──新たな悪夢の開演
『彼ら』が視えるようになったのは意識を取り戻して四、五日経ってからだった。
正確に言えば『彼ら』が異質であると気付いたのが四、五日後だった。
最初は景色に、人に紛れて見えた。
病院であるから顔色の悪い人や、包帯をした人、見るからに体調が優れない人がいるのは当然なのでさして気にも留めなかった。
だがすぐおかしいことに気付いた。
自分の病室から見える隣の病棟の屋上。
いつもいる後ろ姿の白衣の男。
動かないのだ。
その場所から、一歩たりとも。
朝の回診の時間に見る度にそこにいて微動だにしない。
そしてその違和感に気付いた後の昼下がり。
何気なく見た朝と同じ窓で
司は視えてしまった。
逆さに落ちる血塗れの白衣の男の姿を。
その時の感覚は言葉で表す範疇を超えていた。
落ちていく男の姿を目に捉えたのは時計の秒針が指し示すくらいの時の世界なのに、その一瞬が脳裏に焼き付いて離れない。
まるでフィルムに焼き付けられた映像のように僅かな瞬間を確実に切り取って。
一気に押し寄せる感覚に司はベッドを飛び降りて引き千切らんばかりにカーテンを閉めた。
この感覚が分からない。
分かりたくない。
飛び降りた勢いで点滴の針が抜けていた。
無理矢理抜かれた針が管と共に床に転がり、腕には出血と鬱血が広がる。
思い出したように息が上がる。
痛みよりも息苦しさが勝った。
頭が回らない。
握ったカーテンの布に引っ張られて金具が厭な音を立てた。
それでも握ったまま指が開かない。
急な運動に体がついていかず、床に座り込んでしまってもその手は離せなかった。
この感覚に一番近いのは、恐怖。
あの日とは違うが、それはねっとりと司に伝う。
体が悲鳴を上げているのにその感覚が意識を沈ませることを許さない。
目すら閉じられなかった。
司は看護師に発見されるまでカーテンを握り締めたまま目を見開いて硬直していた。
* * * * * * * *
違和感をはっきり認識してからの『彼ら』の視え方は尋常ではなかった。
昨日は霞みがかっていたのに、今日は壁が透けて視えない。
この前は動きすらなかったのに、今ははっきりその声すら聞こえる。
あの時はいなかったのに、もう自分の背後まで迫っているのが分かる。
毎日頻繁に視えるわけではなかったが、その頻度は確実に増えていた。
家族で『彼ら』が視えていたのは長男の戒人と長女の咲夜だけだ。
司は話は聞いていても今までに視たことは一度もない。
何故、視えるのか。
何故、今なのか。
何故、日に日に感覚が鮮明になるのか。
あまりに非現実的な現実に頭が辟易する。
だが何より司が不可解だったのは、『彼ら』が視えるようになってから傷が疼くようになったことだ。
しかも日毎感度が増す度に傷が熱を持ち、痛みだす。
咲夜にあの日のことを聞き、視えるようになったことを告白した後もそれは続いた。
むしろ増悪したといってもいいかもしれない。
最初は疼くだけで時間が経てば治まったものが、今や発熱し意識を奪うことすらある。
そして朦朧とする中で見るのはあの色彩。
赤が目の前を覆い尽くし
黒がすべてを奪い尽くし
白が自分だけを切り裂いて
銀がそれを縫い止める
そして聞こえるのはあの恐怖を植え付ける玲瓏の声。
『 君 が 匠 ? 』
粘着質の薄気味悪い恐怖と、純粋ですべてを奪い尽くす畏怖が司を闇へと引きずり込んでいた。
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