Cat in the cage(黒崎蘭丸)
(2/2)


「……黒崎さん、私明日からロケで二泊します」
名前が洗濯物を畳みながら言う。
「あ? ああ、おう」
名前はそれきり何も言わないで、黒いTシャツを畳んでいた。
俺はソファに寝転がったまま、読んでいた雑誌を下ろした。
体を起こして座り直し、床に座って洗濯物を重ねる名前を見た。
視線に気がついたのか名前の顔が上がって目が合った。
「…………」
名前は黙って洗濯物を置いた。立ち上がって、俺の前で座る。
「…………」
雰囲気に任せて手を伸ばして、後頭部に添えて、抱き寄せる。
名前の頭が俺の腹の辺りについた。背中に手を入れる。
フックを外すとハラリと服の中で下着が浮く。
指を頬に滑らせて、顎を持ち上げる。顔をあげさせて、唇を塞ぐ。
舌を絡めて、角度を変えて、そうしてもう一方の手で服の下をまさぐった。
ソイツは何も言わない。


『ん〜! 美味しーい!』
とろけて、ふわふわで……と続く食レポを聞いていた。
「おうこれな、できたぜ」
事務所の印刷室から出てきた日向さんが、書類を差し出す。礼を言って受け取る。
「なーんかさ、名前ちゃんって最近大人しくなったよね」
ソファで頬杖をついてテレビを見ていた嶺二が言った。
「ああ、そういやそうだな」と日向さんが言う。
「アイツ、ずっとあのまんまかとも思ったが、ちっとは大人になったのかもな」
「そうかなあ」
日向さんの言葉に、嶺二はテレビを見つめたまま不賛を唱えるような口調をする。
「なんだよ」と日向さんが言うが「んーん」と嶺二は言ったきり何も言わなかった。
『これはー……B!』
テレビの中で元気よく叫んでいる。

ポン、と通知が来て、タッチすると写真が送られて来ていた。
スクロールして見ると、底が見透せる真っ青な海の写真、赤瓦と石垣の住居、城の門に飯の写真と順に並んでいた。
『ロケ順調です』
最後にそう一文記されていた。
ふーんと眺めて、返信欄をタップする。
少し悩んだ後に、『頑張れよ』とだけ送った。
テレビの中ではドラマがやっている。
猫が餌を食べ終えて、俺の腹の上で丸くなった。

「うっ、ん……あぁっ」
俺の下でソイツの肩が震えて、顔はソファにうずめられている。
「二日空くだけで……キツイな、オイすげえ締まってんぞ」
ソイツが荒い息遣いを繰り返して、中を突くと喘ぎ声が漏れた。
「うっ……くろっ、さきさん……」
乱れた呼吸の隙間に名前を呼ばれて、思わず反応してしまう。
激しく動かしたら、その分喘ぎ声が漏れてビクビクと剥き出しの背中が反応する。
「んだよ、なあ、」
背後から耳に口を近づけて言う。ああ、やべぇな、イっちまいそう。
眉間にシワを寄せて熱い息を吐き出す。ソイツの中がギュッと締まった。
そういえばソイツの手はソファを掴まず握りしめられているだけで、いつからか新しい傷はつかなくなった。


プルルルル……プルルルル……とコール音が鳴っている。
俺は事務所を出て歩きながら携帯を耳に当てていた。名前が今日一日仕事を休んだと聞いた。
ガチャ、と音がした。
『……もしもし、』
耳元で声がした。俺は立ち止まる。
「……おう、お前今日どうした」
事務所のあたりはいつも静かで、空を仰ぐと曇り空に覆われていた。
『……熱がでて、仕事できる感じじゃなくて』
「……なんか持ってくか?」
『え?』と電話の向こうで声がする。
『いや……ありがとう、ございます……。でも、母親が……くるらしくって、だからあんまり来ない方が……』
「あー……そりゃそうだな、わかった」
はい、と返事が聞こえた。声にはやはり元気はなさそうだが、母親が見にくるなら安心だろう。
「じゃあ余計なこと考えずにちゃんと寝てろよ」
『……はい、ありがとうございます』
名前から礼がくるのも少し慣れないが、と思いながら「おう」と返して電話を切った。

次の日も名前は休みを取って、結局3日ばかり仕事を休んだ。
さすがにただの風邪にしてはおかしいような気がしたが、テレビ局ですれ違った際の名前は俺の隣にスタッフがいたこともあって、満面に笑みを浮かべて高い声で挨拶をした。
通常運転の猫被りに、考え過ぎだったかと思い直した。
『心配かけてすみませんでした。
それと、休んだ分の仕事が立て込んでて暫く行けそうにないです』
仕事を終えて携帯を開くとそんなメッセージが入っていた。
『わかった。あんま無理すんなよ』と返してポケットにしまった。
事務所の前まで来ていて、中に入ろうとしたところで声がかかる。
「ランラーン!」
あ? と振り返れば案の定嶺二で、俺は面倒な奴にあったと溜息を吐いた。
「なんでてめぇとはよく出くわすんだか」
「だってランランの後ついてきたんだもん」
「はあ?」と顔を歪めるが嶺二は笑って、事務所の中に足を踏み入れる。
「うそうそ、ランランが事務所に行くって話してたのを立ち聞きして〜」
「後つけたのとなんも変わんねぇよ」
嶺二と2人で事務所の中に入る。
「俺に用でもあったのか」
歩きながら俺が聞くと、嶺二が立ち止まる。
「名前ちゃんの事」
は? と俺は眉を寄せる。
「なんかおかしいじゃない? 風邪で3日も休むかなあ」
「別に長引いたんじゃねぇのか」
「それを確かめに行こうよ」
嶺二はそう言って笑って、背を向けて廊下を進む。
俺は暫く廊下の先を見つめて、それから足を踏み出した。
「……シャイニーと話してるところを聞いたんだけどね、」
事務所の中で月宮さんが声を抑えて言う。
「お母さんが亡くなったらしいの。急に倒れてそのままって……」
は、と呟いて目を見開いた。
「……やっぱりね。なんかおかしいと思ったんだ。収録の時も、さすがにカメラの前じゃ見せないけど、合間にぼうっとしてたりして」
嶺二が顔を歪めて言う。
「変に心配させたくないからって、シャイニー以外には話してないみたい。でもきっと大変よね……ちょっとぐらい頼ってくれてもいいのに……」
月宮さんが少し眉間にしわを寄せて、唇を噛む。
俺は瞼を閉じて顔を歪めた。
「えっ、黒りん?」
大股で事務所を出て、携帯を取り出し掛ける。
廊下を歩きながら鳴り響くコール音を聞いていた。
『もしもし?』
「てめぇなんで言わなかった」
電話の向こうで沈黙が降りて、何も返ってこない。
「……今どこだ」

指定された場所は人通りの少ない辺りの公園だった。日の堕ちたこの時間は、静かで閑散としていた。
「……心配かけたくなくて」
ソイツの言葉に俺は小さく溜息を吐いた。あんな嘘までつかせたことが情けなかった。
「……わかった、もういい」
コイツを責めるのは何か筋違いだと思って俺はそう言ったが、名前は俯いていた顔を急に上げた。
見開いた目と目が合って、俺は眉間にシワを寄せる。
ソイツの瞳は酷く揺れていた。
「ご……めんなさい」
そんな言葉が聞こえて俺は、はあ? と眉を寄せる。
「てめぇが謝んのは、なんつうか……違えだろ。……俺が悪かった、今辛ぇのはお前なのに……」
ああ一体何してんだ俺は。
深く溜息を吐き出して、名前を見る。
ソイツは俯いて、視線を下げていた。
ゆっくり、手を伸ばして引き寄せた。
抱きしめると、ソイツの身体は案外小さくてすぐに折れそうなくらい細かった。
小さく呻き声が聞こえて、ソイツが腕の中で震える息を吐き出した。
柔らかく抱きしめた。
その涙は母親を亡くした悲しみだって、決めつけて疑わなかった。



「蘭丸先輩、おはようございます」
歌番組で一緒になって名前が楽屋挨拶に来た。
今回の俺の出演は他事務所のギタリストとのコラボでの出演で、楽屋も同じだったから名前はアイドルモードだ。
ギタリストにも挨拶をして楽屋を出て行った。
俺は立ち上がって、一言声をかけて楽屋を出た。
「おい、」
廊下で背中に声をかけて、顎で向こうを示す。
歩き出したらソイツは黙ってついて来た。
「特に変わったこともねぇか?」
「はい、……すいません中々時間、作れなくて……」
俺は「別に構わねぇよ」と返して、誰か来ないか曲がり角に視線をやる。名前は母親が亡くなってから実家に帰っていて、仕事が終わるなりすぐに帰宅している。
「いなくなると、大変さに気づきますよね……今日は洗濯機回すの忘れてて」
俺も初めて聞いたときは耳を疑ったが名前は長女らしく、下にまだ中高生の弟と妹がおり、父も会社勤めなので、実家に家事の手伝いに行っているのだそうだ。
一人暮らしをしていたマンションも、もしかしたら引き払うかもしれないとこの前言っていた。
「つか、お前料理とかできたのかよ」
「……一応は」
「ふーん」と返して名前を見る。ソイツは視線を少し下げていた。不意に上げると、
「そろそろ行きますか」
とカメラの前の猫を被ったときと混ざったような表情で言った。


最後の仕事はロケで、いつもとは違う駅で降ろされる。せっかくだからこの辺で何か食ってから帰ろうかなどと考えて辺りを見渡していた。
視線を止めて、まさかと思いつつ声をかけた。
「おい、」
振り向いたのは案の定名前で、向こうも驚いたような顔をした。
「黒崎さん……何でいるんですか……?」
「ロケの最寄りがここだった。お前は?」
「実家近くなんです」と名前は答えた。都内だとは聞いていたが意外と近場だ。
些細な偶然なのに、なんだかすげえ事のように思えた。
「姉ちゃーん?」
前方からそんな声がして、見ると、自転車を押して歩いていた高校生が立ち止まってこっちを見ていた。スポーツ用のウィンドブレーカーにエナメルバッグを掛けていた。
「ああ、ごめん」
と名前が向こうに向かって言った。初めて見るような雰囲気だと思った。
カラカラと高校生が自転車を押して戻ってきた。前カゴにはスーパーのレジ袋が入っている。
「弟です」
「ああ、言ってたな」
そんな会話をしている間に弟がやって来て、目を見開いて止まった。
「ええっ、黒崎蘭丸じゃん! 本物!?」
「ボリューム下げて」
あっ、と弟は口を押さえる。「すみません」と名前が顔を歪めて謝った。まばらに通る周囲の人間には聞こえていなかったようだ。
「姉ちゃん黒崎蘭丸と知り合いなの!?」
「『黒崎さん』」
名前が咎めると、弟はひょいと俺へ方向を変えて、
「蘭丸さんって呼んでも!?」
と言う。
「あ? まあ好きにしろよ」
「やったー!」
笑った顔がカメラの前の名前とよく似ていて、整った顔をしている。だが、髪も寝癖なのか跳ねていて、なんだか幼い感じがした。
「もう……なんかすいません」
「あ? 別に、つかてめぇに似てんな」
俺がそんなことを言うと、名前が顔を上げた。
「……どこが?」
「は? 顔似てんだろ」
「ああ……顔か……」
名前はそんなことを言って視線を落とした。その反応に俺は名前を見つめる。
「あ、ハナが待ちくたびれたって」
弟がスマホの画面を見ながら言った。
「ああ、明日のパン食べてもいいよって返しといて」
「言っても食べないと思うけど」
「ああうんじゃあいいや……」
名前が首の後ろに手を持っていく。
「悪かったな、引き留めちまって」
俺の言葉に名前がばっと顔を上げた。
「すいません……」
「はあ?」
俺は眉を曲げる。一体どういう文脈だ。
手を伸ばそうとして、そういや2人じゃねぇんだったと思い留まる。
ヴーヴー、とどうやら名前の携帯にメールでも来たようで、名前がコートのポケットに手を入れる。
弟が横から画面を覗き込む。
「父さん?」
「ああ、うん、もう着くって」
「じゃあ早く帰れよ。あんま暗くなると危ねぇしな」
俺が言うと名前は「あ……はい」と返事をして携帯をポケットにしまった。
「お前何かあったら姉ちゃん守ってやれよ」
「了解ー!」
弟が敬礼のポーズを返した。俺は少し笑って背を向けた。
仲の良い家族だ、と思った。それから、もしかしたら母親がいなくなったからこそなのかもしれないと思いもした。皆が皆支え合わなきゃいけないと考えているからこその。
一度振り返ったら、自転車を押す弟とその隣を名前が歩いていた。


「ランラーン!」
声がした方を見ると嶺二がいた。
「遅せぇ」
「めんごめんご! 打ち合わせが長引いちゃった」
話しながら居酒屋の暖簾をくぐる。
個室に案内されて、嶺二が適当に注文した。
「なんかランランと2人で飲むの久しぶりじゃない?」
「あ? そうか?」
「うん、ランランいつからかあんまり飲まなくなったよね〜 ベロベロに酔って帰ることほとんどないし」
別段意識していたわけではないが、思い当たる節があって、俺はふーんとだけ返してグラスに口をつけた。
「ちょうどその辺? 名前ちゃんと付き合い出したの」
ゲホッと思わずむせてしまい、咳を繰り返しながらグラスを置く。コイツはマジでエスパーか何かかよ。
「はあ?」
と俺は顔を歪めて見せたが、嶺二はふふふんと笑っただけでグラスに口をつける。
俺はひとつ舌打ちを打って、はー……と溜息を吐きだす。コトリとグラスを持ち上げる。
「つーか、付き合ってるとかそういうんじゃねぇよ」
「えー? そう? 最近目に見えて仲良さそうじゃない」
「あー……まあ最近は、それらしいっちゃらしいが」
グラスに口をつけて飲む。嶺二が俺をじっと見ていて、そのまま口を開く。
「名前ちゃん大丈夫なの」
嶺二の声と表情に俺は視線を上げる。
「……なんとかやってんだろ、なんだよ」
俺は嶺二の笑みのない表情を見据えて言った。嶺二は視線を下げてテーブルに並んだ天ぷらを箸で摘んだ。
「……こういうのはどう考えても2人の問題だし、ぼくは口出さないでおこ〜って思ってたんだけど、」
嶺二が口の中に天ぷらを入れて、飲み込んでから口を開く。
「お兄さんからひとつ忠告」
嶺二がびしっと俺に箸の先を向けるので、「指すな」と手で降ろす。
「泣いてたよ、名前ちゃん」
「あ?」と俺は眉を歪める。嶺二は少し視線を下げた。
「あの子はさ、ホントにランランが好きなんだろうね。自分を捻じ曲げるくらいに」
俺は嶺二のその様を見ていた。嶺二はもう一つ天ぷらを口に運ぶ。
「名前ちゃんの最近の変わりようは、いい変化なのかもしれない。でも……人間そう簡単に変われるのかな」
嶺二はそう言って静かにグラスに口をつけた。
「……つまり、どういう事だよ」
嶺二はグラスから口を離すと、小さくひとつ笑った。
「ランランにもんだーい!」
「あ?」
「どうしてぼくらはカメラの前で違う自分を演じるのでしょうか!」
はあ? と眉間にシワを寄せた俺を見て、嶺二は半端に笑って視線を逸らした。グラスに口をつけた。
「ランランにはわからないかな」


嶺二の言葉が頭の中を占領していて、眠っている間も眠っているような気がしなかった。
浅い眠りだったのかアパートの外の階段の、静かな足音で目が覚めたりした。
ひとつ深く息を吐いてソファの上で寝返りを打つ。背もたれに顔を向けると、暗い視界に小さな引っ掻き傷が見えた。
ゆっくりとそれに、自分の指を重ねる。
ピーンポーン。
俺は動きを止めた。どれだけ待ってもインターホンはそれきりしか鳴らず、何の音もしない。
俺はゆっくり起き上がった。
ブラインドから微かに漏れる光は淡い青をしていた。
ガチャ、と鍵を外してドアを開けた。
空はまだ暗かった。薄暗く肉眼で確認できるほどの視界。風は一つもないが、肌寒い空気が澄んでいた。
「…………何してんだよ」
名前は開けた瞬間に目を見開いてこっちを見たきり、俯いて視線を下げていた。
暫くお互いの間には沈黙が降りて、明け方の世界の静寂と相まって、しんとただ静まり返っていた。
「…………会い、たくて」
ソイツは小さな声で言った。
「はあっ?」と俺は思わず声を上げた。名前は俯いている。
「…………そーかよ」
俺は視線を逸らしてそう言った。なんだコイツ、こんなんどこで覚えてきやがった。
俺は頭を掻きながら口を開ける。
「つーか、連絡ぐらいしろよ。起きてたからいいものの……」
ソイツの伏せられた睫毛が震えたような気がした。
「……すいません、やっぱり帰ります」
ソイツがくるりと踵を返したので、俺は手首を掴む。
「おい、誰も駄目なんて言って…………」
俺はひとつ息を吐いて、手を離す。離した手を自分の首の後ろに持っていった。
「あー……なんだその…………最近ろくに話も出来なかったからな。………………俺も会いたかった」
気恥ずかしさを眉間にシワを寄せて誤魔化して、俺は瞼を閉じる。
開いた時、名前は顔を上げて俺を見つめていて、それから視線を落とし、力なく頷いた。

ソイツが部屋に居るのも久し振りだった。
「今日仕事何時だ?」
俺がマグカップを差し出しながらそんなことを言えば、名前は両手で受け取って「9時からです」と答えた。
ふーんと俺は言い、立ったままコーヒーを啜った。部屋の時計は4時半を指している。
名前がソファの端に座ってマグカップに口を付けている。
「……まあ、こうやって朝早くなら、時間取れねぇわけでもねぇか。時間が合わねえ合わねえ言ってたけどな」
この時間ならばお互い仕事もないだろう。つくろうと思えばつくれるのだ。
「……でも黒崎さん寝てたんじゃ」
「一日二日寝なくても死にやしねぇだろ」
俺の言葉に名前は瞳を揺らして、それからまた視線を下げた。
俺はコーヒーを一口啜った。それから足を向ける。
テーブルを回ってソイツの隣に行き、テーブルにコーヒーを置くと共にソファに腰を下ろした。
ソファの半分に腰かけたが、ソイツが端に座っているのか細いのか、距離があった。
腕を伸ばして、その細い二の腕を掴む。
バランスを崩して名前がソファに手をついた。ソファが少し沈んで、顔が近い距離に。
いきなり引っ張ったものだから名前の持っていたマグカップからコーヒーが少量溢れた。
ソイツのニットについた黒いシミに視線を向けて、俺は口を開く。
「悪りぃ」
言いながらソイツを抱き寄せて、胸の中に収めた。懲りずにまたコーヒーが散って床に跳ねた。
腰と後頭部に手を添えて、暫くそのままでいた。名前も何も言わなかった。
まだ夜明け前だから、秒針さえも止まって音を立てない。
衣擦れの音が微かにして、名前が俺の胸に頭をより寄せた。
少しして、小さく、本当に微かに、震える息が、聞こえた。
『泣いてたよ、名前ちゃん』
俺はただ胸の中のソイツを見ていた。
よく見れば、ソファの上の手も、震えていた。
腕を掴んで体を引き離すと、ソイツは目を見張って俺を見た。
ああ、何度も見た、この顔は。
「ご……めんなさい……」
それも何度も聞いた。
『自分を捻じ曲げるくらいに』
手を伸ばして、頬に添えた。名前の瞳はひどくきらきら揺れていた。
「……おまえは、俺に嫌われたくなくて、今まで」
名前の瞳が一層強く不安定に揺れて、それから肩を強く押された。
名前が俺を押しのけてソファの間に距離を開ける。顔も背けて、体をひねって背中を向けていた。
不意にぱたとフェイクレザーに何か落ちて、ぽたぽたと二粒ばかり落ちたところで名前が目元に手を持っていく。
ああ、なんだこりゃ。
俺はその小さな背中を眺めていた。
こんなになるまで俺は、いや、俺がコイツをこんなにしたのだ。
『どうしてぼくらはカメラの前で違う自分を演じるのでしょうか!』
正解は、そのままじゃ受け入れられないからだ。
「名前、」
「もういい、もういい」
腕を掴んでこちらを向かせたが、ソイツは首を振って顔を背ける。涙の筋がぼろぼろ伝ってぐちゃぐちゃだ。
「オイ聞け」
腕をグッと引っ張り頬に手を添え顔を無理やりこちらに向かせた。
名前がその涙で歪んだ瞳で俺を見て、それからふらりと力なく視線を落とした。
頬から俺の手が外れる。
俺もフラと視線を外して、少し息をついた。
ソファに深く背を預ければ、また部屋には明け方の静寂が降りた。
名前は髪を垂直に垂らして、俯いている。俺は静かに息をした。
「…………俺は、おまえに甘えてる部分があった。……おまえも俺に甘えてたからな」
連絡を取ってはそういう事をして、コイツからしたら苦しいこともしたかもしれねぇ。
そうして何一つ言葉にしなかった。俺は、明確な関係になるのをどこかで避けていた。コイツが、それを望んでんのを知りながら。
怖かった、のか。
名前が鼻をすすった。
俺は、コイツがどういう経緯で今の芸風に辿り着いたのか知らない。
見世物にするためにつくられたような綺麗ななりをしていても、それだけで渡って行けるほど、この世界は甘くなかったのか。
コイツにとって、我儘を言える場所は、唯一の居場所だったのだ。
居場所だったのに。そんなコイツが、俺は、
「……好きだぜ」
ソファに背を預けて、ソイツの背中を睫毛を伏せて見ていた。
「……なあ、聞いてんのかよ……」
静かな部屋に俺の声だけが落ちる。
ゆっくり呼吸をしたら、名前の呼吸と重なった。
「…………どっ、ちのわたしが」
泣いているせいで肺が痙攣しているのか、少し詰まったような声がする。
「……おまえに決まってんだろ……」
手を伸ばして、髪に、掠る。気づいたのか気がついてないのか、名前は何も言わない。
暫くまた静寂になった。
不意に息を吸い込む震えた呼吸が聞こえた。
「……わたしじゃ、ない方が、黒崎さん優しかった……」
俺は顔を歪める。
「正面から、抱きしめてくれたことも、なかった…………」
泣きそうな声が終わるやいなや俺はソイツを後ろから抱きしめた。
それから泣いているソイツの肩を掴んでこちらを向かせ、また抱きしめた。
俺の胸の中でぼろぼろと涙をこぼす。
その頬に手を添えて、顔を上げさせる。
普通に泣かせる場所すら、つくってやらなかった。
ソイツの涙で潤んだ瞳を眺めながら、俺は少し眉を歪めて笑った。
「間抜け面……」
顔を近づけて目を閉じた。
唇が柔らかく触れた。それほど長い時間をかけたわけでもなかったのに、今までのどのキスよりも、名前を感じた気がした。



東の方で少しだけ明るみが出てきたところだった。明けかけの空の下をふたり並んで歩いた。
「鍋に台本が入った時に、ああ何やってんだろって思って耐えられなくなって」
鍋に台本が入るとはどういう事だ、と俺は思わず顔を歪めてソイツの話を聞いた。
広い河川に掛かった橋の上を歩いていた。
周囲にはどころか見渡す限り人の姿は見えない。冬の日の出時刻は7時近くもザラで、こんな薄暗さと寒さのダブルコンボの中、わざわざ外に出歩く人間もいないだろう。
名前が話を終えて、それから少し眉間にしわを寄せて視線を反対側へ逸らした。さっきからあまり目が合わなかった。
手を繋いでいた。
指と指の間に絡めて間に下げられている手は、外気に触れているから冷たいはずなのに、いつの間にか互いの体温が混ざり合って温かかった。
前方から、右左に揺れる薄いライトが見えて、名前がぱっと手を離す。
俺はその手を取り返して強引に指を絡めた。
名前は目を見開いて手を見る。
「こんだけ暗けりゃ誰だかわかんねぇよ」
自転車が隣を通り過ぎて、そのまま過ぎ去っていく。前カゴに何か入っているのが分かったので、この時間帯だおそらく新聞配達だろう。
錆びた自転車のギーギーという音が聞こえなくなった頃に口を開く。
「つかお前さっきから事あるごとに離そうとすんなあ」
俺が言えばソイツは「だっ、て」と声を上げる。
「いきなりこんな……今まであんなだったのに……」
俺は隣のソイツに視線をやって、それから立ち止まる。
手を繋いでいるので自然にソイツも立ち止まる。
「……なに」
薄暗い視界の中でソイツが怪訝そうに眉を寄せている。その瞳には、まだ微かに不安の色が揺れていた。
俺は視線を外して、繋いでいる手を引いた。
口元に持っていって、甲に唇で触れた。
ソイツがまるで猫が毛並みを逆だてるみたいにゾワと肩を跳ねさせて、目を見開いて口を何度か開けて可笑しな顔をした。
俺はその反応に一つ鼻で笑って、繋いだ手を自分のコートのポケットに突っ込んだ。
歩き出せばソイツもそうするしかなくて、俺の隣をついてくる。
顔を背けてもう絶対に目が合わない。
「そうだおまえ、マンション引き払うのか」
ソイツは顔を背けたままだったが、少し視線を落とした気がした。ん……とどちらとも言えない返事が返ってくる。
どこかで雀の鳴き声がした。
コートの中の手の力が、少しだけ強まったような気がした。
「……こんな道選んで迷惑も、お金もかけたから、しっかりしたい」
ソイツから落とされる声はカメラの前のものとも、俺たちに見せる裏の、素の声とも違った。
「……それは、わからなく、ねぇけどな」
俺は自分の身内のことを思い起こしていた。上京を決めた時のことを、思い起こしていた。
母親が亡くなって尚更なんだろう。いついなくなるかわからないから、出来る時に恩返ししたい。
感謝と、良心と、そうして責任感が、混ざり合って責め立てる。
トン、トン、トンと包丁の音がしている。
名前が隣でじっと眺めてくるからやりにくいったらねぇ。
「おまえ突っ立ってねぇで他にもやることあんだろ」
6時半まで時間がねぇ、と言いながら隣にあるソイツの足を軽く蹴った。
「……トースト焼く?」
「それは一番後だろ」
ソイツに指示を出すと、ソイツは珍しく素直に動く。どう考えてもコイツが料理に想像以上に時間がかかってしまうのは順序の悪さだ。まあ慣れなければ同時進行は難しく、そうなってしまうものかもしれないが。
「おはよー、ねーちゃんなんか手伝おうか?」
目を擦りながらキッチンに顔を出した高校生が、目を細めてこちらを見て、それから何度も目を擦り直した。
「黒崎蘭丸だ! えええここおれん家だよな!?」
声を上げてキッチンに入ってくる弟を、名前が顔を歪めて見る。炊飯器の米を弁当用に冷ますためにバットに広げていた。
「その前に着替えてきて」
「その前に説明でしょ!」
名前はぐいぐい弟を押し返す。
「何やってんだおまえ……炊飯器開けっぱだ」
俺が指差すとソイツは俺を非難げに見て、それから素直に蓋を閉めにいく。
「家に来てるってことは、やっぱねーちゃん蘭丸さんと……!」
「違う! 違うって言ったでしょ」
名前はそう言いながらサランラップの箱を横に構えて弟の背中を押した。
痛い肩甲骨が痛いと言いながら弟がキッチンから追い出され洗面所へ顔を洗いに行ったところで名前がバンとリビングのドアを閉めた。
「どう考えても何もねえっつうのはキツイだろ」
「家族に交友関係を知られるのが一番嫌だ……」
ふーん、と俺は返して、切り終わった野菜を皿に盛る。外での自分と中での自分が違うなら、そりゃ小っ恥ずかしいもんもあるのかもしれねぇな、と少し考える。
顔を歪めてぺたぺたバットに米を広げているソイツに「おい、」と声をかける。
「なんむっ」
切った葉野菜に焼いた弁当用のウインナーを挟んでソイツの口に放り込んだ。
ソイツが俺を見て、それから口元を手で隠すようにして口を動かす。
俺は一つ鼻で笑う。
「そうだおまえ、米あんま潰すな……」
はたと言葉を止めて見れば、リビングに人の姿があった。
「き…………緊急、事態だと言われて……」
眼鏡をした男性が立っていた。震えた声で俺たちを見ている。
「いや、その…………すんません」
タイミングが悪すぎる、口に放り込んだところから見られていただろう。
「あいつ……!!」
名前がそんなことを言ってバッとキッチンカウンターを出て行く。名前の腕を、その人が掴んだ。
「……名前、その前に父さんに説明しなさい」
名前がうっと呻いて、押し黙る。俺はキッチンからリビングに出た。
「突然押しかけてすんません。名前、さんとお付き合いさせていただいてる黒崎蘭丸です」
「ちがっ、」
「違わねえ」
名前に目を向け制す。
「き、君のことはテレビでよく知っているが、しかし娘と……」
「やっべえ! 朝練遅刻! もう6時半!」
ドタドタと弟がリビングにやってきて、「ねーちゃん朝飯! 弁当! できてる!?」と言う。
「誰のせいで……!」
「おうもう食えるぜ」
名前の隣で弟にそう言えば、弟は「まじ!? 良かった!」と椅子を引く。
「ほらよ、パン自分でトーストしろ」
「はーい!」
テーブルにオムレツとサラダやベーコンののった皿を並べる。
「お義父さんもどうぞ。厚かましいかもしれないですが、料理は慣れてるんで手伝える時は手伝いに来ます」
存外丁寧な言葉遣いがするするでてきて、まさか過去のあの甘ったれた時代がこんなところで生きるなんてなと少し笑えた。
「マジ!? 蘭丸さん明日も来る!?」
「おう。明日も早朝ロケとかねぇしな」
「くっ、ろさきさん」
名前が俺の服の裾を引っ張る。
「あ? おまえに任せてたら2時間も3時間もかかんだろ? んなんじゃ追い込まれて当然だ。嶺二から聞いたがこの前台本丸々すっ飛ばしたらしいじゃねぇか、仕事にも影響出てんだ」
「あっの人は何でそういうこと……」
名前が苦い顔をしてそんなことを呟く。
う、うん、と咳払いが聞こえた。
「手伝いに来てくれるのは本当に有難い、だが交際の件は娘もまだこの歳だし……」
「ごちそうさま! 蘭丸さん弁当はできてる!?」
「あ? 後詰めるだけだ、ちょっと待ってろ」
「お前わざと邪魔してるだろう!」
父親が弟に言うが、当の本人は「パンもう一個咥えてってもいい?」と食パンの袋を開けている。
キッチンに入ったら名前もパタパタ付いて来て、俺の隣に並ぶ。
「黒崎さん、」
「話は後だ。米詰めろ」
ソイツが暫く何か抗議するように俺を見たが、結局きちんと弁当箱の下段に飯を詰めはじめる。
ドタドタと階段を駆け下りてくる足音がして、すぐそこで止まる。
「きゃー! 本物だ! さすがおねーちゃん!」
パジャマのままキッチンに顔をのぞかせている。
「ねえねえ友達に自慢していい?」
「週刊誌行きだから絶対ダメ!」
名前が上げた顔を青くして言う。「えー?」と言う妹に「絶対ダメ! 絶対! わかってる!?」と必死に訴えていた。
確かに一番まともに見えるかもしれねぇ、と思って俺は少し笑った。
「なに笑って……!」
ソイツが振り向いて顔を歪める。
「ははっ、んでもねぇよ」
そう言って頭を小突いたら、名前が目を見開いて、みるみる顔を赤くした。
きゃー!! と妹の興奮しきった声が聞こえて、名前が涙目になりながら「何でもない何でもない!」と妹に叫んでいた。
「ねーちゃん選択の教科書販売今日までだ!」
「はい!?」
弟が封筒を持ってそんなことを言い、名前は「もう……!」と眉間にシワを寄せながら、急いで自分の財布を取りにいった。

「やっと静かになったな」
タオルを物干し竿に掛けながら言うと、暫くの沈黙があった。
「…………すいません」
俺は一度振り向く。カゴからTシャツを出した名前が少し睫毛を伏せていた。
なんでおまえが、と言おうとして口を閉じる。
「……あんだけ賑やかなら、楽しくていい。あんま、なかったからな、こういうのも」
なるべく本心の通りを、言葉にする。
ソイツは俺を見つめて、それはそのまま視線が落ちることもなく暫く俺に留まっていた。
ばさ、ばさ、と名前がTシャツのシワを伸ばしている。
「俺と住むか?」
名前がハンガーに伸ばした手をピクリと止めて、それからゆっくり俺を見た。
目を見開いたまま、揺れている目と目が合っている。
「まあ……おまえが嫌じゃなきゃな」
俺はそう言って、カゴからバスタオルを取り出して物干し竿に洗濯バサミでとめる。
キィ、キィ、とTシャツが掛けられていくハンガーが、物干し竿に擦れて小さく音がしていた。
不意にその音がやんで、風が軽く吹いた。髪を少しだけ揺らした。
「……住み、たい、けど」
小さな声がした。俺は顔を隠すように俯いているソイツを眺めていた。視界の端に風で揺れた自分の髪の毛が映る。
「……あんま帰らねぇのに、高い家賃払うのも勿体ねぇ」
それに、と言葉を続ける。
「この家に居たんじゃ、おまえどこにも甘えられねぇんだろ」
洗濯バサミから手を離して、ソイツを見る。数歩進んで、手を伸ばす。
瞬間風が強く吹き、白いバスタオルが俺たちを隔てるように舞った。
バタバタ吹き荒れるバスタオルを眺めながら、下に見えた腕を取った。
御構い無しに引き寄せたら、バスタオルを巻き込んで名前が胸に収まる。
風が止んで数秒して、名前がまとわりついたバスタオルを払った。
後頭部に手を添えて、自分の胸に顔を埋めさせる。
「…………いきなり、優しくなって怖い」
「あ?」
「違う、…………いきなり優しくされると、怖い」
名前の頭が俺の胸にギュッと寄って、片手が俺の服の裾を掴む。
いきなりっつーか、と内心で呟いた。窓からリビングの時計が見えて、多分もうすぐコイツも仕事に行かなければいけない。
体を離せば、名前が少し睫毛を揺らした。
顔を寄せて、額をソイツのそれにこつとぶつける。
至近距離で目を合わせて、それから、ゆっくり顔を上げて唇を重ねた。
触れるだけのものにした。代わりに耳元で囁いた。
名前が目を見開いて俺を見て、それから耳を塞ぐ。
俺は一つ笑って、姿勢を戻した。
「おら、早く終わらせねぇとおまえも遅刻だ」
そう言ってさっきの風でよれたバスタオルに手を掛けたら、グッと服の裾を引っ張られる。
「あ? おい伸び……」
屈んだ姿勢にキスされた。口の端から唇を離したソイツは、すぐに視線を逸らすとくるりと背を向ける。
「あ……? オイ干すの終わってねぇぞ」
名前の背中は足を止めて、それから顔を歪めて戻ってくる。
腕を引っ張ってキスしてやった。
バッとソイツが離れて口を手の甲で隠す。隠しきれない顔の赤さに俺が目を細めると、ソイツは顔を逸らして洗濯カゴをずるずる向こうへ持っていった。
名前が向こう側で洗濯物を干し始めたので、バスタオルに遮られてたまに腕が垣間見えるくらいになった。
俺は一つ笑って干すのを再開する。
風が心地よく吹いていた。垣根の上で猫が丸くなって眠っている。


やっとつくった合鍵をポケットに入れて、帰路に着いていた。
仕事が立て込んでいて、どうにも暇がなかった。実際の日数にしてみれば大して経っていないのかもしれないが、俺は何だかそのことばかりずっと考えていたせいか、やっとだ、と思えたのだった。
アパートの階段に足を掛けて、いつもの猫達が姿を見せない事に気がつく。まあ元々気まぐれだしな、と考え、カンカンとトタンを靴底で鳴らして階段を上る。
辺りはもう暗かったが、ここのところ日付を越えての帰りだったことに比べれば今日は早い方だ。
階段を上りきると、ニャー、とどこかで声がした。
「んだよ、仲良くなったのか?」
笑って言えば、ドアの前でしゃがみ込んでいた名前が顔を上げた。
名前の周りには見慣れた猫達が居て、一緒になって座っているように見える。
「……遅い」
「悪かったな」
名前が立ち上がると猫が名前の足に擦り寄って、「うわあ!」と名前は大袈裟な声を上げた。
俺は少し笑いながら鍵を回す。ガチャと音がしてドアを開ければ、猫が主人よりも先に滑り込んでいく。
「つかおまえ何持ってんだ」
俺が振り返って言うと、名前は俺に向かってそのケーキ屋の箱を差し出す。
「……一緒に、食べようと思って……」
視線を下げながら言うソイツに俺は顔を歪めた。マジでどこで覚えてくんだよ。
俺はその箱の取っ手に指を引っ掛ける。名前の指と少し触れた。
「ん」
え? と名前が言う。
「手出せ」
名前は少し訝しげな顔をした後、けれども素直に俺の出した拳の下に自分の手のひらを出した。
鍵が落ちる。
名前の大きな目がさらに見開かれる。
「遅くなっちまって悪かったな」
名前が手のひらをゆっくりと閉じて、ぎゅっと握りしめた。
「……忘れてるかと思った」
「忘れるわけねぇだろ」
胸の前で握りしめる名前の頭に、ぽんと手を置いて中に入る。
靴を脱ぎ部屋の前で振り向くと、ソイツがもたもた編み上げのブーツの紐を解いていた。
俺はつま先の方向を変えて、背後から掬うように腕を伸ばす。
「なっ、に……」
近い距離に言葉を止めたソイツに、そのままキスをする。
唇が離れると、互いに互いの影が落ちる中、目が合う。
「おまえもっと脱ぎやすい靴履いてこいよ」
「……気に入ってるから」
その言葉に俺は一つ笑って、ソイツから手を離す。
名前が脱ぎ終わるのを待っていた。
名前がブーツを揃えて置いたら、玄関に俺の靴とソイツの靴が並んだ。
これからは二人だ。
これまで遠ざけてきたのが嘘のように、悪くねぇな、と思うのだ。
「ニャー」
「うわっ、蘭丸さんどうにかしてっ」
「ここに住むんなら慣れろよ」


End
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