snow mellow (美風藍) 2/2


ドラマでは恋人同士ということですが、実際のお二人は惹かれあったり〜とかないんですか? 同じ事務所で会う機会も多いですよね!」
雑誌の取材を受けていた。撮影したドラマの放送に合わせて発売される。雑誌は編集諸々合わせていつも忘れた頃に発売される。
「ただの先輩と後輩です。プライベートでの交流もないくらいの」
私がそう答えると、隣に座っている美風さんが「そうだね」と口を開く。
「でも、ボクは彼女の実力には一目置いてます。ボクにないものを持ってる。もっと仲良くなれたらなって、ずっと思ってて。共演して、ちょっとは近づいたかな」
美風さんが私に笑って視線を向けるので、私は「そうですね」と頷いた。
「苗字さんは美風さんについてどうですか?」
「尊敬してます。あ、この前発売したCDも買ったんです。凄く良かった」
「そう? ありがと。嬉しいな」
美風さんが笑って言うので私も笑みを返した。
取材が終わって部屋を出ると、美風さんが「ちょっと、」と私に声をかけた。
「最初の質問の答え方、どうなの?」
私は美風さんの顔を見た。美風さんは眉をひそめている。
「ドラマの取材なんだから、ドラマを観て読んでる人も居るわけでしょ? 役を壊すようなこと言うのってどうなの? やんわり否定しつつ、けれど殺伐とし過ぎない答えがベストなんじゃない? 実際殺伐としててもね」
美風さんはにこりとも笑わずそう言って、それから腕時計に視線を向ける。私は何も言わずに美風さんを見ていた。
「ボクは今日はもう終わりだけど、君は?」
「……事務所に用事があるので」
私がそう言うと、美風さんは、
「あっそ、じゃあね」
とひらりと手を振って行ってしまう。
私はその背中をしばらく見つめて、それから背を向けて歩き出した。
タクシーに乗って帰った。事務所に用事などない。
黒の中に夜景が映える。流れるように光が筋になった。
「いや〜冷えますね」
運転手が声をかけてきた。そうですねと返す。ラジオをBGMに運転手が話す。
「今日が一番の寒波だって、毎日言ってますよ」
そうですね、と私はまた返した。ゆっくりと目を閉じた。
上手く消えたようだった。
こんなに綺麗にいくものだろうか、けれどもパソコンのデータファイルを消すように、きちんと管理さえされていれば、案外思い通りに。
私は目を開いて窓に頭を預けた。イルミネーションがどこもかしこもキラキラと、陽気に。
後は、乗り越えるだけだ。
この連日のように記録を更新し終わりの見えない寒い日々も、いつかは春を迎えるのだから。
それまで、どうか。
黒い液体、コーヒーから白い湯気が立ち上っている。
ふとその湯気が揺れて、顔を上げる。
「ごっめーん! 収録が長引いちゃって!」
いえ、と私は言った。寿さんが顔の前でパンと手を合わせて、それからコートを脱ぎ椅子にかけた。
寿さんが店員を呼び止めカフェラテを注文した。それから、ふーと息を吐いて、「寒いね〜」と言った。
そうですね、と返す。
寿さんが視線をテーブルの上に落としてから、視線を上げて笑った。
「ごめんね、急に呼び出したりなんかして」
「……いえ」
寿さんは視線を少し下げていた。店員がカフェラテを運んできて、寿さんの前に置いた。ありがとうございます、と寿さんがいつもの笑みで笑った。
寿さんがカップを持ち、一口口へ運んだ。
「……アイアイのことなんだけどさ」
寿さんが静かに口火を切る。私は、はいと小さく言った。
「なんていうかアイアイ……変じゃない?」
寿さんは言葉を選ぶように言う。
「いつも通りといえばそうなんだけど、でも…………名前ちゃんなら何か知ってるんじゃないかと思って」
私は何も言わずにテーブルの木目を見つめていた。私なら何か、つまり、私に対する態度だけがおかしいのだと。
私は店内の照明が映る珈琲の水面を見つめた。それから視線を少し上げる。
「……全て元通りにしようって、」
「アイアイが言ったの?」
言葉の勢いに顔を上げると、寿さんの目は瞬きせず真っ直ぐ私に向いていた。
真剣な、微かに不安が揺れた目で、私はすぐに視線を逸らしてしまった。
落ちた視線はテーブルの木目の上で、私はそのまま口を開く。
「……いえ、……私が……」
暫くの間があった。その後カタとカップをソーサーに置く音がした。
「……そっか」
寿さんは言葉を選ぶようにゆっくり言った。
沈黙が続いて、私は卓上のコーヒーカップを口元へ持っていった。店内の柔らかな音楽が、ただ間に流れていた。
「名前ちゃん、」
寿さんの声に顔を上げる。
「……大丈夫?」
涙が滲んだ。
その一言が聞こえた瞬間、下瞼に涙が滲んで、私は思わず視線を左右に揺らした。
寿さんが悲壮な顔をして、それからまた「名前ちゃん、」と私の名前を真剣な声色で呼んだ。
「ねえ、ぼくはアイアイも大事だけど、名前ちゃんだってぼくの大事な後輩だよ」
寿さんは、聞いたことがないくらい真剣な声で言う。
「名前ちゃんにだって、傷ついてほしくない」
私は俯いて涙が落ちぬように瞬きを繰り返し聞いていた。
「名前ちゃん、」
寿さんの声に、一度瞼を閉じてから顔を上げる。
瞳を揺らして、けれど真っ直ぐに寿さんは私に視線を合わせていた。
「ぼくにできることがあれば、言って。どんな些細なことでもいいから……」
私は視線を下げて、瞼を閉じた。震える息を、吐き出した。首を振れば、髪の擦れる乾いた音がした。
「……何も……すみません」
何も、何も出来ないのだ。寿さんも、私も、私が、入れるような領域じゃなくて、私の力でどうにかなるような事じゃなくて、私に想像のつくような存在じゃなくて。
暫くの間の後、寿さんはなるべく優しい声で「……そっか」と呟いた。
「でも名前ちゃん、もしぼくにできることができたら、呼んでね。絶対に力になるから」
寿さんは真剣な顔でそう言って、最後に力を抜いて笑った。
私は「ありがとうございます……」と呟いて、頭を下げた。
『システム上は出来なくはない。けどね、僕は藍を限りなく人間に近いものにしようと思ってるし、社長との契約もそういうことになってる。何より藍が、そうなろうと努力してる』
君だってそれはよく知ってる筈だろう、と博士は言った。笑みはなかった。
私はドラマの現場での美風さんを思い出しながら、けれどもただソファに座って俯いていた。
『人間に、記憶を無かったことにする機能なんてない。乗り越えて生きていく。僕は藍にもそうさせるべきだと、思うけどね、出来れば……』
博士は私を見た。
『君と』
ただ俯いていた。かじかんだ指先は、いつまで経っても体温を取り戻さなかった。
『……その度に倒れてたら、どうにもならないですよ……仕事にも影響が出れば、本末転倒じゃないんですか』
博士はコーヒーを啜った。パサリとどこかで書類が一枚落ちた。
『確かにね、君が言うことも正しい。どころか、藍を作った本来の目的を考えると君の意見が正しい』
博士はあっさり肯定して、書類の落ちた場所へ移動し、目をやって、そのまま拾わず元の場所に戻った。
『今はオーバーヒートだけで済んでるが、このまま続ければもっと酷いことにならないという保証もできないし』
私は博士の声を聞いていた。両手で包んだコーヒーの、湯気が揺れて消える。
『それにこの件は、君の協力がなければこれ以上の進展も見込めないだろう』
愛を学ばせる良い機会だと思ったんだが、と博士はコーヒーを口へ運んだ。
私は微かに揺れるコーヒーの水面を見つめていた。
『君は藍の気持ちを受け入れる気は無いんだろう?』
『…………怪しまれたかもしれないです』
ん? と博士は言った。
『ばれては、ないと思いますけど、何かあるって……思われたかもしれない……』
博士は話の方向をつかもうとしているのか黙って聞いていた。
湯気が揺れた。
『……駄目なんです私じゃ、機転も利かないし、力もない……私じゃ、ダメです何も、できない……』
咄嗟に上手く誤魔化すこともできない、あれじゃすぐにバレてしまうかもしれない、美風さんが不能になったときに運べる力もない。挙句私が、美風さんを追い込んでいる。あんな状況でも気を遣わせた。
『…………君がそう言うなら、仕方がない』
博士の声を聞いていた。どんな風に消すのだろうと、少し思った。
『残念だよ、感情を学ばせる良い機会だったのに』
博士が最後の確認のように言う。
『……美風さんは、』
私は口を開く。ゆっくり、湯気が消えていく。
『また、誰かを好きになります……そして多分その人は、強くて、美風さんを本気で愛せて、美風さんの全部を、受け入れられる人です……その人となら、美風さんは感情を…………』
私は一度息を全て吐き出した。震えていた。
学べます、という最後の一言は、声にならなかった。
博士はゆっくりと呼吸をしてから、『そうだな』と呟いた。
湯気はもう見えなかった。口に運べばぬるくなっていて、いつもより苦さを感じなかった。
最後に博士は言った。
『君は、藍を人間としては見ていないんだな』
まあ、人間じゃないんだけど、と博士は言ってコーヒーを全て飲み干した。
私は瞳を揺らして、けれども結局瞼を閉じた。
静かな窓辺に、雪が降っていた。


「あっ、み、美風さん好きです!」
事務所に仕事の資料を取りに寄った。
「あらなに? 公開告白かしら」
月宮さんが、かーわいい、とくすくす笑う。
その隣で見慣れぬ女の子が顔を真っ赤にして違いますすみませんなどと取り乱している。
「ありがと。大変だと思うけど頑張って。よろしくね」
美風さんはそう言って少し笑って、事務所の中に入っていった。
彼女はドアが閉まった後もそこを見つめていた。
「あら名前ちゃん!」
月宮さんが私に気が付き声を掛ける。お疲れ様ですと会釈をした。
「ちょうど良かったわん、この子新しく入った子。色々教えてあげてねっ」
「あっ、よっよろしくお願いします!」
ばっと頭を下げる。それから慌てて自己紹介を始めた。
私は、はい、とだけ言った。名乗った方がいいのかとも思ったが、月宮さんが「じゃあアタシこの子を案内してくるわね〜資料はいつもの所にあるわ」と言ったので、ありがとうございますとだけ返して見送った。
事務所の扉を開けると、美風さんが立ったまま資料に目を通していた。
「……お疲れ様です」
背中に一応声を掛けると、美風さんが振り返った。
「おつかれ。キミの資料はこれでしょ?」
そう言って机の上からクリップで留められた書類一式を持って私に差し出した。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
私が受け取ると美風さんはまた書類に目を通し始めた。
私は書類を一通り確認してから、鞄の中にしまう。失礼しましたと声を掛けて、さっさとドアノブを握った。
と、きゃっと短い声がした。開けた先に月宮さんがいた。
「あ、すみません」
「びっくりした〜名前ちゃん案外勢いよく開けるのね〜」
私は思わず自分のドアノブを握る手を見た。それから月宮さんが中に入るのだと思い出して、ドアを全開まで開けて端に寄った。ありがとっと月宮さんが笑う。
「新人の彼女は……」
「シャイニーに取られちゃった!」
月宮さんが頬を膨らませて大袈裟にリアクションを取る。なるほど社長から話があったのだろう。
「あっ! そうだったわお菓子頂いたの! ルシャナのチョコレートっ♪ 一緒に食べましょ〜? コーヒー淹れるわね」
私は一瞬返事をためらったが、月宮さんが返事は聞かず楽しげにコーヒーメーカーに向かってしまったので、何も言わずにドアを閉めた。
「あいちゃんも食べるわよね」
「ボクはいいよ」
「あら、甘い物苦手だった?」
「甘い物っていうか、あんまり食べないようにしてる」
あらそうなの? と月宮さんは言ったが特に気にした風もない。淹れますよ、と月宮さんに言って代わる。あらありがと、と返ってきた。
月宮さんがどこからかチョコレートの箱を持ってきて、テレビの前のソファに腰を下ろした。笑い声がして、テレビをつけたようだった。
コーヒーの瓶からスプーンで数杯掬って、マグカップに湯を注ぐ。湯気とコーヒーの独特の香りがふわっと立った。書類をめくる音がする。
「……美風さんコーヒーは」
「ああ、いらないよ」
わかりましたと言って、私はマグカップを両手に持って月宮さんのところへ移動した。
月宮さんにマグカップを手渡して向かいのソファに座る。
「見てみて〜! さすがルシャナ、かわいいのよね〜!」
月宮さんは頬に手を当ててそんなことを言ってチョコレートを眺めた。
「やっぱりアタシは〜ハートっ」
月宮さんの空中を辿っていた指が真っ赤なハート型のチョコレートを摘んだ。
「名前ちゃんはどれ?」
「じゃあこれいただいきます」
正方形にストライプがプリントされたチョコレートを指せば、名前ちゃんらしいわと言われた。
「結局口に入ればわからないのに、どうしてわざわざ形に凝るんだろう」
美風さんがチョコレートを難しい顔で眺めてそんなことを言った。書類は読み終わったのか閉じられている。
「味は同じでも、可愛いとついつい買っちゃうのよ〜プレゼントとかにもいいし、なにより幸せな気持ちになれるじゃない?」
「幸せ……そうなの?」
美風さんがよくわからないと言いたげに眉を寄せた。
『どこにも行かないでください』
不意にテレビから自分の声がして、思わず画面を見た。さっきまでCMで気が付かなかったが、ドラマが流れていた。
画面が切り替わって美風さんが映る。美風さんとのドラマ。
「そうそう評判いいみたいね、アタシもついつい勉強とか忘れて見入っちゃうの」
月宮さんがチョコレートをまた一つ摘んでぱくと食べる。
「まあ感情の描写が多い作品だしね」
「続き気になってたんだから、変えないでね」
月宮さんが少年っぽく笑って、画面に視線を向けた。
私も画面を見た。画面の中の美風さんを見た。
そうして視線を外して、手にあるチョコレートを口に入れた。甘さの中に、オレンジピールか何かの酸味が混ざった味だった。
「……ナマエ、」
私は動きを止めた。
ゆっくりと、顔を上げる。
美風さんは真っ直ぐにテレビの画面を見つめていた。
目を見開いて、瞳を揺らして見つめていた。
「みか……」
「ボクキミが好きかもしれない」
美風さんは画面を見ながらそう言って、それから戸惑ったような顔のまま視線を私に向けた。
月宮さんは目を見開いて黙って口元を押さえた。
「……うん……なんだろう……説明が、できないんだけど……」
美風さんは考え込むように下を向いて呟く。
何か考えるよりも先に、それか全てを考えた上でも答えがすぐに出たのか。
「違います」
随分と響いた。
美風さんが顔を上げる。月宮さんがびっくりしたような目で私を見た。
私は美風さんを見つめて、勝手に視線が揺れて、外れていた。
「……違うって、どういう事……?」
美風さんが探るような目で私を見る。私は震えている息を整えるように息を吐く。
「いいんです何も……とにかく何も考えないで……」
言えば言うほど絡まっていく気がした。美風さんがますます複雑な顔をする。
「……ナマエ、」
「もうやめてください」
気がつけばそんな言葉が飛び出て、顔を上げてはっきりと美風さんに向かって言っていて、美風さんの、傷ついたような顔を見た。
私は口を開きかけて、けれども声が出なかった。
美風さんを救えるような言葉は、私には何一つ思い浮かばない。視線を落とした。
静かな部屋に、ドラマの台詞だけが響く。響き消える。
「どうしてキミが、そんな顔してるの……?」
顔を上げると、美風さんが心配そうに顔を歪めて私を見ていた。
私は目を見開いていた。あの時の車の中での美風さんと重なって、もう本当に駄目だと思った。
どうしたらいい、これじゃまた同じだ、また私は、誤魔化さなければ、でもなんて言ったら、何もできない、どうしたらいい、何もできないのに。
「失礼しまーす、ってあれれ」
ドアが開いて元気な声が飛び込んできた。見ると寿さんが、ドアノブを握ったまま瞬きをしている。
「もしかしてぼくちんお邪魔だった……?」
妙な空気を察してか、寿さんは頬を指で掻いてそんなことを言った。
「こ、とぶきさん、」
気がつけば掠れた声が出ていて、その声に寿さんが私を見る。笑みのない不意の表情で意図を汲むかのように暫く視線が合っていた。
不意に視線が外れた。
「そーっだアイアイ! ぼくアイアイに話があったんだった!」
静かな部屋に寿さんの明るい声が響き渡る。
「……ちょっと待ってレイジ、ボク今大事な話を」
「ぼくの話も大事な話だよ、さっアイアイレッツラゴー!」
「ちょっと、」
寿さんが美風さんの肩に腕を回して半分無理矢理引っ張っていく。
「れいちゃん、」
「林檎先輩は名前ちゃんおねがーい!」
さすがに咎めるように呼びかけた月宮さんに、寿さんはひらりと手を挙げそんな事をいって出ていく。「え?」と月宮さんが不意をつかれたような声を上げた。
パタン、とドアが閉まった。
「一体どういうこと……?」
困惑したように月宮さんが呟く。
私は目元に手を当てた。
「名前ちゃん? ちょっとどうしちゃったの!?」
月宮さんが慌てたように言った。顔を覗き込んだり声を掛けたり色々していたが、最後には何も言わずに背中を優しく撫でてくれた。


寒空の下、春服を着てカメラの前に立っている。
ファッション雑誌の撮影だった。季節外れのチューリップの花を持ち、そっと目を閉じた。
春が来るのだろうか。春が来れば全てが無かったことのように溶けてくれるのだろうか。
美風さんの記憶を消すことで凍らせて、跡形もなく溶けてくれるのを待っていた。それだけが、のぞみで。
事務所に取りに行かなければならない資料がいくつかある。けれどもここ数日足を向けていない。
午後から、テレビ番組のゲスト出演がある。
ドラマの、番宣だ。
「美風なら熱を出して寝込んでいるらしい」
カミュさんの言葉を聞いて、私は息が止まったような心地がした。
「貴様、今日共演する予定だったのだろう。どうして知らんのだ」
カミュさんが呆れたように私に言う。
「カミュさん、苗字さん、よろしくお願いしまーす」
スタッフの声がかかりカミュさんが声色を変えて「はい」と笑顔で頷いた。
代打で来てくださったらしいカミュさんは、けれども私以上にドラマについて語った。見所や良さなど、見たくなるような巧みな文面だった。
代打なのにどうしてそれ程詳しいのかと司会者に問われて、実は面白くて毎週楽しみにしているのだと営業用の笑みを貼り付けさらりと答えていた。
美風さんはもう3日ほど仕事を休んでいるらしい。事務所でそう日向さんに聞いた。
街はクリスマス一色だった。
ホワイトクリスマスになるだろうと天気予報が告げていた。
いつかのスケートリンクのある公園は、今日も人の姿は殆ど見られなかった。
ポケットのスマホが振動で知らせて、見ると着信。博士の番号だった。
私はそれを見つめて、ポケットにしまった。
スケートリンクの柵に手をついて、ただどこにもない地平線を見つめていた。
気を抜くと、しゃがみ込んで二度と立てなくなりそうだった。

翌日熱が出て、事務所で倒れてしまった。
月宮さんに叱られて、そのまま強制送還された。スケジュールが少なく、変更の効くものばかりだったのも大きいだろう。
タクシーの中からキラキラ輝く街の様子を眺めていた。車内のラジオは、クリスマスソングばかりを流していた。
コートのポケットの中のスマホが振動した。ヴーヴーと微かな音が響きわたる。
私はポケットに手を入れた。画面を見ると着信、寿さん。
何をしているんだろう、と、思った。勝手に傷ついて、体調管理も怠って。
スマホを耳に当てて、「はい」と呟いた。
『レイジの電話なら出るんだね』
飛び込んできた綺麗に澄んだ声に、私は血の気が引いた。
クリスマスソングが小さくなった。運転手が気を使って音量を下げたようだった。
私は瞳を揺らしていただけだった。
『今から会える?』
公園は閑散としていた。スケートリンクのある公園。空は雲で白く、雪がちらついていた。
木材で出来た平らな屋根の下、憩い場のベンチに美風さんは腰掛けていた。
私がその屋根の下に入ると、美風さんの背中が振り向いて、視線が合う。
「……体調、平気なんですか」
私が言うと、美風さんは「まあね」と返した。私はそうですか、と相槌を打って、差してきた傘を畳んだ。
ベンチまで行って、少し離れて腰を下ろすと、美風さんが前方の景色を見たまま口を開く。
「思考を回し続けると、オーバーヒートで倒れちゃうでしょ? だから博士の研究室にこもって、オーバーヒートしたら直して、またなったら直して……思考を繋げてたんだ」
私は俯いたまま、そうですか、と返した。
暫く静寂が降りて、雪がゆっくりと舞っている。
「……ずっと、キミのことを考えてた」
私は地面を見たまま顔を上げられなかった。
「博士に……消した記憶も戻してもらったよ」
私は目を見開いて、それから瞳を揺らした。コンクリートで補整された屋根の下の領域に、雪が風で流されてきてシミを作っている。
静かに、息を吸い込むような音がした。
「キミの……言う通りなのかもね」
美風さんの横顔は遠くぼやけた地平線を見ていた。上も下もわからぬような、真っ白な景色。
「……どれだけ考えたって、キミの疑問に対する答えは見つからなかった。ボクとキミが一緒になって、どこへ行くのかっていう疑問」
美風さんは段々と視線を落として、やがては数メートル先の雪が作った染みを見ていた。
私は揺れた瞳を地面に向けて、そうしてゆっくり瞼を閉じた。
そうだ、正解は、二人できちんと、終わらせることだったのだ。美風さんが人間じゃないことに漬け込んで、自分だけ、身勝手に終わらせようだなんて。
不意にすぐ側で空気の動く気配がして、顔を上げる。
「…………」
ゆっくり顔を離した美風さんが、至近距離で閉じていた瞼を開く。
私は呆然と固まっていた。息をすることを、忘れていた。
唇に触れた感触は、外気が冷たい反動か少し温かく感じた。
「……確かにそうなんだけど、」
美風さんが口を開く。眉間に少しシワを寄せて、難しいことを考えるような顔をしている。
やがて、その視線が上がる。すぐ側の距離で、目が合う。
「そういうのを全部押しのけて……ただキミと居たいっていう、この感情に、全てを任せちゃダメなのかな」
『ボクは、任せてみたいと思ったよ』
真っ直ぐ向いた澄んだ目が私を捉えて離れない。
「でも」や「けど」と脳内では言葉が出るのにひとつも声になりはしなかった。
それが許されるのなら。
何か言おうとした。けれども声になる前に、私の体はグラリと揺れた。
「えっ、ちょっと、」
美風さんの動揺した声が聞こえた。
私は閉じた視界で、するはずのない雪の降る音を、確かに聞いていた。

目を覚ますと、酷い頭痛と目眩がした。体の節々も痛んだ。
「……起きた?」
綺麗な声が頭上でした。
ゆっくり瞬きを何度か繰り返し、視界を明瞭にさせていくと、段々と私を覗き込むその顔がはっきりとしていった。
「大丈夫? 熱があったんなら言いなよ、あんな寒い所で話なんてしなかったのに」
美風さんがひとつ息を吐いて、それは溜息のようだったが、どこか安堵のような表情も兼ねていた。
「お。起きたか?」
不意に声がして、美風さんが振り向く。
「うん、薬飲ませた方がいい?」
視線を動かすと、椅子に座った美風さん越しに白衣を着た博士の姿が見えた。視界のあちこちに映る書類の山、視線を動かすと私はソファーに横になっていた。どうやら博士の研究室のようだった。
「風邪薬だから、何か食べてからのがいいな」
「そう。何食べたい?」
美風さんが私に顔を戻して問う。
「…………私、倒れて……」
「そうだよ。リンゴに聞いたけど、事務所でも倒れたんだって? プロでしょ? 体調管理には気を付けなよ」
美風さんの言葉を私は熱っぽい頭で聞きながら、すみませんと口にした。
「そんなこと言ってるが、君を連れてきたときの藍、随分と必死だったんだ。電話で開口一番『どうすればいいの』って、パニックになってた。君が起きるまでずっとそうやって付き添ってたしね」
「ちょっと、余計なこと言わないでくれる? ていうか、ボクは経験したことないから、何から何までわからなかっただけで」
はははと博士が笑う。美風さんは不機嫌そうに顔を歪めた。
「で? 何が食べたいの?」
美風さんが私を見て言う。
「……お粥、とか……」
「わかった。ちょっと待ってて」
美風さんはそう言うとすぐに立ち上がり、部屋の外へ向かう。私はその様を眺めていた。
博士と目が合うと、博士は少し笑った。
ガタガタと部屋の外から何か音がし始めた。
気がつくと浅く眠っていたようで、ドアの開く音で目が覚めた。
「おまたせ、起きられる?」
美風さんはお盆を持ってこちらにやってきて、それをテーブルに置いた。
私は重い体を起こす。
美風さんがソファの前に置かれていた椅子に座って、レンゲを手に持つ。
「何してるの? 口開けて」
美風さんが掬った一口分のお粥を構えて言う。
「……自分で、食べられます」
「そう?」
美風さんは首を少し傾けてそう言いレンゲを私に手渡した。受け取って口へ持って行く。
「……ありがとうございます」
「うん。美味しい?」
「はい……」
美風さんは私が食べている様をじっと観察するように見ていた。私は心地の悪さから視線を向けないように食べていた。
「片付けてくるよ、薬飲んでね」
食べ終わると美風さんが食器を持ち上げて出て行った。
言われた通りに風邪薬の錠剤を、用意された水で飲み込んだ。喉に一瞬使えるような感覚がした。
ソファに背を預けたまま、ぼうっとしていると不意にドアが開いて美風さんが戻ってきた。
「薬飲んだの?」
美風さんがそう言ってから、テーブルの上の錠剤の空を見て「ちゃんと飲んだみたいだね」と言った。
「あとは睡眠を取ることかな。免疫力を高めなきゃいけないし」
私は美風さんを眺めていた。
不意にその視線に美風さんが気がついて、不思議そうな顔をした。
「なに?」
熱のせいで頭が働かないのか、頭の指示が上手く各部に伝達されないのか、私はただそのまま美風さんを見ていた。
美風さんが一瞬眉を寄せたものの、黙って私を見つめ返す。
暫くの間ただ目が合っていた。私も美風さんを見て美風さんも私を見ていた。それ以外に、何もない。
何も、ない。
「雪……が、すきです」
私の唐突な言葉に、美風さんが不思議そうな顔をした。
「? 何?」
「美風さんの、歌声……綺麗で、雪、みたい……」
熱に浮かされるまま溢れる私の言葉に美風さんはハテナを大量に浮かべたような顔をしている。
「……ごめんなさい、記憶の、は、勝手に……」
美風さんは眉間に盛大なシワを寄せて、それから諦めたように首を傾けた。
「話が支離滅裂だよ、どうしたの?」
私は瞼を閉じて眉間にしわを寄せた。自分でも何がなんだかわからなかった。自分の思考の筋がすり抜けて掴めない。
不意に空気の気配がしたと思えば、美風さんがこちらに来ていて、ソファの、私の隣に腰を下ろした。
「まあ……熱があるからなのかな。ボクの場合は思考が動かなくなるけど、人の場合は行動に理性が追いつかなくなる感じかな」
美風さんはそう言って、私に視線を向ける。
「今の、君の本音だと思って受け取っておくけど、いい?」
私は近い距離のその顔を眺めていた。
「……ほら、もう寝なよ。今日は泊まっていってもいいって、博士も言ってたから」
美風さんはそう言って、ソファから立ち上がる。
と、不意にノックが聞こえ、美風さんが返事をするとドアが開く。
「どうだ? ちゃんと看病できてるか」
博士が少し笑いながら言う。「薬は飲ませたよ」と美風さんが返した。
「今から寝かせようとしてたところ」
「そうか、と、そのブランケットじゃ少し寒いか」
博士の言葉に美風さんが私の方を見る。
「確かもう少し分厚いのが合った気がするんだが」
「どこ? 持ってくる」
美風さんは博士から場所を聞くなりすぐに部屋を出ていった。扉のしまった部屋で博士が堪えるように笑っている。
「いやあ、藍は本当に君が好きだな」
面白がった声色で言う博士から、私は視線を外した。
「藍の結論、聞いたかい?」
博士が言う。
私が何も言わないでいたからか、博士は黙って笑っただけだった。
ふと博士は窓の外に視線を向けた。牡丹雪がしんしんと降り積もっていた。
「藍のオーバーヒートと人間の発熱は少し似てるな」
博士は窓の外に視線を向けたまま言った。
「……藍だって無敵じゃない、人間だってボロが出る」
博士が視線を窓から外し、少し笑った。
「人間もロボットも、本当は何も違わないのかもしれないな」
私はソファに座ったまま足元を見ていた。視線を窓に上げると、綺麗な雪景色。
ガチャとドアが開いた。
「博士、これでいいの?」
「ああ、そうそれだ」
毛布のようなブランケットを美風さんが広げて見せた。
博士の肯定を得ると美風さんは毛布を広げたままこっちに来た。
「早く横になって」
美風さんが目の前で毛布を広げたまま急かすので、その通りに体をソファに横たえた。
フワッとその上に毛布がかかる。
キイと小さな音がして博士が部屋を出て行ったのが美風さん越しに見えた。
「暑くない?」
「はい……ありがとうございます」
「うん」
美風さんはそう言って、ソファの傍の椅子に座る。
毛布が背もたれ側に多く掛かっていたのが引っかかるのか、少し先を引っ張って調節したり、毛布が盛り上がりでもしていたのか軽く叩いて潰したりした。
私はその様子を毛布の中から眺めていた。
美風さんがそれに気がつき眉間にしわを寄せる。
「もう、まだ起きてるの? 早く寝て」
私は不満げなその顔を数秒見つめて、それから口を開いた。
「……美風、さん、」
美風さんが眉を動かして、私を見る。
「……何?」
私は、その人間離れした綺麗な顔を、見上げた。
「……美風さんが、許して、くださるなら……私、…………美風さんと……居たい…………」
私は美風さんのことがわからない、美風さんも私のことはわからない。
二人が一緒になってどこへ行くのか、それもわからない。
けれどだったら、一つ一つ、知っていこう。長い時間をかけてでもいい。お互いに、教えあって、助け合って、そうやって、いつか、答えを知れたらいい。
「……ナマエ、」
目を見開いた美風さんが、私の名前を呼ぶ。
私は体力の限界が近くて、それとも薬が効いてきたのか、ゆるゆると瞼を閉じる。
「…………」
閉じて白い視界で、唇に触れた。
「……風邪が、移ります……」
薄く目を開けて言えば、美風さんはその綺麗な顔で、笑った。



「ナマエ、」
呼び止められて振り向くと、美風さんの姿があった。事務所の廊下。
ミーティングルームから出てきたところなのか、寿さんと黒崎さんもいる。そういえばさっきカミュさんとすれ違ったのは、先輩方が揃って打ち合わせをしていたからか。
「おっ、アイアイ愛しの名前ちゃん!」
寿さんがおかしな呼び方をするので、私は言葉に詰まった。
「名前ちゃんってそんな反応するんだ〜なるほど可愛いね〜」
「ねっ、アイアイ!」と寿さんが上機嫌で美風さんに振ると、美風さんは少し不思議そうな顔をした。
「そうかな。レイジが言う『可愛い』っていう感情がボクの感じるそれと一緒なら、ナマエってもっと『可愛い』顔もするんだけど」
淡々と言う美風さんに寿さんは「おっ言うね〜アイアイ!」とどこか嬉しそうに笑う。
「のろけかよ。くだらねぇ、俺は帰るぞ」
黒崎さんは頭をガシガシ掻き、居心地が悪そうに言って歩き出す。
「『のろけ』? 事実を言うことが惚気になるの?」
大真面目な顔で言った美風さんを「はあ!?」と黒崎さんが振り返り、寿さんは「あっははは!」と声を上げて笑った。
「無自覚かよ……一番タチ悪いじゃねぇか」
「こりゃ名前ちゃんも大変だね!」
美風さんは眉間にシワを寄せてハテナを浮かべている。


30年に一度と言われた冬も、終わりの兆しが見え始めた。
公園のスケートリンクは、この冬最後のチャンスかと少し賑わいを見せていた。
「なるほど。コツさえ掴めば簡単だね」
美風さんがたった数分でマスターして氷の上で普段と変わらぬ様子で立っている。
「ナマエはスケートが苦手なんだね」
「……苦手というか、初めて滑ったもので」
美風さんはデータでも取っているような興味深い顔で転んだまま尻餅をついている私を眺めていた。
不意に、手が差し出される。
「こういうのって、ボクとキミのどちらかが出来ればいいんだって、今気づいた」
美風さんはそう言って「ほら、早くして」と急かす。
私は手を握って、その手を支えに立ち上がる。存外美風さんの力は強くて、揺らぐことなく簡単に立ち上がらせてくれた。
が、氷上は滑る。
私は足元がぐらついて、思わず美風さんの腕にしがみつく。
「うわっ、何? 」
美風さんが声を上げて私を見る。
「う、すみませ……」
顔を上げると、至近距離に美風さんの顔があった。
美風さんは目を見開いて私を見ていて、やがてそれが考えるような顔に変わる。
「……何だろう、凄くドキドキするんだけど」
私はこの先の美風さんの言葉を予測して慌てて離れる。が、ここは土の上じゃない。
体があっという間にぐらついて、傾く。
ぱし、と手を掴まれて、なんとか体勢が保たれる。
「危なっかしくて見てられない」
美風さんが溜息を吐きながら言う。
私はすみませんと言って、それから話が逸れたことに内心で安堵の息を吐いた。
握られている両手が少し引かれ、氷上のスケート靴が滑って動いた。
すぐそこにある美風さんの靴。
顔を上げると、美風さんは私の両手を取ったまま、顔を覗き込むように腰を折っていた。
「ねえ、キミと身体が触れるとドキドキするんだけど、これって何?」
私は顔を歪めて押し黙った。美風さんは真面目な顔をして答えを求めている。
「……あー、ええと……とりあえず滑りませんか……?」
美風さんは一度眉をひそめたが、案外あっさりと引き下がった。
「そうだね、せっかく来たんだし」
片手が離れて、残った左手が、美風さんの右手に惹かれる。
ゆっくり滑る美風さんを見ながら、どこか機嫌がいいのかもしれないと思った。
寒い冬も終わりが見えた。
新しい季節が、新しい色をして、始まる筈だ。


End
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