『暗赤メランコリック』後編 





さめざめ、と雨が降る。
小さな、小さな、水の粒が付く小糠雨。
鬱陶しいほど髪と服に水気が残る。


「夕美君」


自分の名を呼ばれ、初めてそこが外だと知った。



「死んだのかと思いましたよ」


焼け落ちる寺院建築を背に、神経質そうな眼鏡の男が雨とも呼べぬ雨に濡れる黒衣の人に傘を差し向けた。

寺院の方からまるで幽鬼のように現われたその人物は何も言わず傘に入る。
俯くその顔は肩に掛かる銀髪が帳のように垂れて見えない。


「殺したよ」


顔を上げる代わりに呟く。


「……行きましょう。ここは冷えます」


銀髪のその人よりも背の高い眼鏡の男は傘を持ち、肩を抱いてその場を後にした。




古都・華洛(からく)の信仰の対象、八尋山(やひろざん)にある龍刻寺という寺院から火の手が上がった。
猛火は由緒正しき古寺であったそこを嘗め尽くし、灰に変え、一昼夜にして焦土を作った。
風聞よればその原因は放火であったと云う。



「少しは落ち着きましたか?」


肌に張り付くような雨の中、椿真琴は傘を持ったまま隣に座る人物に尋ねた。
何も答えず銀髪の人物 ─ 夕美紅は一瞥しただけで目線を遠くに戻す。
その翠緑玉の瞳が映すのは、未だ赤々と燃え上がる八尋山龍刻寺一円。
夜の魔物のごとく聳えるその中腹が松明のように明るく見えた。


「院主と姫のどちらかを早々に処分して引き上げなさいと言ったでしょう。
何故ぎりぎりまで中にいたんですか」


傘を紅に持たせ、椿は屈み込みながら様子を見る。
服は焼け焦げ、手には火傷を負っていたが重傷ではない。
ただ、湿気とは違う重みを増した隊服と、乾きかけてぱらぱら剥げ落ちる返り血が凄まじかった。


「仕事はした。それで文句はないだろ」


久々に発した紅の声は素っ気なく、感情の乗らないものだった。


二人がこの地に赴いたのは軍の命令が下ったからだ。
命令は内親王・北波羅宮閑の捕捉、及び龍刻寺院主・立花宵耀の殺害。
宵耀は元軍人であるが、退役後反政府組織と関係性を疑われていた。
それだけなら表立って事を起こすことも出来たが、閑との内縁関係が明かとなりそれが事実上不可能となった。

北波羅宮家と言えば帝の弟君の御家。
その女王たるご息女がテロリストと同義となれば、御名に傷が付くどころでは済まされない。
事実が公となる前に、内々で処理する為にこの命令は下された。
数ヵ月前から消息を経った閑の動向を追い、何とか龍刻寺まで辿り着いた。
事実が残ってはならない。
古来より僧兵、武僧を有する八尋山一帯、その地を統べる寺院の一つ、龍刻寺は元より目の上の瘤。
焼き討ちは早々に決まった。



「貴方が処分したのは?」

「姫の方だ」

「そうですか。院主の方は監査方に任せましょう」


すぐに遺体で見つかるはずです、と紅の手に包帯を巻きながら椿は言う。


「後の処理は私がしておきます。貴方は少し休んでおきなさい。
また、仕事があるんですから」


この仕事を史長の頼光が知ることはない。
何故なら直接紅と椿に下りてくる命であるから。

洛叉監史は出来て間もない。
史長も副長も年若い。
組織として在る為に、受ける仕事に優劣など付ける訳にはいかなかった。
それを頼光に知らせないと決めたのは紅だ。
それは紅の配慮であり、また意地でもあった。




「……姫が、最期に言ったんだ」


椿が包帯を巻き終え、立ち上がったところで紅が呟いた。
椿は何も言わずにその場で静かに紅を見下ろす。


「今、幸せか、って」


小糠雨はとうに止み、夜の寒気が身を震わす。
先の紅蓮が嘘のように。


「貴族って最期はああも堂々としてるもんか?」


翡翠の眼は地を見つめる。
昏い、昏い、巣食うように広がる闇を含む土を。


「私が知っている公家は最期に泣き叫んでましたよ。五月蝿くて仕方なかった」


同じように闇に沈む地面を見ながら椿が応える。


「要は生き方の問題でしょう」


そう言って椿は軽く紅の頭に手を置いた。


「ですから貴方が彼女を気に止める必要はありませんよ」


それは要らぬ思考だと椿は囁く。

捕捉と言われてはいるが、そんな確約はないに等しい。
邪魔になれば殺してこいと言われているも同然だ。
理不尽だと思えば思うほど川底の泥のように心が澱む。

姫は何を思っただろう。
愛しただろう男と共に、家を捨て、安寧を捨て、果ては逆賊と捨てられる。
問うた姫自身は幸せだったのだろうか。

頭に置かれた手が撫でる行為になっても紅は顔を上げなかった。




「琴さんは、幸せ?」


小さな、消えるような問いだった。

霧のように不確かで、
靄のように曖昧で、

ぼんやり、と。



椿はその問いには答えなかった。
代わりに違う答えを紡ぐ。


「── 人は果てのない絶望に苛まれた時もそうですが、幸せの絶頂にある時も死にたくなるのだそうです」



意図の見えない答えにようやく紅が顔を上げた。
視線が絡む。


「昇った後は堕ちるだけでしょう?人はその束の間を掌握したいのですよ」


水を含んだ銀髪を椿は緩やかな手つきで梳く。
こびり付いた血を削ぎ落としながら。


「私は幸せですよ。望むように生きていますから。
でも、まだ絶頂とは言い難い」


少し苦笑しながら椿は続ける。
らしくない、滑稽さが見えようだと思った。


「だってまだ生きてますからね」


最後に紅の顔に残った血を軽く拭った。
仄かに紅い線が雨の残り香を吸って滑らかに頬に走る。



「夕美君。貴方は幸せですか?」


いつものように怜悧な声ではなく、柔らかさを持つ口調で椿は訊ねた。
紅はゆっくり横に首を振る。


「では、不幸ですか?」


今度はよく分からない、と小さく擦れた声で紅は答えた。


「それで良いんですよ。まだ死ぬほど、幸でも不幸でもないんです」


椿が手を差し出す。
早く立てと急かすように。


「だから生きていけるんでしょう」



少しだけ間を置いて紅はその手を取った。
そして徐ろに立ち上がる。


「死にたいと思えるほどの昂揚感と絶望感を味わいに行きましょう」


何処でなんて聞かなくても決まっている。
紅が立ち上がると、椿はすぐ手を解き踵を返して歩き出した。


「史長にそんな情けない顔見せないで下さいね。貴方は洛叉監史の副史長なんですから」


振り返らずに告げる椿の声は、もういつもの鋭い声音に戻っていた。


まだ死ねないのは

義務でも
正義でも
使命でもなく

ただ中途半端なだけ


いつか死ぬ日が来る時は

胸一杯の失望か
手一杯の祝福か

どちらかを携えているのだろう




袖で自分の頬を拭うと、紅も椿の後を追って歩み始めた。






何故、人は生きているのでしょう


それは不幸でも幸福でもないからです



だから生きているのしょう

この醜くも聡明な世界で



【了】 


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


壱万打キリリク、紅の小咄で御座居ました。

今回は紅の過去の話、20か21歳くらいの設定で書かせてもらいました。

洛叉監史はまだ出来て2、3年の新組織で、軍の中での地位を確立する為に紅は椿と共に奔走します。
その一つに要人暗殺も含まれるわけです。
頼光はそういった行為が好きではないので紅は頼光の為に、自分の自尊心の為に、隠そうとしているのですね。

そんな中でのお話です。
まだ副長として、自分が歩こうとした道に慣れないセンシティブな紅が書けていたら良いんですが(汗)

それにしても真琴さんが予想外に出張って参りました。
うちの長ゼリ担当なのでお相手としては使い易いですけどね。

いや、それにしても書いた本人ですら内容が把握出来ない話になってしまいました。すいません!
この作品は、本館でも短篇集に掲載しています。

最後に一読有難う御座居ました!

田中唯太 拝
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