春の夜の夢の如し
風の前の塵に同じ
胡
蝶
ノ
箱
庭
参
椿さんの指示に従い部下を走らせ、半ば茫然としていた瞬弥と開高を無理矢理動かして何とかその場を取り仕切る。
しかし、朝日が辺りを照らすにつれてにわかに周りがざわめき出した。
隊史が集まり始めている。
何か異様な雰囲気を感じ取りここまで来たのだろう。
その手の妙な空気には人一倍敏い職業柄故に、人の群は増えていく。
それはわらわらと砂糖に群がる蟻のように。
黒い軍服の集まりでは余計にそう見える。
唯蟻の群れと違うのは、
目当ての砂糖に連なる行列なく、
代わりに蟻地獄のようにぽっかり真ん中が空いていることだ。
隊史達は遠巻きに副長を囲むように見ていた。
いや、見ていたと言うより、
立ち尽くしていたと言った方がいいのかもしれない。
無理もない。
桜の木の下、緋色を背に、
果ててしまったあの人は
血生臭く、そしてぞっとするほど美しいのだから。
現実との境を忘れてしまうほどに。
「――隊長、」
また呼ばれて我に返る。
どれくらい呆けていたのか。
気付けば目の前に部下が立っていた。
「遺体の検分は……」
部下が窺うように後ろと自分の眼を見る。
ちらりと向けた視線の先、部下の肩越しに未だ桜に凭れかかる副長が見えた。
そのままにしておくにはあまりにも忍びなかったのだろう。
白い布があの人を覆っている。
「……あ、ああ、頼む。
検分が済んだら第二医務室に運んで、それからは久保井医務長に指示を仰いでくれ」
喉が張り付いて上手く第一声が出せなかった。
慌てて繕い、視線は白い布へ向けたまま指示を出す。
その時、真後ろから砂利を蹴り上げるような音がした。
誰か来たのかと振り向こうとすると、その動きに被さるように声が発せられた。
「青女ちゃん……」
開高の声に重なり、振り返った先に見えたのは相沢だった。
見ればさほど近くもない距離なのに、相沢の人形のような丸い大きな瞳は見開かれ、止め処なく涙が溢れているのが判った。
でもその瞳にオレは映らない。
こちらは向いているけれど、相沢は誰一人見ていなかった。
唯一人を除いて。
「ゆぅ、みふく、ちょぅ」
彼の人だけを瞳に映し、途切れ途切れの幽かな声が空気を揺らす。
鈴の音と言っても遜色なかった声は掠れていた。
頭を抱え、今にも倒れそうな不安定な姿勢のまま相沢は立ち尽くしている。
小刻みに震える足を無理矢理奮わせながら。
「……青女ちゃん、」
誰もが触れてはいけないような、そんな痛々しい姿に開高がそっと近付いた。
その手を伸ばして呼び止める。
だが、相沢は伸ばされた手には目もくれず、それを振り払うように駆け出した。
相沢が一直線に走り抜ける。
もう一度開高が名前を呼んだが聞こえてなどいないだろう。
相沢の長い黒髪が視界を横切る。
思わず手を伸ばしたが届くことは叶わない。
頼りない足取りで赴くのは副長の元。
するすると間をすり抜けて。
相沢の手が布を掴んだ。
「青女ちゃん!」
開高が相沢の名前を叫んだ。
あの白い布が剥がされた。
はらり、
とその白い手から白い布が滑り落ちる。
「いやあああああああ!!」
あのか細い喉から絞り出されたのは絶叫だった。
「うそ、いゃだ、だめ」
嘘だと繰り返すその唇が戦慄(わなな)く。
白い指が震えながらも迷いなく副長の胸に刺さる刀に伸び、
そしてしっかりと掴んだ。
「いたいですよね?くるしいですよね?」
浮わついたような、頼りない声でようやく気付く。
相沢が刀を引き抜こうとしていた。
「相沢!」
咄嗟に手首を掴みそれを止めた。
だが、咄嗟のこととは言え常人なら得物を手放すであろう強さで掴んでいるにも関わらず、その手は刀を掴んで放さない。
むしろより一層力を込めて握り込む。
ぎちぎちと音が鳴る。
「ぬかなきゃ、ぬかないと」
「相沢落ち着け!」
「だって、ふくちょぅが、かたなが、だってくびが、」
がむしゃらに暴れる相沢の瞳は涙を流しながらも虚ろであった。
「開高!押さえろ!」
言葉尻を言う前に開高が後ろに回り込み、相沢の首筋に手刀を食らわせる。
手刀は的確に決まり相沢は膝から崩れ落ちてオレの腕に収まった。
抱えた体は細く、そして消えそうなほど儚く見えた。
暴れた後とは思えない白い頬には涙の跡がくっきり分かる。
それが酷く痛ましい。
「……相沢に付き添ってくれ」
執念すら感じるほど強く刀を握り締める指を解いて相沢を開高に託す。
いつもなら一つ、二つ軽やかな返事があるのに、今は静かに頷くだけで開高はそのまま黙って相沢を抱えて踵を返した。
一時その後ろ姿を見送った後に副長を顧みる。
いつの間にか傍らに瞬弥が佇んでいた。
白い布は外され、また淡い日の元に晒された副長に寄り添うように。
「少し、休んで下さい……紅さん」
風に浚われそうな穏やかな声音。
未だ開かれたままだった彼の人の瞼をそっと声の主が閉じた。
霞みがかっていた空気は晴れ、大分日が高くなっていた。
当たり前のように鳥が鳴き、淡い木漏れ日が揺れる。
いつもの朝が来た。
この空間だけを残して。
それでもまだ現実味のない雰囲気が漂っていた。
【続】