲げた形の人差し指で触れる。
目が合っていた。
一瞬触れたような気がした。マスクの上から唇が。
黒崎さんの顔はそのまま通り過ぎて、窓の脇に留められていたカーテンに手を掛ける。
シャーと音がして閉まる間、黒崎さんの身体が近くにあった。
「んで、どれにすんだ。おれはいいからてめぇから選べ」
座席に座りなおした黒崎さんが言う。車内アナウンスが流れた。『……行き電車です、まもなく発車します』と言う。
汽笛の代わりか音が鳴った。
「あ……ありがとうございます」
「はあ? そんだけか?」
御握りを一つ取ったら黒崎さんが顔を歪めた。乗車扉が閉まった。車体がゆっくり動き始めた。
聞かなければいかない気がする。けれど夢のような心地で、それを壊すなんて、どうにも。
「……3時間くらいレコーディングしてたんだろ、腹減らねぇのか」
御握りのビニールを剥いて(くれた、黒崎さんが)、食べていたら、黒崎さんが少し声を抑えてそんなことを言った。丁度二人の間にしか内容までは聞こえないようなボリュームだった。
「いつもこれくらいで……」
私も声を抑えて言う。マスクをしていて思ったよりもボソボソと聞こえたが、黒崎さんは耳がいいのか「マジかよ……」と返事をした。
カーテンは閉まっているから外の景色はわからない。
乗客は出張に行くサラリーマンか、旅行者か、はたまた帰省者か。違いがなかったのは、眠る準備をしたり、PCなどで作業をしたり、皆大抵向こうに着く明日に備えているように見えた。
自分の席に視線を戻して、ふと気がつく。
前の座席の背中から簡易テーブルのようなものが設置できるみたいで、いつのまにか出されていた。そうして弁当の蓋が裏返しに乗っていた。
その上に黒崎さんが弁当を食べながらたまに箸で惣菜を乗っけていく。
「食え、途中でぶっ倒れられても困るからな」
そう言って並べられてちょっとした一つの弁当みたいになっているそれを見ながら、私は少し笑った。
黒崎さんが箸を止めてぎょっとしたような顔で私を見た。
それから顔を歪めて少し息を吐いた。
「……あー、マスクさせんじゃなかったな」
そんな事を呟いてほらよと割り箸を私に渡す。
受け取りながら、私は口を開いた。
「……あの、覚えていらっしゃらないかもしれませんが昔……こんな感じのことがあって…………」
黒崎さんは「あ?」と私を見る。
「……パーティーの時に、黒崎さんがよく料理を分けてくださって」
「あ……? そうだったか?」
「はい……挨拶回りについていたら、いつもろくに食べられなかったから……」
「ふーん……」と黒崎さんは言った。
「てめぇがよく母親にくっついてたのは覚えてる」
「ひと通り回り終わるまで離してくれなくて……」
「は、成る程な」
黒崎さんはそう言って少し笑った。
それから眼鏡の下で少し視線を落とす。
「…………なあ、乗せちまってからこんなこと言うのは卑怯だと自分でも思うが」
低い声が小さなトーンで話をする。
「……おれは、てめぇのためなら全部を捨てる覚悟だ」
静かに瞬きをして言う、その横顔を見上げていた。
目を見開いて、そのまま動けなかった。
なにを……聞き間違えじゃなかろうか。
「てめぇの歌全部聴いた、今更な……。おまえが毎回わざわざ渡しに来てんのに、一回だって聴いたことなかった」
黒崎さんは瞼を閉じて長く息を吐く。
それからゆっくり瞼を開いた。
「……おれの勘違いじゃなきゃ、おまえこのまま……おれと行けるとこまで行っちまうのも、……悪くねぇんじゃねぇのか」
視線が向いて、目が合わさった。
黒崎さんが私をゆっくり瞬きをして見ている。
激流の荒波がなだれ込んでくるような心地であり、柔らかい雪が肌に溶けてゆくような心地でもあった。
もしか、したらと、思ってしまった。
もしかしたら、もしかしたら。
蘭丸さんとの未来も、あり得るんじゃないのか。
そうだとしたらこんなに……こんなに、これ以上に、何を。
「……まあ、てめぇが貧乏人の生活に耐えられりゃな」
視線を外して軽く笑った。
耐えられる、と言えば良かった。なんだって耐えられる、蘭丸さんとなら、なんだって、って。
その日私は答えらしい言葉を言えなかった。
黒崎さんはそれ以上何も言わなかった。
もう寝ろ、と言った声は優しいもので、私を肩に抱き寄せて眠ってくれた。


翌日の朝7時半頃に、駅に着いた。
観光地でも、この時間ではどこもまだ開いていなくて、少し閑散とした中を二人歩いた。
指先に何かが触れて、手が絡まった。
顔を上げて見れば、
「なんだよ」
と笑われる。
私は俯いてキャップ帽のツバを深く下げた。
「今日のところはどっかでホテル取って一日ゆっくりするか? 移動の疲れもあるし、てめぇもあんま寝れてねぇだろ」
「え、いえ、お気になさらず……」
「つーか、おれが人目を気にせずてめぇとしたい事がある」
あっけらかんと言う黒崎さんに、ええ……!? と思わず顔を上げて声を上げてしまう。
「なんだよ」
と今度は意地悪そうに横目で笑った。
結局その通りに朝からホテルを取った。折角だから観光もしたいなと二泊取って、チェックアウトは明後日の昼だ。
シャワーを浴び終えて窓際に置かれた椅子に座っていた。今は黒崎さんがシャワーを浴びている。
ヴーヴーヴー。
黒崎さんがズボンのポケットから出してテーブルに置いた、携帯が震えている。
小刻みに振動して、ひとりでにテーブルの上を動く。
長い間鳴っていて、切れたと思ったらまた鳴り始めた。
私は部屋の時計を見た。
9時過ぎだ。私ももう、スタジオに行かないと。
私の携帯は昨日の時点で充電が切れて鞄の奥底だ。何度も震えていたことを見ないフリをしていた。家の誰かだったんだろう、連絡の一つも入れていないから。もしこの事が相手方に伝わったら……。
また鳴り始めた。ヴーヴーヴーヴー、と急き立てるように、いつまでも。
切れるのもまた、怖いと思った。否、切れるほうが怖い。
「出たぞ、洗面台使うか?」
ビクッと肩を揺らしてしまった。
黒崎さんが怪訝な顔でこちらを見ていて、私は視線を逸らす。
足音が近づいてきた。
目の前まで来た体は腕を伸ばしてテーブルの上の携帯を取った。
それからそれを、グラスの中に沈めた。
私はただそれを見ていた。
ポチャン、と音がして無色透明な水の中で泡が昇り、画面は真っ暗に音は聞こえなくなった。
「…………」
「…………」
私は暫くその沈んだ携帯を見つめて、ゆっくり顔を上げる。
黒崎さんは私を見下ろしていた。
腕を掴まれ立ち上がらされ、そのまま唇が重なった。
離れるとそのまま抱きしめるように、腰と頭に大きな手が回った。
頭に添えられた手が離れたので、顔を上げると唇を塞がれる。
舌が絡まる、唾液が混ざる。何度も、何度も唇が合わさった。
目が合っている。
黒崎さんの目は真っ直ぐ私の瞳の奥まで見つめていた。
私は、どうして瞳を揺らしてしまうのだろう。
腕を引かれてベッドに連れられた。
ベッドメイクしたての柔らかい感触が背中を包む。
黒崎さんが私の上にいる。顔が近づいてゆっくりキスになった。
柔らかい感触が、とろけるように触れている。
ああ、幸せだ。ずっと夢みてた。
蘭丸さんにもう一度会えたらって、蘭丸さんとこうして抱き合えたらって、ずっと。
でも、これが、永遠に続くようには思えない。
未来を自分で選び取った事がない私には、自分が選んだ未来ほど脆いものはないような気がしてならない。
こんな幸せを知ってしまったら、きっと、あの人の元で暮らせなんかしない。


ベッドの上で目覚めた時には窓の外は薄暗かった。
時計を見ると17時半。東京ならばもう日は完全に落ちている頃だろうか。移動の疲れがやはりあったのか、随分眠ってしまった気がする。
大きな肩がゆっくり上下していた。黒崎さんが隣で眠っている。
「…………」
私はベッドから降り、裸足のまま絨毯を踏んだ。
ベッドのすぐ下に置いてあった鞄の前にしゃがんで、奥底に沈めた携帯を手にした。
充電器をケースから取り出して、テレビの方へ向かう。
テレビの設置された壁には並んで化粧台があり、鏡が張ってある。
化粧台のドライヤー用か、コンセントにプラグを差し込んで携帯を繋いだ。化粧台に置かれていたテレビのリモコンで電源をつけた。化粧台の椅子を少し動かして座った。
リモコンで音量をなるべく小さく操作した。リモコンを持ったままただついたチャンネルを眺めた。
どれくらいかそうしていた。
携帯の電源が入ったことには気がつかなかったが、入ったメールの音で気がついた。
携帯に手を伸ばす。
通知の件数が凄いことになっていた。
画面をスクロールしながら、ろくに脳を通さずにただ眺めるだけだった。
ヴー、と振動して一番上に通知が増える。
「…………」
ゆっくりタップして開いた。彼からは、これが1通目のメールだった。
『苗字家は警察に被害届まで出したらしい、宿泊先の名前からすぐにわれちゃうかもしれない。相手方には隠し通すつもりのようだ。メールなんて送っておいてあれだけど、携帯の電源はすぐに切った方がいいよ。GPSで居場所がバレてしまうから。ランちゃんによろしくね』
ふたりの幸せを祈ってる。
そう最後にあった。
「…………あ? もうこんな時間か……」
いつもより柔らかい声が後ろからした。欠伸をする声が聞こえる。
「名前、何して……」
声が止まってそれから足音がする。
頬を両手で押さえられて顔を上げさせられた。
「………………」
黒崎さんは顔を歪めて、けれども私から目を逸らさなかった。
テレビから、音楽が流れた。
何度も聴いた、イントロでわかってしまった。
行くぜ! と煽る声が聞こえる。セットに反響して広がる。観客の割れるような熱気と歓声が聞こえる。
「無理です……きっと…………」
瞳からまた涙が溢れた。
黒崎さんは私を見ている。
「……ちょうど、よかったんです……たまにすれ違って挨拶だけして……私が……黒崎さんに憧れてるだけの距離が……ちょうどよかったんです……」
頬に手が触れていて、だから流れる涙が黒崎さんの手を濡らしてしまう。
口を開いて、声がかすれてしまう。テレビから聞こえる音が、体に響いて震わせる。
「嫌です……蘭丸さんが歌を歌わなくなってしまうのは………。……私、黒崎さんの歌があれば……きっと、この先も生きていけます、だから…………」
涙が膜を張ったまま、落ちそうで落ちない。ゆらゆらと揺れて、言わなきゃいけない言葉が、出てこなかった。
頬から手が離れる。
サビに入った。胸を熱くする声だ。
ブチッ、と切れた。
リモコンが黒崎さんの手にあり、テレビの画面は真っ暗になった。
音が消えた世界は静かだった。
「違ぇだろ」
声が落ちる。上から降ってくる。
視線が上がって、私を真っ直ぐに捉えた。
「おまえが、嫌なこと他にもあんだろ」
静かな部屋に、強く響く。
この目は、私の奥の奥まで捉えて離さないでいてくれる。
手の中の携帯がヴーヴーと振動しはじめた。
「…………イドルを……アイドルを、辞めたくない…………蘭丸さん、以外の人と……結婚したくない……」
心の中身を探すように、言葉にした。
そうしてゆっくり、顔を上げた。
「おれに確かめられても知らねぇよ。おまえがそうだって言えば、それが正解なんだ」
そう言ってから手を伸ばして私の髪を、その大きな手で一度撫でた。
そうして背を向けた。
私は反射で立ち上がったが、「待ってろ」と言われる。
立ったまま眺めていた。
黒崎さんは廊下に出てクローゼットを開ける音を立てる。何かしている。クローゼットの中には着てきたコートがハンガーに掛けてあるぐらいだ。
何かを持ってやってきて、来るまでにその小さな箱を開けて中身を取り出す。
おもむろに私の左手を掴んで指にはめる。
「これつけてあの男のとこに帰れ」
左手の薬指に、ひとつダイヤのついた指輪。
「…………」
目を見開いて、顔を上げると唇が触れた。
ゆっくりと、今まで一番優しいキスだった。
「……これが駄目ならまた手を探すし、おまえが幸せになれるまで、なんだってする」
私は目を見開いて黒崎さんを見ていた。
頷いてしまいたい。でも。
「無理なら次は勝手に書類だしちまうか。そしたら、向こうが浮気だな。無理矢理離婚させても、一度バッテンついた女を貰うような物好きでもねぇだろ」
黒崎さんは少し笑う。
「……未成年、なので……親の同意が……」
「あーそうかてめぇまだ二十歳じゃねぇのか。おまえの誕生日まであと数ヶ月……はっ、ならその間海外にでも行って逃げ回るか?」
黒崎さんが楽しそうに笑う。
そんな風に笑みを浮かべて語られると、どうにでもなるぜと言う風に語られると。
本当になんとでもなるような気がしてくる。
本当に、確実に、蘭丸さんとの未来があるような気がしてくる。
不意にするりと頬に手が触れた。
反対の手は、私の左手を優しく掴む。
「おまえは? どうなんだよ。おれのために、なにもかも捨てられるか」
黒崎さんの目が私を捉えている。
近い距離で、真っ直ぐ。
私は頷いた。
いつの間にかじゃない、はっきり自分の意思で、首を縦に振った。何度も振った。
ちゃんと言葉にしたかったのに、涙が溢れて声にならなかった。
優しく胸の中に収まった。
「らっ……んまるさんっ、すき……好きです…………」
胸の中で切れ切れに言葉にした。
頭をするりと撫でられて、抱きしめる力が強くなった。
「ああ、おれもだ」



ダイヤを五つの爪が、囲んでおり、華奢で普通よりも細いリングはダイヤから伸びるように緩く波打っていた。ダイヤが小さな花のようにも、見えた。
ソイツによく似合っている。
帰ってきたおれたちは日向さんにこっぴどく叱られ、親父からは当然ペナルティを食らった。よくわからねぇ番組に出演させられた挙句、次に出すCDの売り上げノルマが課せられた。
アイツは企画されていたアルバムの発売が白紙になったとかで、そうしてなぜかバラエティ番組に出演しろと言われたと言っていた。
1日抜けただけにしては重すぎるペナルティは、社長がおれたちの仲について一言も言及しなかったことに関係があるのかもしれなかった。
「ランラーン! どうだった愛の逃避行は!」
事務所で嶺二と会った。
「うるせぇな、んでてめえに報告しなきゃなんねぇんだよ」
「ええー? ランランに頼まれてー名前ちゃんの仕事にフォローいれといたのはどこのいいお兄さんだったかなー」
嶺二の言葉におれは顔を歪める。
「それで? 大丈夫なの名前ちゃんは」
嶺二が少し声を抑えて聞いてくる。
「まあ……ちょっと危なかったがなんとかな……」
「危なかったって?」
「監禁されそうになったんだと」
「ええ!? ちょっとちょっと想像以上だよ!」
嶺二が声を上げて慌てて口を押さえる。
「父親はなんとか説得したらしいが、母親がどうにもな……。婚約は破棄になって、アイツの家は少し傾くが……」
なんとかするとアイツは言っている。自分で金を稼いで、家に償うつもりだと言っていた。金持ちのお嬢様だったアイツが、あんな目をして言うのだから、おれは信じてやろうと思う。
「そっか。じゃあ! ぼくも気合い入れないとね! 名前ちゃん初めてだろうから、お兄さんが手取り足取り一から教えてあげるよん」
「あ?」
「あれ、聞いてない? 名前ちゃんがバラエティ出るの」
「そりゃ聞いてるが、まさか……」
「ぼくの番組だよ。まっかせて! 長年の経験でちゃんとフォローしてあげるし。あっでも間違ってぼくに惚れちゃったりしたらごめんね?」
嶺二か……。不安なような頼もしいような。
「あれ!? ちょっとランランスルー!?」

『えっ、えっと……そう、ですね幼い頃から、習い事は沢山してました……』
アパートの部屋に帰ってきてテレビをつけるとちょうど名前が出ていた。
ガッチガチに緊張してんじゃねぇか、大丈夫かよ。
足元に絡みついてくる猫の相手をしつつ、コートを脱いでテレビの前に座る。
『へーお嬢様だったんだーだったらモテたでしょ?』
レギュラーのタレントがそんなことを突っ込む。
『え、いえ女子校だったので関わりもそれほど……』
『好きな子とかいなかったの?』
『えっ、……』
『おおちょっとその反応はいるんじゃない!』
セットの中が少し湧く。
『初恋の人は学校の先生ー! とかかな? ぼくは幼稚園の先生だった!』
嶺二がそんなことを言って逃げ道を示す。
『えっと……』
『違うじゃんれいちゃん! 今の子はそういうんじゃないんだよー』
『ガーン! ぼく古い!? まだピッチピチの26歳なんだけど!』
嶺二が会場を沸かせてから、どこかを見て少し顔を歪める。おそらくカンペなんだろう。
『……えっと、じゃあヒントちょうだい!』
『ヒント……』
『歳上か歳下か! これわかるだけでも随分イメージできるよね〜』
それで十分でしょとでも言いたげだ。
『歳上の方です……楽器を教えてくださって……』
『へえー楽器! もしかしてピアノも教わったの?』
『え? いえベー……』
『ピアノはお母さんに教わったんだよね!!』
嶺二が慌てて声を張り上げる。
『そうそれで! 今度そのピアノをふんだんに使った楽曲がドラマの主題歌にー?』
『あっ、はい、今週金曜日から放送の「ユウナギ」というドラマの主題歌を……』
ガチャン、と玄関のドアが開いた音がした。
「あ……ただいま帰りました」
「てめぇはもうバラエティ出んな……」
「え?」



「いいか、誰が来ても開けんなよ。あと、鍵は二重にかける」
「はっ、はい……」と返事をする。
黒崎さんのアパート、黒崎さんが玄関に立っている。
黒崎さんがドアを開けて出て行く。開けたドアからは昼下がりの柔らかな光が見えた。
バタン、とドアが閉まって、言われた通りにロックを掛けてみる。
手こずっていたらガチャンッとドアが開く。
「あ? 掛けてねぇじゃねぇか」
「ど……どうやってかけるのかわからなくて……」
黒崎さんは「あ?」と顔を歪めて、一度ドアの中に戻ってきた。
扉を閉める。
「よく見てろ」
チェーンを取って、ドアのへりを跨ぐようにした先にある穴に引っかける。
「わかったか? やってみろ」
言われた通りにすると、黒崎さんが試しにドアを引いてガンとつっかえることを確認する。
「うっし、じゃあ行ってくる。ってもうこんな時間かよっ」
玄関から見える部屋の時計を見て慌てたように言ってから、チェーンロックを外す。
「てめぇ一人で置いてくのはな……けど呼び出しに連れてくわけにはいかねぇし……」
「いえ、お構いなく……」
「おれが構うんだよ」
顔を歪めて私に言うと、ガチャンとロックを外してドアノブを回した。
「すぐ鍵閉めろよ。絶対開けんな。宅配便も受け取らなくていい、何言われても開けんな」
何度か同じことを言ってやっと扉を閉める。
が、閉まる寸前で止まって再び少し開いた。
「行ってくる」
ちゅ、と唇が触れた。
固まっていたらその間にパタンと扉は閉まった。
ハッとして慌てて鍵をかけた。


「…………オイ、」
部屋に入っておれは思わず低く言った。
「あ、おかえりランちゃん。ボスからの呼び出しだって? お疲れさま」
「じゃねぇよ! んでてめぇが家にいんだ!」
レンはテーブルに皿を並べていた。
「そりゃあ大好きな先輩と、かわいい幼馴染みの新たな生活を祝いに来たんじゃないか」
「頼んでねえ! つーかなんだよ皿何枚並べてんだ」
「ランちゃんと名前、オレとブッキーと聖川のぶんさ」
「はあ!?」
レンは皿を並べ終えるとキッチンの方へ行き、立っていたソイツの背後から両肩に手を置く。
「意外と器用だね。そういえば料理も教わるんだっけ」
「和食だけだけど……」
「そっか、男の胃袋を掴むにはおふくろの味だもんね」
レンが後ろから覗き込むようにして話すそれを、おれは近づいて無理矢理に引き離した。
「あ……蘭丸さんおかえりなさい」
「じゃねぇよおまえなあ」
「危ないよランちゃん。レディ包丁持ってるんだよ?」
「うるせぇよ!」
ソイツの手の包丁を取り上げてまな板に置く。土鍋が用意されていたから鍋でも囲むつもりか。
「誰が来ても開けんなっつったよな」
「え、すみませんでも……レンだし……」
「コイツが一番危ねえ!」
ぱちぱちと瞬きをするソイツと、「心外だなあ」と呟くレン。
「あっ……いえ、その……そういうのは、もう、なくて…………」
視線を揺らして俯くソイツを「あ?」と見て、それから顔を歪めて息を吐いた。
「……わかってる、今更疑ってねぇよ。……けど、なら尚更一人のときに家に入れたりすんな」
ソイツは頷いて「はい、すみません」と謝った。
おれはぽんとソイツの頭に手を置いて、それから再びレンを見る。
「んで? てめぇはいつ帰んだよ」
「それはないじゃないランちゃん。せっかく来たのに。それに、もうすぐ聖川がいい肉を持ってきてくれるって」
「あ? あー…………チッ、しょうがねぇな」
「さっすがランちゃん」とレンがにこにこ笑みを浮かべる。
「はあ……久々に半日オフがかぶったっつーのに、親父に呼び出されるわ散々だな……」
そんなことを呟きながら、蛇口をひねって手をゆすぐ。「すみません……」と隣から声が返ってくる。
「オフにレディと二人っきりで、何をするつもりだったんだい?」
レンが笑みを浮かべて聞いてくる。
きゅ、と蛇口を止めた。
「てめぇがしたくてもできねぇ事だよ」
言い放ってやってたらその瞬間にピーンポーンとチャイムがなった。
「えっ、えっと……出てきます…………」
顔を赤くしたソイツがおれたちの間から抜けて行って玄関に向かった。
レンが目を見開いて、
「たしかにその通りだ」
と、情けなく笑った。
おれはそれを一瞥するとタオルで手を拭いてキッチンを出た。
まさに扉を開けようとしているところのソイツの腕を掴んで引っ張る。
「わっ……んっ」
洗面所に押し込み壁に押し付けてキスをする。
ソイツはいつも通り受けていたが、途中から目が泳いで息が上がって、ついにはおれの体を押し返そうとする。
「んっ……はっ、あ……んっ、んんっ……」
ピーンポーン、ともう一度チャイムが鳴った。
顔を離すと、ソイツは瞬間にズルズルと床に座り込んだ。
「おう、真斗肉持ってきたか」
「もーランランそればっかり!」

ランちゃんと共にブッキーと聖川がやってきて騒がしくなったのに、レディが中々帰ってこなくてオレは玄関まで探しに行った。
「ん? ちょっと、どうしたんだい?」
廊下を通るときにふと脇目を向けた洗面所に名前が座り込んでいて、オレは思わず声を上げる。
しゃがんで目線を合わせると、耳まで真っ赤で息が少し荒かった。
顔を上げた後、名前は俯いた。
「た……立てなくて…………」


Fin
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