スコルダトゥーラの波(寿嶺二)
We can connect more deeply.


目を見開いて、そんな、と言った。
そんなバカなことが、だって、待って。
手を伸ばして、名前を呼んだ。なんて、残酷な運命。
寿さん……!
「……なあに? どうしたの?」
は、と私は言ったっきり固まった。
寿さんが少し首を動かすだけで、静かな朝に布団の擦れる音が響いた。
すぐそばに寿さんの顔があった。強気な笑みというか、なんだか大人びた雰囲気で笑っていた。
布団の中。
「……え、」
呟いて、バッと起き上がった。
布団が勢いよくめくれて、一気に冬の肌寒さに晒された。
白いシャツ一枚、着ているだけだった。それも袖が大きく余っている。
「もう起きちゃうの? ぼくまだ眠いよ」
ベッドに座ったまま振り向く。
布団の中の寿さんは、変わらず口に小さく笑みを浮かべていた。手が伸びてきて、私の後頭部に優しく回った。
引き寄せられるがままベッドに沈んだ。
またすぐそこ近い距離に寿さんの笑みがある。
寿さんがめくれた布団を直す。再び生暖かい熱に包まれ。
「あ……あの、」
「うん?」
寿さんの声は寝起きだからか柔らかい。そうしてベッドを通して鼓膜に低く震える。
私が寿さんを見ているからか寿さんも視線を返している。
あ……あれ、なんだ、これ。
寝起きの脳みそを起動させて、昨日の記憶を遡る。が、何一つこの状況に繋がる記憶は出てこない。
出てこないのに、寿さんの手が緩やかに私の背中に回されて、抱き寄せられる。
近い顔がもっと近づいた。寿さんの睫毛の一本一本まで見える。
寿さんから小さく笑った声が漏れて、それから瞼が閉じられ距離は簡単にゼロになった。
ちゅ、とリップ音がして、柔らかい感触。
唇を離した寿さんが目を細めて笑った。
どうかしてる、どうかしてる、どうかしてる。
何が何だか何一つわからなくて、何一つわからない内に供給される刺激で思考が止まり、混乱が混乱を極め。
「ところで……」
寿さんが私の髪を一房掬い、長い指に絡める。
「ぼくのこと呼んでくれてたけど、一体どんな夢みてたの?」
寿さんが視線を私から離さぬまま、掬った髪に、キスを落とした。


この頃、夢を見る。
今朝はそう、なんだったか、確か物凄いファンタジーの気の強い世界観だった。
西暦160年くらいだと、手元に広げた茶色く古びた紙が言っていた。気球に乗って旅をしなければならなくて、その気球を新調した矢先に嵐に巻き込まれて墜落した。洞窟の中で出会った山賊のようなナリをした男からこの世界の話を聞いていた。
どんな夢だと思う。我ながら何の影響でこんな世界観の夢を見たのか。
「あ、おいてめぇ」
声を掛けられて振り向くと黒崎さんがこっちに向かってきていた。スタジオ、そういえばこの後ここでトーク番組を撮ると聞いていた。
「おはようございます」
「じゃねぇ。昨日の事覚えてんだろうな」
「え?」
私が声を上げると、黒崎さんは盛大に顔をしかめて見せた。
「てめぇは今後酒禁止だ」
「ええっ」
黒崎さーんとスタッフの呼び声がして、黒崎さんが返事をする。
「いいか? ぜってぇ呑むな、少なくとも俺の居る時は」
黒崎さんは強い口調でそう言い捨てて、呼ばれた方へ歩いていった。
「……全然覚えてない……」
何をやらかしたんだろう。黒崎さんがあれだけ言うということは相当……。
私は額に手を当てて溜息を吐き出した。
元々酒に弱いのはわかっていて、だから普段はあまり呑まないようにはしていた。
けれど昨夜は打ち切りになってしまった番組の打ち上げで、この面子で仕事ができるのも最後、それに深夜帯とはいえ意外と思い入れのある番組で、ついつい盛り上がりたい気持ちが先行してしまった。
良い番組だった。ただマニアックといえばマニアックで、万人受けするようなものではなかった。でも熱意はどの番組よりも。
いや、そうじゃなくて。今はそんな事よりも昨夜の事をいち早く思い出さなければ。
「はあー……」
「どうしたの?」
は、と固まる。目の前に寿さんの、私を覗き込む顔があった。
「えっ、わっ、寿さんっ」
「うん、『寿さん』」
寿さんはそう言って悪戯をした後のような顔で笑った。
「あ、そうか黒崎さんの番組って寿さんとの……」
「うんそうそう、もうランラン来てるの?」
寿さんはそう言って辺りを見渡した。スタッフと話している黒崎さんを見つけて「ランランはっけーん!」と言う。
「ところで考え込んじゃってどうしたの? 何回か声掛けたんだけど、全然気が付かなかったよ名前ちゃん」
「え、そうですか、すみません」
慌てて謝ると、寿さんが小さく笑った。
「ひょっとして、今朝の事?」
少し低い声が鼓膜に響いた。
盛大に視線を逸らすと、寿さんがすっと目を細めて一つ笑って、それから「ふふ」と声を立てて笑い直した。
顎に長い指を持っていって、黒目を右にくるりと回して、考えるような動作を。
「ぼく名前ちゃんがこんなにかわいいなんて知らなかったなー」
言葉を失って口をぱくぱくさせるだけの私に、寿さんは子供のような笑みで笑って、手を振って黒崎さんの方へ歩いていった。
「あああー……!」
何だこれ、どうなってるんだ、何だこれ。
額に手を当て項垂れる私に、
「苗字ちゃん遂におかしくなっちゃった?」
と馴染みのプロデューサーが言った。


昨夜までただの事務所の先輩だった人が、今朝起きたら急に恋人になっていた、なんてそんな。
今日何度目かわからぬ溜息を再び吐いてレコーディングルームの扉を開けた。
「あっきたきた名前ちゃーん」
「はい!?」と私は思わず声を上げた。寿さんがあっははと笑う。
「何で寿さんが、」
「てめぇに用があるんだと」
ベースをケースへ片付けていた黒崎さんが面倒臭そうにそう言った。
「ランランにお詫びに来るって聞いてたからさっ、来ちゃった」
『来ちゃった』っ! この台詞が似合う26歳もそう居るもんじゃないよななどと可笑しな事を脳が言う。
「で? 手ぶらかよ」
私は少し苦い顔したが、素直に頭を下げて持ってきた紙袋を差し出した。
「ご迷惑をお掛けしました」
「わかりゃいいんだよ」
そう言って手の中の紙袋だけ無くなる。上機嫌の黒崎さんが紙袋を開け、さっそくコロッケを取り出す。
黒崎さんに持って行くときは決まって駅前の精肉店のコロッケなのだが、この人も大概安上がりだよなあと思う。無駄なものに金を使わないそういうストイックなところが、カッコ良いといえば良いのだが。
「美味しそーランラン一口ちょうだいって言ってもくれないんだろうなー」
「当たり前だろ」
そんなやりとりをした後、寿さんが私の方を見る。
「それで、名前ちゃん昨日の事思い出したの?」
「え、いや……」
私は言葉を詰まらせて首の後ろに手を持っていった。
「黒崎さんに迷惑かけた分は、聞いたから把握したんですけど……」
「じゃあ後は僕の分?」
寿さんの言葉に思わず顔を上げる。寿さんが楽しそうに笑みを浮かべでいる。
うわ、墓穴を掘った。
「じゃあ聞かせてあげなきゃ、一緒に帰ろっ」
寿さんがぱっと椅子から立ち上がって扉の方に来る。この為に待ってたのか。
「え、いや、でも、」
寿さんの腕が後ろから回されて私の肩を抱く。左肩が寿さんの体に当たる。そのまま寿さんの腕がドアノブを握った。
「いやあの」
「名前ちゃん家駅の方でしょ?」
「えっ、何で知ってるんですか」
「昨日名前ちゃんが教えてくれたじゃない。ぼくの家とは反対方向で悪いって言って」
顔の引きつけを起こす私に寿さんは楽しそうに笑って見せて、「行こっか」と言う。
「いや、その、く、黒崎さん助けてください」
「は? 色沙汰は自分で解決しろ」
「ちょっ、待って、ええっ」
興味なさげに次のコロッケを頬張る黒崎さんに「じゃあねランランっ☆」と寿さんが上機嫌で手を振った。

どうすべきか、と薄暗い部屋で思った。
天井をバックに、私を見下ろす寿さんの顔が近づいた。
筋肉のついた肌色が薄暗い中目について、そう思っていたら瞼に垂れた長い髪が当たって目を閉じた。
ゆっくり唇が離れる。至近距離で、寿さんの吐息がかかる。静かに寿さんが笑う。
あ、と思う。あー……と思う。
天井を眺めていた。
そこから視線を下げると私の腹の辺りに、寿さんの顔が沈んでいる。髪が肌に当たってくすぐったい、そうしてその感触を、長い指がすっとなぞって色めいたものに上書きする。
どうするもこうするもない。
ベッドに入れば抵抗する気なんて微塵もなくなって、その指のなぞる先を想像している。
寿さんの頭を眺めていたら、ふと顔を上げた寿さんと目があった。
寿さんは暫く私を見つめて、それから首を少し揺らした。長い髪が綺麗に揺れた。
近づいた顔はそのまま距離をゼロにして、触れた口の中に舌が入り込んで来る。
小さく音を立てて絡まるそれに、私も、舌を絡めた。

ツバの広く、大きな羽が飾られた帽子を被った貴婦人に、メモ書きを渡された。
馬車から降りない貴婦人の手袋をした手から背伸びをして受け取ると、貴婦人はひとつ微笑んだ。
解けたら行動で示してちょうだい。
それだけ言うと貴婦人は御者に指示を出した。御者は手綱を握って鞭をはたいて馬を走らせた。
残された場所を振り向くと、森の中、大きな大きな屋敷だった。

目を覚ますと目の前に顔があった。
じっと私を見つめていて、不意に柔らかく笑った。
「どうしたの?」
優しい笑みを浮かべて微笑む寿さんを、私はただ見ていた。
「…………」
なんだか、夢を見ていたような気がした。いや、夢は見ていた。それに、寿さんが出てきたような気がした。いや、出てきていた、けれど、どんな風にだったか。
寝室のカーテンが淡く明けかけた朝の光を透かしていた。
寿さんが少し笑って、布団から手を出す。
優しい動きで、私の頬にかかった髪を耳へ掛けた。
「……またぼくのこと呼んでくれてたね」
そのまま顔が近づいて頬にちゅ、とキスをされた。
私はただ寿さんの姿を見ていた。
カーテンが通す光のせいか、綺麗な寿さんの寝室のシーツのせいか、景色が、淡くて、ぼんやりとして見えた。
なんだか、妙に悲しい心地がした。


事務所に台本を取りに顔を出した。
すると扉を開けた瞬間に見知った背中が見えて思わず閉めそうになる。
「あ、名前ちゃんー! そろそろ来る頃だと思ってたっ!」
寿さんが満面の笑みでそんなことを言って、両手を広げた。
まさか違うだろうと思って後ろ手に扉を閉めたりすると、
「来てくれないならぼくから行っちゃおっ」
と聞こえ、こちらに来た寿さんが私を抱きしめる。
「ちょっ、えっ、何してっ……」
林檎さんもいるし、と寿さんの体で見えなくなった向こう側を思い浮かべて内心で言う。
体を離した寿さんが少し笑って、それからすぐによく見る笑顔に変える。
「いやあ〜名前ちゃんに会いたくって」
寿さんはそう言ってから掴んだままだった腕を離して、
「なーんて、実はトッキーにハグしようと思ったら全力で避けられてお兄さん傷ついてたんだよね〜」
などと付け足した。
本当の事なのかもっともらしい嘘なのか、(その光景をたまに見るだけに)判断がつかなくて、「あ、はあ……」と曖昧な返事になった。
「台本取りに来たんでしょ?」
「あ、はい、ていうか何で知って」
「ええっ、名前ちゃん昼間局で会ったとき自分で言ってたよ!?」
「え、あれそうでしたっけ?」
もー名前ちゃん大丈夫? と寿さんが言って、事務所のデスクの方へ足を向けた。
「なあに? ふたりいつの間にそんなに仲良くなっちゃったの?」
林檎さんがぱちぱち瞬きを繰り返して言う。
「この前番組の打ち上げで初めて一緒に呑んだんだよね〜その時に名前ちゃんが酔っ払っちゃってランランに」
「ちょっ! むやみに言い触らさないで!」
慌てて止めに入ると林檎さんが「なに〜!? 気になっちゃったじゃない!」と言う。
「気にしなくていいですから!」と言って、私はさっさと台本を手に取り逃げようとする。
「あっ、そうそうちょっと待って。この前の写真があるのよ」
そう言って林檎さんは机の上に置いてあった半透明のビニール袋を手に取る。
「新年会の写真。こう見るとスマホもいいけど現像も悪くないわよね」
はいこれ名前ちゃんの分、と写真の納められたビニール袋を手渡される。
「ありがとうございます、うわ、これ凄い変な顔で写ってる……」
「あら、かわいいじゃない?」
うふふと笑う林檎さんに顔を少し顰めて見せる。と、後ろから目の前に手が伸びる。
「あ、このとき大変だったよね〜」
写真を指差す寿さんを見て私は我に返り思い出した。そうだそういえば昼間、約束をしたのだった。お互い事務所に寄るという事だったから共に帰る約束なんかを。
おかしなタイミングで思い出した。
写真に視線を落とし微妙な表情をしていると、林檎さんが「あ!」と声を上げる。
「今何時!? 約束あったの忘れてたわ!」
林檎さんは寿さんにちょっと見せてと腕時計を確認して慌てた様子でスマホで電話をかけた。
「ぼくらも帰ろっか」
寿さんが林檎さんに聞こえないように、小声で私に言った。

「……ていうか、あのハグは何だったんですか?」
「名前ちゃんに会いたいのが抑えきれなくってっ」
寿さんがウインカーを出して、ハンドルを切った。
寿さんの運転で進む小さな車は、乗り心地が良い。交差点を曲がっても、身体が外に傾いたりしないし、振動もとても少ない。
「ていうかね、ああやって堂々としてた方が逆に怪しまれないんだよ」
私は思わず隣を見る。寿さんは前を向いたまま口元に笑みを浮かべている。
私はその横顔を暫く見つめてから、座席に深く背を預けた。
信号を前に車がゆっくり止まる。赤になったばかりだった。
「寝不足?」
目を見開いて寿さんを見ると、ハンドルに腕を乗せて、肩越しに少し振り向くように私を見ている。
「いや……そんなことは」
「そう? 昼間の会話が丸々すっぽ抜けてるんだもん、相当お疲れかなって思ったんだけど」
私はなにも言い返せなくて押し黙った。
寿さんは顔を前に戻して、「うーん」と腕に顎を乗せて悩むような声を出した。
不意に体を起こして、前を見たまま座席に背をつける。
その様子を見ていたら、ちらっとこちらに視線が向いて寿さんが勝気な笑みを浮かべる。
「ぼくが激しくするからいけない?」
私は一瞬声を失う。
「なっ、に言って」
「ごめんね、けど名前ちゃんも夜になると意外とだいた……」
「あー! あー! あー! 青ですほら青!」
前方の信号を全力で指差して言えば、寿さんが「あっははは」と声を上げて笑って、アクセルを踏んだ。
油断も隙もないような人だ。私は瞼を閉じて蘇ってくる記憶を必死に追い払う。
どうかしている、夜になると、寿さんの纏う雰囲気に乗せられて毎晩どうかしてしまう。
額に手をついて悶々と記憶と戦っていると、不意に声がする。
「眠ってもいいよ。着いたら起こしてあげるから」
顔を上げると寿さんが運転の合間にちらりと私を見て、優しく笑う。
「……いや、でも、運転していただいて」
「うん? いいよそんなの。その代わり、他のところで頑張ってもらっちゃおうかな〜」
声を詰まらせた私に寿さんはひとつ笑って、それから前を向いた。夜の街が、輝くように流れていた。

ベッドの上にいた。
上にいたけれども、ベッドはベッドでも、見慣れたベッドではなくて、天蓋が付いていた。サイズも大きくて、見慣れない異国の生地のクッションなどが並べられていて、窓から見える月は青白く大きかった。
おまけに、男を組み敷いていた。
綺麗で裕福そうな衣服を纏った男。
私はその男を見下ろしていた。
男は笑って私を見上げていた。
なるほどね。
男の口がそんな形に動いた。
男が腕を動かす。自らの腹の辺りに、手を擦らせる。
毒殺に失敗したから、直接来たんだ。
視線を下へ、ずらすと、男の手は、短剣のつばに触れていた。
赤、が、その男の、袖口を汚した。
ベルベッド生地の衣服が、剣を中心に、黒く染まっている。
その剣の、柄を握っているのは。
羽の帽子の貴婦人から受け取ったメモ書き。
異国の言葉でその上更に暗号になっていて、この屋敷に仕えながら毎晩月明かりで眺めた。
ある夜ふと、ほどけた。
KILL、

目を開くと今まさに触れそうな距離に顔があった。
「あ、よかった。もう少しでキスしちゃうところだった」
寿さんはそう言うと一つ静かに笑い、離れる。
視線を動かすとフロントガラスの外に暗い夜空が見えた。見覚えのある建物が並んでいる。
「着いたよ、名前ちゃんのマンション」
寿さんはそう言って、少し間を取ってから、ゆっくり私を見て、少し距離を縮めた。
膝の上にあった手に、寿さんの指先が触れる。
「……名前ちゃんお疲れみたいだし、今日は優しい事務所の先輩でいようと思ったんだけど、」
私の指を、寿さんの指がそっと撫でる。
「……お呼びだった?」
低い声が、車内でくぐもって私にしか聞こえない。
寿さんが少し笑みを浮かべている。
私は口を開いて、何か動かしたけれど音にはならなかった。
うん? と訊き返す寿さんの声が、いつもよりゆっくりとしていて、いつもより振るうような近い声だった。
私はキスをしていた。
一拍間があって、だがすぐに両肩に手が添えられ強く押し付けるようなキスになり返ってきた。
静かに息を吐く。至近距離で顔が傾いて、覗き込まれるような角度がついたので、私は顔を下げて寿さんの胸に頭頂をついた。
「…………寿さん、」
「うん? どうしたの?」
私は何も言わなかったが、寿さんはそのままゆっくり私を抱きしめた。
後頭部に回した手で、私の髪を何度か梳かして、それから髪の中に口元を埋めて、ゆっくり、キスを落とした。


一体何の因果なのだろう。
「お前どうした? 酷いクマだぞ」
雑誌撮影で一緒になった翔が、私の顔を見て言う。
「ああ、ちょっと……」
私は額に手をついて溜息を吐いた。翔が眉を曲げて首を傾ける。
「苗字さーん」
「あっ、はい」
スタッフに呼ばれたので立ち上がる。四方から照らす照明の白い光が、眩しかった。
「夢?」
車の中で、寿さんが言った。
私は「はい」と返事をして、フロントガラスに視線を外した。夜、車の通りの少ない静かな道の端で、車は停まっている。
「ただの夢といえば夢なんですけど、ちょっと気分が沈んで」
寿さんは「そっか」と優しく言って、それからハンドルについていた腕を離して上体を起こす。
体を半分ひねって、助手席の私と距離を近づける。
「……名前ちゃん、いつも必死にぼくの名前を呼ぶから、ぼくが悪夢でも見せてるのかなって、思ってた」
寿さんの手が私の後頭部に回って、ゆっくり引き寄せられた。寿さんの口元が私の頭に埋められる。
「もしかしてぼくが傍にいるのって逆効果かな」
「それは違います、前々から見てましたし寿さんの夢……」
なんでだろう、と寿さんの胸の中で呟けば、寿さんが力を抜いてひとつ笑う。
「そっか、嬉しいなぁ」
なんでそうなるんだと眉を寄せてから、あ、と合点がいく。うわ、余計な事を言った。
ふふ、と寿さんが私の髪の中に小さく笑って、体を離す。
そのまま手を後頭部から腕に沿わせて、私の手を優しく握った。
「あのね、名前ちゃんが無意識に何を怖がってるのかぼくにもわからないけど、……ぼく、今相当名前ちゃんに夢中だから、そこは安心してね」
言葉を失って固まる私に寿さんは幸せそうにひとつ笑って、私の額にキスをした。
私は身を引いて、首の後ろに手を当て苦い顔をした。そんな言葉をさらっと、この人って本当。
あはは、と寿さんが私の反応を楽しそうに笑った。
顔を上げて苦い顔をして寿さんを見ると、寿さんはひとつ笑って、今度はきちんと唇にキスをした。


波、波が寄せては返している。
耳の奥でさざ波の転がる音がこだましていた。
目の前の浜辺は白く曇っていた。地平線がぼんやりとして見えなかった。
波に足首を浸からせて、私を肩越しに振りむいている。
ただ目が合っていた。
何かが違うと思った。何だろう、何かが、違う気が。
ただそれを眺めていると、不意にゆっくり睫毛が伏せられた。
ゆらりと背が向けられて、パシャ、パシャ、と水の音が聞こえた。
かもめが曇り空を飛んでいた。
あ。あ、そうだ。
笑みが、なくて。
突き動かされたように砂に足を踏み出して、けれども足裏に痛みが走る。
見ると割れた貝殻を踏んでいた。
顔を上げると急にもう随分遠くへ背中は行っていた。
駄目だ、そんな。
待っ、

飛び起きるようにして起きた。
ぼん、と音がして、ベッドの傍のヒーターがセットしてしていた時間通りに点いた。
自宅の寝室だった。
静かに息を吐いて、額に手を当てる。
ただの夢だろう、けれど何かの暗示だったら?
再三調べた検索画面に、私はまた同じ文字を打ち込んだ。

「死にたいとか……思ったことありますか」
私が溜息を吐きながら言うと、寿さんが「ええっ!?」と目を丸くした。
「なに何かあったの!? ぼく名前ちゃんが死んじゃったら、」
「ああいやそうじゃなくて」
私は話を止めて、それからまた少し息を吐いた。
寿さんが持ってきてくれた差し入れのお菓子に手を伸ばす。今日は一日レコーディングルームに篭っていた。
私は話していいものか、と迷ったが、結局口を開いた。このままでは無用な心配をかけそうだ。
「……寿さんが、自殺っていうか、そういう感じの夢を見て」
寿さんは目を見開いて、それから少し神妙な顔になった。
「そっか……またぼくのせいで名前ちゃんを悩ませちゃってるんだね」
「いや夢の話ですから、寿さんは何もしてません」
私の言葉に寿さんは、「そっか」と力を抜いて笑った。
「……海だったんです、どんどん深い所に……。まあぼんやりしててあんまり現実味はなかったんですけど……」
そう言ってまたひとつ息を吐いてから、視線を上げた。
上げて、私は動きを止めた。
寿さんが、目を見開き、固まっていた。
少し落ちた視線のまま、どこでもないどこかに、焦点が合っていた。
「…………寿さん、」
慎重に名前を呼んだ。笑みは。
寿さんの視線が見開いたまま私に向いて、暫く止まった後、睫毛が細かに揺れた。
「あ……うん、ごめんね……」
何がごめんなのかわからない。寿さんは眉間に少しシワを寄せて、神妙な面持ちのままどこかを見つめていた。
何かまずい事だったのだ。海、海。
私は踏み込んで聞くことができずに、寿さんも何か言うこともせずに、その日は暗黙の内に、何も言わずに別れた。
夢の色が、現実と、混沌。混ざっていく。


「あ、うん、名前ちゃん、おはよ」
テレビ局の廊下ですれ違って挨拶をすれば、そんなぎこちない返事が帰ってきた。
寿さんの隣には共演者が居たので、私は特に何も言わずに会釈だけして通り過ぎた。
寿さんの視線は私を追って、少しだけ後ろに引っ張られた。笑みがなく、何か迷うような表情だった。
たかが夢。そんなものでこうぎこちなくなってしまうだなんて、おかしな現象が起きている。
私は廊下を歩きながらこめかみの辺りに手を当ててひとつ溜息をついた。
「呪術でもかけられたのではないか?」
収録で一緒になったカミュさんのその言葉に、私は思わず口を開けたまま固まった。
「は……呪術……?」
「誰かの恨みでも買ったのだろう。貴様は恨みの一つや二つ買いそうな性をしている」
口を開けたまま見つめる私に気づかずカミュさんはそんなことを言って、紙コップのコーヒーを一口飲んだ。
カミュさんってそういうファンタジーの気のあるもの、信じる人だったのだろうか。でも冗談で言っている感じじゃ……。カミュさんはいつも通りの涼しい横顔でコーヒーを啜っている。
「話はそれだけか? 終わったのならさっさと離れろ。貴様がいると集中できん」
「ああ……はい、すみません」
私は終始口を開けたまま受け答えしたが、カミュさんは気にも留めず、追い払うように整った形の手をひらりと向こうへ振った。

昨日の内に、一応メールを送った。
メールのやり取りは続いている。
けれども何の誘いもなければ何の中身もないようなものだ。
私は夜、マンションの自分の部屋でそのメールに返信をしてから、ベッドに仰向けになった。
ユラユラと、不思議な和音の波が、近づいてくる。

真っ白な場所に真っ白な椅子が一つ置かれていた。
果ても始まりもないようなただの白い空間に、その白い椅子に、白い服を着て、座っている。
難しい顔をして、迷うような顔をして、ずっと笑みなどない顔で、何かを語っている。視線はずっとこちらに上がりはせず、足先に落ちていた。
音がない。
何か話しているのに音がない。
椅子に座って、膝の上で両手を組んで、時たま睫毛を揺らして視線を右に逸らしたりしながら、私に話しているのに音がない。
何一つ聞こえないまま、私はただその光景を見ていた。
ただ見ていた。
ただ見ている。

ベッドから上体を起こすと、寝室のカーテンが薄っすら揺れていた。
寝起きの髪のまま、寝間着のまま窓を開けた。冬の冷たい風が入り込んできて、目が覚めるような心地だ。
ベランダに足を踏み出し、まだ日の登っていない空を見上げた。微かだが白んでいる。
踏み込むのが、苦手だ。
悩みや憂いや人の深い部分は、知らずとも関係は築けるし、第一大切な部分なんて、他人にむやみに暴かれたくないだろう。
聞かずに済むならそのままで。
……これで終わりというならそれで。
空に向かって息を吐いたら白くクルクルその場を回って消えた。
寿さんから電話がかかって来たのは、その日の晩のことだった。


マンションの前で待っていた。
雨が降りしきっていたので傘をさしていた。雨粒が強く叩く音が傘の中で木霊している。
「ごめん遅くなっちゃって」
寿さんは助手席側の窓を開け、少し身をかがめて私を窓から見て言った。
「いや……収録だったんですか?」
私はそんなことを言いながら傘を畳んで助手席に乗り込んだ。ドアを開けていた間の雨粒で、座席のシートが少し濡れた。
「うんそう、ごめんねこんな時間に」
私は「いえ」と答えながら、視線をフロントガラスへ逸らした。寿さんの顔には少し笑みがあるが、元気が無いのは目に見えてわかった。
「……名前ちゃんは今日仕事は?」
「午前中でレコーディングして、午後は歌番組のリハーサルと雑誌の取材でした」
「そっか、忙しかったんだね。ごめんねお疲れな時に」
謝ってばかりだ、と思った。私は「いや、そんな」と返した。何か話題になればと思って上げたのに、あだになってしまった。
こういうことを避けて来たからか、この空気の打ち壊し方も、誤魔化し方も、分からなかった。
車は静かに目的地まで走った。
波の音がしていて、私は少しだけ気が動転した。
「…………」
寿さんは堤防に沿って車を停めた後、何も言わずにそのまま黙っていた。
海だった。浜辺だった。
夢で見た景色と、似ている。
寿さんはハンドルから離した手を、膝の上で組み、それを見つめていた。
不意に、顔が上がる。
目が合って、こちらを向いた寿さんと目が合って、寿さんのその目は酷く揺れていた。
「名前ちゃん、あのね……」
寿さんの口から出たその声が震えていて、私は目を開いた。
「……あのね、………………」
車窓を、雨が激しく叩いた。その隙間に波の音。
寿さんは苦しそうに息を吐いて、それから眉を歪めて目を閉じた。
「……抱きしめてもいい……?」
私はすぐに首を縦に振った。ばっと寿さんの手が私を引き寄せて、強い力で抱きしめられた。
寿さんの顔が、私の肩の向こうにある。
私は瞳を揺らしていた。
瞳を揺らして、寿さんの体の向こうにある、自分の持て余した両手を見ていた。
どうすればいいのか、まるで分からなかった。
けれど、どうにかしたかった。
気づけば私は寿さんを抱きしめ返していた。
これ以外に何も思いつかなかった。
無性に両手が震えていた。これで、もしも、押し返されたら、どうすれば、いいんだ。
けれども押し返されることはなかった。代わりにもっと強く抱き寄せられた。後頭部に添えられた手が髪をクシャと握っていて少し痛く、寿さんの胸に顔が埋まっているせいで少し息苦しい。
「…………楽しくいられるからいいのかなって思ってた…………」
不意に耳の後ろで小さな声がした。ぎゅっと、また少し腕に力がこもった。
「……ぼくの本当のことを話さなくても、名前ちゃんと居るのは楽しくて幸せで、名前ちゃんも笑ってくれて、だからこのままでも……いいのかもしれないって……」
力が一度緩んだかと思えば、また強くなった。さっきまでよりも強い力で、しがみ付くような、何かだった。
「でも神様が……アイネが……そんなことを許してくれないのかも……。本当のぼくを知らないから、名前ちゃんはぼくを好きでいてくれるのかもしれない……」
『アイネ』……? 聞きなれない固有名詞に、私は少し怖じ気付いた。踏み込んでいいものなのか、私が全く知らないところに。
でも、けれど。
私の中に、終わりというならそれで、なんていう涼しい感情は、もうどこにもなく。
押し返して体を離すと、見えた寿さんの目が見開かれて、それから何か諦めたように視線が逸れた。
私はその顔に両手を伸ばした。
両頬に両手を滑らせ顔を無理やりこちらを向く形で固定した。寿さんが目を見開いて、私を見ている。
私はその目を見つめ返して、それから、視線を外した。外して、眉を寄せて、瞼を閉じる。
「…………覚悟、します。なんだって……寿さんの全てを、受け止められるような、覚悟……」
私は片手でなんだってやってきたのかもしれないとふと思った。
利き手じゃない手は常に空けていたのかもしれない。無意識の内に、ヘビーにならないように、余裕が生まれるように。
でも、ああ、この人を受け止めたいと思った。受け止めるのが私以外の人間なら傷つくような気がした。寿さんの全てを受け止める、それが片手じゃ足りぬというなら私は。
目を開いて見ると、ほぼ同時に寿さんの目から涙が零れた。
「えっ、ちょっと」
思わず両手を離すと、すぐに掴まれ引っ張られた。
五本の指の間に指が絡められて、しっかり、合致する。
「ダメ、もうだめだよ、離せない」
寿さんはそう言って、繋がった手に口を寄せてそっとキスをした。
伏せた瞼から、涙が一筋流れて指の間に沁みた。
「もう名前ちゃんじゃなきゃダメだよ」



白い光が寝室に充満していた。
白い天井を見つめて、それから寝返りを打つと、ぱっちり開いた目と目が合った。
「うわっ、起きてたんですか」
「うん。おはよう」
布団の中で目を細めて笑う寿さんに、私は苦い顔をして、起こしかけた体をおずおずと布団の中に戻した。
「なんだかね、初めての夜のこと思い出しちゃってね」
『初めての夜』、言い方がまたなんとも……と私は顔を歪めたが、それすら幸せそうに寿さんは笑って、布団の中から手の先を出す。
私の右手にそっと触れて、握られた。
「酔って潰れた名前ちゃんを、肩を貸しながらタクシーに乗せようとしてたら、眠ってるはずなのに急に耳元でぼくの名前を呼ぶんだもん」
気になっちゃうよね、と寿さんは嬉しそうに笑う。私は視線を逸らしながら、痴態をぶり返さないでほしい、と思った。羞恥と戦う。
不意に髪に何かが触れて見れば、寿さんが私に手を伸ばしていた。すっと髪の下に入り込んで、頬を優しく撫でる。
「……あのね、考えてた」
反対の手は私と寿さんの間で重ねられている。
「名前ちゃんの夢は、アイネの呪いなんかじゃなくて……もしかしたらアイネが……力を貸してくれたのかもしれない、って」
寿さんが、アイネさんの事を語る時は、やっぱり笑みがなくなる。表情も少し固くなる。けれど、悪い事だとは、思えなかった。
寿さんが私を見て、お互い布団の中で目が合った。
寿さんが私の頬を撫でるのをやめて、顔を近づける。
髪がシーツに擦れる音がして、唇が触れた。
寿さんが私の髪に手を伸ばして、梳かすように何度か指を通す。視線も髪に向いている。
「……あのままでも楽しかったし、幸せだったけど、お互い代わりが効いたんじゃないかなって、思うんだ」
私が、代わりですか、と呟くと、寿さんは頷く代わりに、少し寂しげに眉を寄せて小さく笑った。
「名前ちゃんの中で、ぼくが恋人って枠だったら、代わりはいくらでもいるじゃない。例えば名前ちゃんがぼくと別れて、心に穴が空いたとしても、他の男を好きになったら、その穴は埋まって、穴が空いたことなんてなかったかのように、ね」
寿さんは少し笑った。手が髪を梳かしながら、一瞬揺れたような気がした。
「……それが恋人の穴じゃなくて寿嶺二の穴だったら、寿さん以外では埋まらないってことですか」
「ふふ、うん」
寿さんは私の言葉に小さく笑って、梳かしていた手を後頭部に添え短くキスをした。
私は近い距離で笑みを浮かべるその顔を見つめて、それからゆっくり目を閉じる。
「確かに今離れられたら、どうしようかって思います」
ゆっくり息を吐く途中で急に抱き寄せられて、驚いて目を開く。
「寿さん?」
「あっははは、ホント、名前ちゃんにそんなこと言わせられるなんて……思わなかった」
私はさっきの言葉が失言だったことに今更気がついた。あー……、と寿さんの胸の中で呟けば、あははと笑い声が返ってくる。
「ねえ名前ちゃん、」
不意に頭上で声がして、私は寿さんの腕の中から顔を上げる。
「だいすき!」
心からの笑顔でそんな事を言う26歳に、私は言葉を失って、それから自分の額に手を持っていった。
顔が赤いことに、きっとこの人は気づいている。


「今日は顔色いいじゃん」
撮影で一緒になった翔が私の顔を見てそんな事を言う。
「ああ、まあ。心配してくれたの?」
「そりゃすんだろ。一回あんなヤバイ倒れ方されたら……」
翔は思い起こすような顔をして、苦い顔をした。
一時期放送していた私の番組に、翔がアシスタントとして一緒にやっていた時期があるのだが、その時にまあ色々と迷惑をかけた。初めての冠番組で勝手がわからなかったのもある。
「あ、つーかお前台本進んでんのか?」
「台本?」
私は身に覚えがなくそう繰り返す。
翔が「げっ、」と呟いて、大きな溜息を吐き出した。
「お前なあ!」
『宝島』に『熱気球』、『サーガの館』に『さざ波』…………。
私は自宅の部屋の本棚を前に顔を引きつらせた。
我ながらなんて安直な脳……。
「あああー……」
「どしたの?」
本棚の前で頭を抱える私を、両手に皿を持った寿さんが不思議そうに見る。
「新年会の罰ゲーム忘れてました」
「ああ、そういえば名前ちゃん達だったっけ」
事務所の新年会の出し物で、最下位だった罰ゲーム。性別反転で寸劇をやったのだが、どうにもグダグダになってしまい、社長から下された罰ゲームの指示は、舞台が出来るほどのクオリティにしてやり直してきてチョウダイ! と、いうことだった。有名小説を参考に、脚本を考えていたのだった。
呪いでも暗示でもなんでもなかったのだ。悩んだ時間は何だったんだ一体。
額に手を当てて深く溜息を吐き出せば、「名前ちゃん、」と後ろから声がする。
「あっ、すみません、ご飯冷めます……」
『ね』のところ振り向いた私に唇が触れた。
固まった私に、顔を離した寿さんが至近距離で得意げに笑う。
「っところ構わず……」
「だーって、今日一日ずっと我慢してたんだもーん! ずっと隣にいるのに指一本触れないなんて生殺しだよね」
声を上げて、「しかも『今話題のデートスポット巡り☆』で!」と寿さんが大袈裟に抗議する。今日は一日寿さんと他の共演者とロケをしていた。
「名前ちゃんが他の男とペアになるのも笑顔で送り出さなきゃなんないしっ」
「カメラの前なんだから変なことが起こるわけないじゃないですか」
「変なことがなくても! 名前ちゃんがうっかり恋に落ちちゃわないかなとか思ったの!」
寿さんが必死に抗議する。私は「はいはい」と言いながら本棚の前からソファに向かった。
「名前ちゃん冷たい!」と寿さんが声を上げるのを聞きながら、私はテレビのリモコンをつける。そんな事を言いながらも、一ヶ月後に放送するテレビの中では、完璧にあのモデルをエスコートしているんだろう。
「……あの回の放送見るのやめようかな」
「ん? なに?」
箸を持ってきていた寿さんがソファの後ろから言う。
「……いや、なんでもないです」
「そう?」
寿さんが皿の前に箸を置いたところで、私はコップがないことに気がついて立ち上がる。
「お茶取ってきます」
「あ、ほんとだありがとー」
ありがとうは料理を作ってもらった私の台詞なんだけれども、そういえばタイミングを逃してしまった。
今言うのもな、などと思いながらコップ二つと茶の2リットルペットボトルを抱えてテレビの前に戻る。
食べずに待っていた寿さんがテーブルの上に置かれるコップを見つめて口を開く。
「ねえ今度お揃いのマグカップ買いに行こっか」
えっ、と急な言葉に固まる私に寿さんは笑って私を見上げる。
「名前ちゃんはそういうのしないタイプ?」
タイプっていうか、寿さんとだったら、なんだって。
嬉しいけれど。
寿さんが毎回揚げ足を取るせいで、何か思った事を言う前に一考する癖がついてしまって、最近の私はどんどん素直じゃなくなっている。
「……どうでしょう」
「あははっ」
それでも幸せそうに寿さんは笑う。


「名前ちゃん、」
唐突に真剣な声色で呼ばれたと思ったら、また振り向いたところにキスされた。
「ええっ、何ですか、ていうか危ない……」
二人で寿さんの自宅のキッチンに立って料理をしている真っ最中だった(私は料理に自信はないが、切るとか煮るとかそういう類なら出来た。揚げるのは無理だ)。
まさに包丁でジャガイモを切っていたところだ。
「うん……? じゃあ包丁置いてくれる?」
寿さんの手が私の包丁を持った手に優しく重なり、まな板の上に置くように誘導する。
いつものおどけた調子かと思いきや、存外、色めいた雰囲気で、私はちらりと隣を見たきりまな板に視線を向けていた。
「えっと、寿さ……」
口を塞ぐようにキスをされた。ガタッとカウンターに手をついてしまい、音が鳴る。
「ちょっと、本当に危ない……」
すっと腰に手を回されて、体が近づく。
寿さんが首を傾けて、長い髪が揺れた。
「じゃあ寝室に行く?」
耳のすぐ近くで言われ、低い声が鼓膜に震えた。
至近距離で目が合っている。寿さんはどことなく真剣な顔をしていた。
「えっ、ええっ、あの急に、なにが、」
「ん?」
寿さんが私を抱きしめて頭に顔を埋めるから、寿さんの声はくぐもって聞こえた。
「……名前ちゃんが可愛くってもし失ったらもう生きていけないかもって考えちゃった」
突然一体どうしたのか。
寿さんの手が私の髪を耳にかけた。顔が少し傾けられて、耳元に寄る。ちゅ、とリップ音が大きく聞こえた。
私は思わず肩に顔を寄せるが、今度は首元に指が伸びボタンが外れ寿さんの頭が沈んだ。
微かな痛みと一緒に私はあるものが目に留まる。
あ。
寿さんの後方に見える食器棚。その無色透明の戸の中の、マグカップ。
「あっ、うわっ……うわっ!」
見たんだ、見たんだ!
自分で仕掛けて置いて今更大後悔した。こんな恥ずかしいことするんじゃなかった。買ってきてこっそり置いた。寿さん家。
「あのあれは違っ……」
手で口が塞がれて、口を閉じるとそれをずらしてキスをされた。
唇がゆっくり離れると、至近距離に顔がある。真剣な表情で、私を見ている。
不意にそれが崩れた。
ふっと、幸せそうに寿さんが笑った。
私は思わず顔を赤くして口に手の甲を当てる。寿さんは今度は声を出して笑って、私の手を取った。
「夕飯遅くなっちゃうけど、いっか」
笑う寿さんに何も言えないまま、手を引かれるままキッチンを出た。
オーブンが予熱したまんまだ。まあ、いいか。

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