伍、【日常的風景】 是も此処の日常的風景。 「ちょぉぉおおっっと通して下さぁぁああいっっ!!!」 始業時間をいくらか過ぎた灰白色の廊下に切羽詰まった絶叫が谺する。 その声を聞くと大概隊史はああまたか、と同情とも惰性ともいえる目線を声の主一瞬だけ向け、慣れた様子で道を空けるのが慣例となっている。 皆の目線の先、そこには分厚い冊子と書類の紙束を目一杯抱えてよろめきながら進む少年のような幼さの抜けない面差しの青年がいた。 余程慌てているらしく、掛けている黒縁の眼鏡は落ちそうになって臙脂のネクタイは無残に曲がっている。 それに気付いても直せないのが今の彼の状況だ。 「あれ?水崎どうしたの、そんなに慌てて」 そこに現われたのは木津宮。 彼もいくつか書類を抱えていたが、水崎と呼んだ目の前の小柄な青年に比べれば顔が見えるのだから可愛いものである。 「きづみやさーん、聞いてくださいよー」 あと一押しで泣きそうな顔をしながら水崎は靴音を鳴らして木津宮に近づいてきた。 「え、やだ」 間髪入れずに即答。 バサバサバサバサッ その途端、水崎は持っていた物を見事に全部廊下にぶち撒けた。 「うわっ!ちょっと何してんだよ、水崎!」 「えっ!あ、う、あう、す、すいません!」 咄嗟に木津宮がしゃがみ込んで散らばった紙を拾いだすと、二呼吸ほど遅れてようやく水崎も木津宮に倣った。 「にしてもまたえらい量だな。例のテロの資料?」 「と、それを含めた夜郎衆が関連したであろう事件の記録の一部です」 「うわ、これで一部か?!よくやるねぇ、夜郎衆」 「関心事じゃないですよ、木津宮さん」 後から通りかかった隊史数人も手伝ってやっと冊子と書類は元のように水崎が抱えられるような形になった。 「これ何処に持ってくんだ?史長のところか?」 「史長のところもそうですけど……あとは、園衞くんのところです」 その答えに木津宮は本日初めてその他の隊史と同じく同情するような顔をした。 彼は名前は水崎鳴海(ミズサキ ナルミ)。 洛叉監史所属の書記官で階級は大尉。 特殊武装警護隊を称するこの組織において数少ない内勤の水崎は、主に資料管理・作成、書類整理、会議録作成などを行なっている。 「……水崎、おまえ仮にも年上なんだから断れよ」 「断れるわけないですよ。 ぐつぐつ煮えたぎる熱湯の入った薬缶持った園衞くんに『やらないとタマ殺(と)りますよ』って脅されながらお願いされたら木津宮さん、貴方断れますか?」 「それはお願いじゃなくて脅迫だろ、完璧」 本来なら史長、もしくは副史長につくはずの水崎。 だが、どうやらお茶を飲もうと準備中の園衞にうっかり遭ってしまったらしい。 「加えて悲しいかな彼の方が階級は上です」 水崎は大尉、園衞は少佐。 年功序列以前に、尉官と佐官の差はあまりにも大きいのだ。 「辛いな、水崎。よしよし、お兄さんが運ぶの手伝ってやるから。史長室でいいんだろ?」 水崎の頭を軽く叩いて木津宮は木津宮なりに励ました。 縦社会の理不尽さはこの場でどうににかなるものでもないので、今はこうするくらいしか術がない。 「ありがとうございます、助かります」 そう言って水崎が木津宮に資料を渡そうとしたその時、 「遅いよ、丸眼鏡」 おかしいなほど蒸気を上げる薬缶を持った園衞がいた。 運悪く遭遇してしまった隊史は何故薬缶片手に廊下にいるんだ、とか、自分も赤の分厚い眼鏡を頭に置いてるじゃないか、とか、そのような疑問が頭を掠めても恐怖のあまり言い出せない。 外見は愛らしいことこの上ない園衞だが、醸し出す雰囲気は紅とは違う方向で可愛らしさの欠片もないほど恐ろしかった。 「わ、悪い、水崎。オレ用事思い出したから手伝えないわ。じゃ、またな!」 瞬時に状況を察した木津宮はそう言うや否や脱兎のごとくその場から逃げ出した。 「ええっ?!ちょ、ちょっと木津宮さん?!」 「ひよこ豆眼鏡、遅れたら熱湯ぶっかけてメッタ斬りにして虎石丸の錆にしてやるって言ったよね?」 「そんなこと言われてませんよ!ってさっきよりなんか方法が具体的なんです・・・ぎゃぁぁああああああっ!!!」 水崎の発言は言い終わる前に断末魔に変わった。 その時、丁度赭鸞郭から帰ってきた紅が廊下で繰り広げられる惨劇に遭遇した。だが、 「水崎。頼さんのところに持っていく書類貰っていくぞ」 必要な資料だけてきぱきと拾い上げてさっさと紅は去ってしまった。 此処では是が日常的風景。 【了】 |