『暗赤メランコリック』前編 何故、人は生きているのでしょう この美しくも残酷な世界で 『三 千 世 界 ノ 鴉 ヲ 戮 シ テ』 番外編 〜『暗赤メランコリック』 カーン、カーン、カーン 甲高い鐘の音が忙しなく闇夜に響く。 静寂をもって竚む影となった寺院の間を縫いながら。 カーン、カーン、カーン 荒々しく打ち鳴らされる。 境のない昏がりへ吸い込まれる事無く波のように音が広がる。 早鳴りの鐘が向かう先は漆黒の闇。 黒に染まる木々の繁りに音は流れ反響する。 だが、音が生まれるその場所は紅蓮の炎に包まれていた。 「ひーさま?!ひーさま?!」 既に火の粉舞う寺院の中、噎(む)せ返るような熱さに見舞われる檜の廊下を袖で口を覆いながらも必死に叫ぶ僧が奔走していた。 梁が崩れ、柱が折れ、壁が焼け落ちる。 それでも黒い僧衣を翻し、彼の人の御名を呼び続ける。 「ひーさま!早うお逃げ、」 その僧が最後まで言葉を言い終えることは叶わなかった。 目の端を掠める銀の軌跡。 首から溢れる赤。 痛みに叫ぶ間もなく僧は首を斬られ崩れ落ちた。 物言わぬ亡骸の傍に血を滴らせた白刃を携える人影。 夜でありながら燃える炎で赤々しく目に焼き付く廊下に、黒点を打ったようにその人はいた。 今し方斬り捨てた僧を一瞥すると、その黒衣の人物は一筋に伸びる廊下を突き進む。 刀身に纏わり付く鮮血を拭わず、元は白かった手袋を赤黒く染め、木張りの廊下を不釣り合いな黒の革靴で踏みしめる。 そして奥まった一角、唯一未だ火難を免れた部屋の扉に手を掛け、開け放った。 中には唯一人。 炎が蠢く下界の騒がしさなど知らぬように静けさだけが支配するその部屋で、女が一人窓辺で佇んでいた。 一目で上物と知れる華やかな模様と気品を備えた白の小袖を身に纏い背を向ける。 開け放たれた格子を前にする女の顔は窺い知れない。 「北波羅宮閑(キタハラノミヤ シズカ)内親王とお見受け致します」 黒衣の人物が目前の女に呼び掛ける。 決して声を荒げるようなことはないが、その声は刺さるように透る。 「その名を聞くのは久しいですわね」 背を向けていた女が振り返った。 「皆さん私をひーさまとお呼びになりますもの」 ふんわりと、女が笑う。 灯火の火影のように 命儚い蜻蛉のように ゆらゆら、と。 「伯父様が貴方を寄越されたのかしら」 女の問いに黒衣の人物は答えを返さず、黙するまま女に向かって歩を進めた。 漆黒に見えた衣は幾多の返り血を浴び、染み付くまでその血を黒く吸った軍服。 黒ばかりだと思われた身体はよく見れば銀の髪が垣間見えた。 「詔命ではありません。ですから、もう貴女では帝へのお目通りが罷り通ることはないでしょう」 皇族にとっての最後通牒を告げて、黒衣の人物は赤黒くなってしまった手袋で刀の血を拭うと女の前に静かに立つ。 薄明かりの中で互いの顔が漸くはっきりした。 「随分お若いのね」 女の目の前にいるのは幼さを残す面立ちの銀髪の玉人。 拭ったことで鈍く輝く刃先を持つ姿は魂を刈り取る異国の美しい死神のようだった。 「院主殿は既に帰順されております。大人しく下って頂ければお目通りは叶わずとも悪いようにはなさらないでしょう」 「嘘をおっしゃらないで。 院主様が、いえ、宵耀(ショウヨウ)様が下るはずが御座居まして?」 初めて女が嫋やかに笑う以外の表情を見せた。 もう先のような儚さは女にはない。 「仇(かたき)に頭(こうべ)を下げるくらいならば、この命亡きと同じもの」 それは、修羅の笑み。 「あの方はいつもそうおっしゃってらしたもの」 風が吹く。 熱い。 夜風というにはもう熱を含み過ぎている。 烈火がすぐそこまで迫っている。 「ご一緒には来て下さらないのですね」 「元よりそのつもりはないのでしょう?」 そのような眼はしてらっしゃらないもの、と女はくすりと笑う。 また嫋やかな笑みに戻った。 黒衣の人物は一歩前に出る。 刀を構えた。 一直線に銀の刃先が女の首元に向く。 「最期にお託けは」 「ありませんわ。私の口からお伝えしますから」 一瞬の沈黙。 暗闇から火塵が舞う様が見て取れる。 火は近い。 熱と共に物が焼ける臭いが漂う。 カーン、カーン、カーン 鐘が鳴る。 逃げろ、逃げろと鐘が戦慄(わなな)く。 「託けはないけれど、貴方に一つ聞いても宜しくて?」 真直ぐ。 濡れるような黒曜の瞳を向けて女は問う。 「貴方は今、幸せ?」 筋の読めない問い。 微かに刀身が揺れる。 「── とても辛そうにしてらしたから」 「それだけですか」 はっきりとした応えをせずに 黒衣の死神はその一太刀で女の首を薙いだ。 【続】 |