十九、【うゐのまにまに 二】 







「ユウちゃん!」


飛び込んできたのは、

真っ白な天使。




胸の辺りに受ける衝撃。
後ろへ僅かに傾く身体。
重心の掛かる左足。
腕の中には。


「ぅあっ」


扉の方から自分の胸へ飛び込んできた物体に紅は対処しきれず僅かに体勢を崩した。
何とかその場に踏みとどまったものの、驚きで体が強張り広げた手が空を切る。


「……ジゼル?」


傾く身体が動きを止めたところで紅は戸惑いながらも抱きつくその人物の名を呼んだ。
おそらく紅と思われる名を呼び、医務室へ入り込んできたのは一人の少女。
紅とは頭一つ分違う黒いワンピースに包まれた小柄な身体。
七分袖から覗く小さく細く白い手がしっかり紅の身体を掴む。
顔は胸に埋められて窺えないが、柔らかく長い銀の髪が揺れていた。


「ユウちゃん久しぶり!元気にしてた?」


未だ所在なく手が泳いでいた紅に対して、ジゼルと呼ばれた少女は勢い良く顔を上げてまた抱きついてきた。
上げられた顔はまだ幼い。
あどけなさの残るそれは瑞穂(みずほ)や倶加舘(くがたち)といった漢州系の顔立ちではなく、もっと海を隔てた異国の面影。
年の頃は園衞や開高辺りと変わらないだろう。
明るい翡翠の双眸が光を集めてきらきらと輝き曲面に紅を映す。
その愛らしい顔を喜色満面にしてジゼルは紅を見上げ、更に腕に力を込めて抱き締めた。


「真っ先にいつもの部屋に行ったのにユウちゃんいないから探したんだよー」


ジゼルの表情は短時間でよくころころと色を変えた。
にこにこ笑っていたと思ったら、次は少し拗ねた顔で丸みのある大きな瞳をくるくる動かし紅に戯(じゃ)れつく。



「ジルちゃん、ユウちゃんねー病み上がりだからハグはそれくらいにしといてやってね」


今まで傍らで黙っていた久保井が万年筆を紅に向けながら口を挟んだ。
一見すれば柳眉の麗人と可憐な少女の抱擁、という劇中の一場面にもなりそうな光景だが、よくよく紅の顔色を窺えば怒りとは違う類の皺が眉間に寄っていた。
僅かだが唇を噛みしめる様子からすると、どうやら痛いらしい。

それもそのはず。
ジゼルの腕が狙ったかのごとく腹部の傷口に当たり、その上締め上げているのだから無理もないだろう。
このジゼルという少女、華奢な見かけによらずかなりの怪力であるから尚悪い。
久保井が喋る間にも、苦痛なのか紅の顔が見る見る歪む。


「一応お腹をばっくり斬られちゃっててねー。今は傷痍軍人さんなんだわ」


だから放してあげて?、と久保井は続けた。
久保井の言葉にジゼルは弾かれたようにぱっと腕を解く。


「ユウちゃん怪我してたの?!」


距離を置き、それと同時にジゼルは心配そうに紅を窺い見た。


「……いや、大したことねぇから心配いらない」


間は開いたが紅は何とか自然に返答した。
それでも若干痛みでいい加減眉間の皺は寄ったままだが。


「いやいや大したことはあるよー。ざばーって捌かれて腑(はらわた)飛び出しそうだったもん」


何でもないと嘯く紅に今度は久保井が食いつく。
それに対して更にジゼルが畳み掛けた。


「ユウちゃんひらきにされたの?!」

「そうそうそれも横にキレーイにね。そりゃー見事にぱっくり開いちゃって」


久保井の発言にジゼルは短い悲鳴を上げて飛び退いた。
表情豊かなその顔は今や悲壮感たっぷりに歪んでいる。
見ているこちらが可哀想になるほど唇が戦慄(わなな)いていた。
思ったより紅の怪我が精神的に打撃を与えたようだ。


「勝手なこと言ってんじゃねぇぞ、ヨレ眼鏡。こっちは病み上がりでもねぇし、腑まで出るほど斬られてもねぇ。誇張し過ぎだ」


ジゼルの様子に見かねた紅が久保井を睨みながら口を開いた。


「ジゼル、本当に大したことねぇから気にするな。己は開きにもなってねぇんだから」


離れて俯いてしまったジゼルに向かい、紅は遠慮がちにだが手を伸ばして同じ銀髪の頭を撫でた。
何度かゆっくり撫でているとジゼルが怖ず怖ずと顔を上げる。


「ほんとに大丈夫?」

「ああ。二、三日休めば何とかなる」


そう言って紅が軽く頭を叩いてやれば、ジゼルはぱっと花が咲くように笑顔になった。
そこに久保井がするりと割って入る。


「いやいや、二、三日じゃなくて一週間だからね。それに腑は語弊があるかもしれないけど、斬られたのは事実だし安静にしてもらわなきゃ困るし」

「それなら言い方を考えろ、阿呆」

「それ紅ちゃんに言われると心外ー」

「五月蝿ぇ。己は手前ぇの言動すべてが心外だ」


相変わらずの間延びした久保井の台詞にげんなりした様子で紅が毒づいた。
毒づかれた久保井の方はそれは酷いと意見するが、続く台詞が棒読みの時点で大して気に病んではいないようである。
いつもの掴み所が今一つ分からない久保井の態度に紅は一つ溜め息を吐いた。



「あー、そういやジルちゃん今日はどうしたの?」


思い出したように久保井が声を上げる。
言われてみれば、紅と久保井はこのジゼルという銀髪の少女が何故ここにいるのか理由を聞いていなかった。


「今日はね、真秀(マホ)がこっちに用事があるって言ってたからついてきたの」


にこっと可愛らしい笑みを添えてジゼルはその問いに答えた。
名前が出た瞬間、素早く紅の眉間に皺が寄る。
久保井も僅かだが表情が動く。


「へぇー。佐渡(サワタリ)の若さんが。わざわざ珍しいねー」


意外だと言わんばかりに久保井が呟いた。
それにこくんとジゼルも頷く。
名の上がったこの佐渡と言う人物は自分から動く立場の人間ではないらしい。


「それにしても若さんは何しにきたんだろ?」


尤もらしい疑問を万年筆をくるくる回しながら久保井がまた呟いた。




「……一寸(ちょっと)行ってくる」


しばらく眉間に皺を寄せたままだった紅が急に出入り口に向かって身体を動かした。
二人を顧みることなく足を進める。
その突然の行動に久保井は思わず引き留めた。


「ちょっと?!紅ちゃんどこ行くの?!」

「決まってんだろ、佐渡の所だ。奴に会ったら言われた通り療養に入るから」


久保井が言い募るだろう言葉に先手を打って紅はそのまま扉を開け放った。


「あの坊(ぼん)と話つけてくる」


そう言い放って紅は医務室から駆け出した。


「あ!まってユウちゃんアタシもいく!」


一歩遅れてジゼルも紅の後を追い飛び出した。

開け放たれた扉から風が滑り込み帳を揺らす。
白い壁が淡く朝日を乱反射させる。
突然音のなくなった消毒液臭い部屋。
残されたのは久保井一人。


「……お大事に」


言うべき本人の足音が耳鳴りのように遠くなったところで久保井はぽつりと呟いた。



【了】 


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