肆、【渡り廊にて】 洛叉監史は軍司令部の一つ、戒厳司令部の監督下にあり、本部の白鶯館は戒厳司令部の敷地内に位置する。 戒厳司令部本部『赭鸞郭(しゃらんかく)』とは渡り廊下で繋がれ、基本的に自由な行き来が可能である。 紅はその廊を通り、赭鸞郭を目指していた。 朝早いこともあってか誰とも擦れ違わずに長い廊下を足早に進む。 携えた刀が時折揺れては鳴り、手に持つ紙束が擦れて微かな音を断続的に出す。 つい先程まで園衞を叱咤しついでに木津宮に八つ当りに近い抵抗をしていたせいか、未だ紅の表情は険しかった。 無人であることが幸いである。 「よ、紅。おはようさん」 廊下を渡ってすぐに紅は同じく漆黒の洋装に身を包む男に声を掛けられた。 「お早よう御座居ます、頼さん」 男に呼び掛けられた紅は先程と打って変わり、眉間に皺も寄せずに柔らかな表情で丁寧に挨拶を返した。 男の名は頼光輝一朗(ヨリミツ キイチロウ)。 洛叉監史史長、階級は准将。 襟足の長い硬そうな黒髪に意志の固さを感じさせる太めの眉と茶褐色の瞳、長身でしっかりとした体躯は軍人らしい力強さと逞しさを備えている。 そして公私共に紅が唯一素直に従う人物でもある。 「どうした?機嫌が悪そうだな」 「こうも日を置かずに頭の螺旋が二本も三本も吹っ飛んだ馬鹿共がどんぱちやってくれたら機嫌が悪くならない方がおかしいだろう」 「朝から言うなぁ。 ま、だからってあんまりそうしかめっ面はするなよ。美人が台無しだ」 そう言いながら頼光は紅の眉間を軽く押す。 このようなことをしても半殺しにされないどころか、手すら払われずにいられるのは今のところ頼光くらいなものだろう。 「頼さん、今朝のテロのことなんだけど」 「ん?ああ、あれか。粗方の資料は園衞から投げ込まれたぞ。 また一条だろうって話だな」 「はっきりしたことはまだだけど、おそらく」 「じゃあ“あいつ”も絡んでるな」 “あいつ”―― ある特定の人物を匂わせる言葉に頼光の眉間に皺が寄る。 紅もまた表情が硬くなった。 一条暹太郎が統率する夜郎衆は一条主格の一枚岩ではない。 確かに創始は一条であり、これまでの活動において中心に立つのも一条であるが、ここ三、四年その形態に変化が見られていた。 「……宗璃王(ソウ リオウ)」 どちらからともなく呟かれたその名前。 それが今の現状、夜郎衆を凶行に駆り立てる元凶と目される男の名である。 七年ほど前から目立った破壊行動に出ていた夜郎衆。 それがここ三、四年で更に加速度を増していた。 規模の大きさ、その過激さ、計画の周到さ、使用する銃火器の質の高さ、どれをとってもここ最近急速に進歩を遂げている。 いくら中核の一条が名門の武家の出であったとしても、今は公職はおろか家もほぼ断絶状態の一条家の繋がりのみで資金的にそれらを向上させられるとは考え難い。 ―― 協力者がいる。 一年前、ようやく浮上したのが宗璃王であった。 「規模の大きさから見て奴が関わっていると見ていいだろうな。 さっき菊間司令に璃王の情報は最優先で回してもらうよう頼んだから」 頼光が史長でありながら会議を欠席していたのはその為だったらしい。 「頼さん、ごめん。余計なことまでさせて」 「いいんだって。司令に会いに行ったついでに頼んだだけだから。俺の勝手だ」 だから気にするな、と頼光は紅の頭を軽く撫でた。 紅は黙ってそれを甘受し、うなだれる。 頼光の行動は確かに助かる。 宗璃王の存在がようやく明るみになったのが一年前。 ただ、それは名前のみ。 その出自はおろか、年齢、容姿、性別が男であるかどうかすら推測の域を出ていないのである。 未だその状態は続いている。 そこに戒厳司令部最高責任者、菊間司令官の情報網が加わるのは非常にありがたいことであった。 「これで少しは楽になるだろう」 「だといいんだが」 頼光の言葉に苦笑いをしながら紅は答える。 対する頼光の方は朝に相応しい爽やかな笑顔を浮かべていた。 「ま、そういうことだ。経過は追々だな。 おっともうこんな時間か。紅のことだからまだ朝飯食ってないだろ。ほら、食いに行くぞ」 「その前に野暮用済ませてから行く。各隊の連絡と情報整理がまだなんだ。 頼さんも食べたら未処理の書類署名と捺印しといてくれよ」 爽快な笑顔から一転、うげっ、と蛙が潰れたような声を上げて渋い顔をする頼光を尻目に、紅はそのまま赭鸞郭の奥へと歩を進めた。 「逃げたら盆栽叩き割って薪にするからな」 と、釘を刺して。 心の安らぎの一つ、趣味の盆栽が絶体絶命の危機に晒され頼光は音が聞こえそうなほど肩を落とした。 【了】 |