──悪夢の残り香
あの日から約一ヵ月、司のは意識不明の重体だったらしい。
もう気付けば九月の初旬。
記憶のないひと月は、慌ただしい周囲と見覚えのない胸から腹にかけての縫い傷が伝えてきた。
父さんが来ない。
戒人兄さんが来ない。
玲児兄さんが来ない。
律姉さんが来ない。
病室で迎える孤独が、あの日が夢ではないことを暗に感じさせた。
あの日、何が起こったのだろう。
分からない。
* * * * * * * *
意識が回復し、点滴から固形食へ移行した頃。
もう何となくは分かっていた。
見舞いに、咲夜と匠しか来ないこと。
個室から出られないこと。
テレビを見せてもらえないこと。
誰からも一歩距離を置かれること。
傷がどうしようもなく疼くこと。
はっきりと誰が言うわけでもないが空気が感じさせる。
もういつも通りの生活じゃない。
『咲夜姉さん』
少し離れたところからいつものように食事をする司を眺める咲夜に問う。
『何があったの?』
今日の出来事を問うような軽い声音。
いつ、どこで?
聞かなくても互いに分かった。
眼が真直ぐ咲夜を捕らえて放さない。
聞いたら戻れない。
聞かなかったら留まれない。
どんなことでも最後まで聞こうという確固たる決意と、言い表わせない激情を押し込めて、司は静寂そのものとなった病室の一点を見つめる。
『私が最初に見たのはリビングの入り口で倒れた貴方よ』
しばらくの沈黙の後、真直ぐ司を見つめ返していた咲夜はその時視線を窓の外に外した。
咲夜はその日珍しく帰宅が早かった。
予定外の定時の帰り。
久々の家族での夕食に有り付けると咲夜は律の携帯電話に連絡を入れた。
……出ない。
少し胸騒ぎがした。
大したことはない、そう片付ければ片付けられる。
気付かなかった、そういうこともある。
でも、こういう『予感』は昔からよく当たった。
そして大概その良くない兆しは現実となる。
いつもより愛車のスピードが上がる。
ドアを開けることすら、降りることすらもどかしい。
自然と歩みが速くなる。
パンプスの音がやけに響く。
手に握った携帯電話が時折軋む。
家のドアノブに手をかける。
気配がない。
蝉の声、
風のなぜる感触、
上がる熱気。
それらから切り取ったように気配がない家。
いつも感じる『彼ら』の存在すら感じられない。
勢い良くドアを開けた。
不用心甚だしいが、そんなことに気が回る余裕はなかった。
気付く前に倒れた人が見えたから。
『情けない話だけど、私も記憶が曖昧なの』
外を見つめたまま咲夜は呟く。
『貴方を見つけて頭が一瞬真っ白になった。血だらけでぐったりして、』
咲夜の眉が少しだけ歪んだ。
その仕草が、綺麗すぎて人間味の薄い咲夜を近くに感じさせる。
『息があるのは貴方だけだったわ』
司は目を閉じた。
聞きたいことはまだあったのかもしれない。
でも今はこれだけでいい。
これだけしか聞けなかった。
『咲夜姉さん』
また、名前を呼ぶ。
今度は噛み締めるように。
『もう会えないんだよね』
噛み締めても、噛み締めても言葉の塊は大きい。
『咲夜姉さんでも』
伝えたいこと、言いたいことが噛み砕けない。
だから出てこない。
『……視えなかったわ、誰も』
だから代わりに涙が伝う。
少しだけ、期待した。
何事もなかったように笑って迎えにきてくれる家族を。
でもその望みもない。
たった今自分で断ってしまったのだから。
『もういないの』
咲夜が司を抱き締めた。
背中に回った両腕は少しだけ、震えていた。
『どうして?』
声すら震える。
抱き締める咲夜の腕を掴む指が白くなる。
『『あの人達』は視えるのに』
はっとして顔を上げた咲夜の瞳に人影が映る。
さっきまで自分がもたれ掛かっていた窓の外。
それは逆さまに落ちながらにたりと笑う血だらけの男の姿だった。
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