十九、【うゐのまにまに 一】 食堂での隊長同士の遣り取りと同時刻。 白鶯館・第一医務室は、朝から入り口に『面会謝絶』という穏やかでない文字が大きく雄々しく書かれた札が掛けられていた。 一階西側の奥に備え付けられたそこは主に診察室と簡素な治療室、医務官の詰め所を兼ねてその場所を宛行われ、日々医務官が洛叉監史の医療と健康管理を担っている。 今日も部屋の主が一人の患者に対し診療を行っていた。 「紅ちゃーん、二十四にもなって言い付けも守れないんですかー?」 やる気のない間延びした男の声がやけに白い室内に響く。 それは古びた回転椅子の上で不規則に揺れながら、診察表を万年筆でコツコツ叩く白衣の男が発したもの。 「己は二十五だ、間違えんなヨレ眼鏡」 男の目の前にはシャツ一枚で肩に黒の隊服を掛けて憮然と腕を組み座る洛叉監史副史長。 いつものようにその柳眉は盛大にひそめられている。 「ヨレ眼鏡は酷くないかい?眼鏡使用者に非常に失礼だって」 「ちゃんと掛けてねぇ方が失礼だろうが」 「ちゃーんと掛けてますって。ちょっと度は合ってないけど」 「そんなもんいつもずれてんだから関係ねぇだろ」 はいはい、と背中を丸めて生返事を返すのは医務長の久保井千浪(クボイ チナミ)。 やや自由奔放な赤茶の髪に具合の悪そうな丸眼鏡、大分着込こまれた白衣を羽織る少々胡散臭さが漂う男だが、これでも洛叉監史の医療において最高責任者の地位に就く歴とした医務官である。 紅は椿と彼に連行される頼光を執務室で見送った後、傷の具合を最終的に診断してもらう為にその足で医務室へ向かったのだ。 椿同様久保井も紅の主治医のような存在なので、必然的に行くのは半分久保井の住処となっている第一医務室になる。 久保井は軽く傷の状態を窺うと万年筆の軸尻で頭を軽く掻きながら前に座る紅を見た。 「ヨレ眼鏡でも何でも良くはないけどさ。一応君は療養中の患者ってこと解ってる?」 溜め息を一つ吐き、例のずれかけた眼鏡を押し上げる。 「療養期間は一週間って言っといたけど、その内守ってくれた日なんて一日もないよねー」 紅は先の円鵠楼(えんこくろう)の一件で腹部を負傷している。 それを最初に診断し、療養を指示したのは久保井だ。 だが、その指示を紅は負傷後四日目にして一度も守っていなかった。 「命に別状がなかったとは言え腹掻っ捌かれてるのには変わりないの。君のその傷縫ったの誰か解ってますかー?紅ちゃーん」 「はいはい、縫合して下さったの久保井医務長殿ですね。 頼むからその気色悪いちゃん付けは止せ」 「だったら今度こそ療養してちょーだい」 「さっき琴さんから更に一週間強制療養言い渡された」 「あー椿君に見つかっちゃったわけね。つーか帰ってたの、椿君」 さらさらと黒い表紙の帳面に書き込みをしながら久保井は答えた。 「じゃあ療養は今日から一週間追加ね。まぁ椿君にも言われたと思うけど、無闇矢鱈と隊務はしないこと。基本は自宅待機、仕事は自宅での書類整理に留めておいて」 「はぁ?!」 思わぬ指示に紅は異議ありとばかりに勢い良く立ち上がった。 療養期間の一週間追加は椿に言われたことで、しかも医務官の指示を無視した為に罰則的な意味がある。 それは紅も承知しているので良いのだが、問題は自宅待機の方だ。 紅にとってそれは業務停止状態と言って良い。 宗璃王のことが明るみに出た今、この忙しい時期に家で休んでろと言われたらそれこそ死刑宣告と変わりない。 「久保井。忙しいこの時期に、副長の己に隊務をするなと言ってんのか?手前ぇ」 今にも掴みかかりそうな勢いで紅が捲くし立てる。 実戦に加われないのは理解しているがこの本部に残れないことは納得していないようだ。 しかし久保井は動じることなくまたずれた眼鏡を定位置に戻して口を開く。 「そんな急に立っちゃ駄目でしょー。 はいはいそうですよ、怪我人なんだし当たり前でしょ。それにこれはねー、いつも休まない君に休ませる味もあーるーの。こんな機会がなきゃ休まないでしょー?有給なんていくら余ってる?」 そう言って徐に立ち上がると、久保井は少し離れた場所にあった棚の引き出しを探り始める。 中から適当に包み紙と錠剤瓶を取り出しそのまま紅に手渡した。 「はい。痛み止めと抗炎症剤、それから一応解熱剤も出しとくね。これちゃんと飲んでちゃんと休むこと。自宅に帰って休むんだよ。屯所は駄目だからね。これ、医務官命令」 分かった?と顔を覗き込む久保井に紅は渋々頷いた。 将官に対してすら事実上執行力のある医務官からの命令なら仕方ない。 「稽古も駄目、怒鳴るのも駄目、不眠不休なんて以ての外だよ。無理は禁物。一週間は療養に専念しなさい。それからぁ」 「あーもういい、分かったから。大人しくする」 久保井が更に言い募る前に紅は渡された薬を掴むと手をひらひらと振りながら立ち上った。 「あんまり怪我しないでよ。女の子の肌縫うのって良い気しないんだから」 一瞥もせずに去ろうとする紅へ変わらぬ調子で久保井が言う。 その言葉に顔だけ振り返った紅は微かな苦笑いだけを久保井に寄越した。 久保井も紅を心配する古株の一人だ。 紅の性別について事実を知ったのは医務官としての成り行きだが、短くない付き合いはそれなりに情が湧く。 ふにゃりと擬態語がつきそうな弛んだ顔で久保井も笑った。 「取り敢えず、努力はしてみる」 「殊勝で結構。実行してくれれば尚嬉しいけどね。 あ、出る時掛札外しといて。面会謝絶にしたまんまだから」 「……面会謝絶って、己は重症者かよ」 「診療中に入られたら困るんだから仕方ないっしょ」 「それもそうだな」 肩に掛かったままの漆黒の隊服を羽織りその釦をきっちり止めると、紅は扉に手を掛けた。が、 「ユウちゃんいる?!」 紅が扉を開ける前に、突然現れた侵入者の第一声によってそのすべてが阻まれた。 【続】 |