二十、【朝問いは波瀾の相】 朝靄も晴れ、清々しい涼やかな空気に暖かみが増してきた頃。 早朝軍仕様の黒塗りの四輪車が黙々と走り抜けていった石畳の道路を、それから一時過ぎた時刻に今度は人力車が忙しなく通り過ぎていく。 かたり、かたり、と車輪が溝に嵌り込む音とその軸が軋む音を響かせ人力車は勢いをつけて進む。 「姐さん、本当にこの道で良いのかい?」 灰白色の石畳の道路を少しばかり真っ直ぐ行ったところで俥夫(しゃふ)は僅かに歩を緩め、後ろに座る客を顧みた。 振り返る年若い俥夫の顔は何処か不安げで落ち着きがない。 その様子も無理はない。 道路と言ってもここは既に軍の敷地。 一般市民がおいそれと入れる場所ではなく、勿論貴人のお抱えでもない俥(くるま)が入る場所でもない。 遊廓お抱え艶部屋の俥など論外だ。 例えそうだとしてもお忍びでもこんな人目のつく朝、しかも公の場に乗り付けることもないだろう。 この俥、遊廓からここまで来たのである。 「ええ、そのまま真っ直ぐ進んで頂戴」 俥夫の心配を余所に、問い掛けられた客の方は気にする様子もなくさも当たり前に軽く前を指差す。 客が言うのだから仕方がない、と俥夫はまた速度を上げ、がたがたと車輪を鳴らしながら走り出す。 まだ青々と茂る街路樹をやり過ごしながら進んでいた俥は、ようやく門番が待ち構える建物の入り口で止まった。 「ここでいいわ。ありがと」 蛇腹折りの日除けから軽く礼を言ってするりと客が降りてくる。 灰白の石畳に降り立ったのは妙齢の女であった。 肩を少しばかり過ぎる髪は朝日を透して金糸のように煌めく薄茶色。 手入れの行き届いているのが見て取れるそれを靡かせ軽やかに進み出る。 顔立ちは元からかはたまた化粧のせいか華やかであるが、格好は反してそう鮮やかでもない。 白いシャツに黒いベスト、色味があるのは胸元を飾る青いリボンタイだけ。 膝上の短いズボンとロングブーツの間から見える柔肌さえ除けば地味な部類だ。 色街の芸妓辺りが軍部の旦那(パトロン)に会いに来たのかと思えばそれにしては色気に欠ける。 一体ここへ何をしに来たのか。 詮索するのは商売柄頂けないが、俥夫は思わず怪訝そうにその女を見た。 その視線に気付いたのか女は振り返る。 「野暮なことはお互い言いっこなしよ」 艶笑と呼ぶに相応しい華麗な笑みを浮かべ俥夫に運賃よりも多めの紙幣を握らせると、そのまま門番が守りを固める門へと何の迷いもなく足を進めた。 止められるどころか門番に敬礼されながら、悠然と門の奥へと吸い込まれていく。 黒い鉄柵の門の先。 そこに聳えるのは帝都・西京の護りの要の一つ、洛叉監史本部・白鶯館。 白亜の洋館は難なく彼女を迎えた。 「女郎屋からご出勤とはいいご身分だな」 真っ直ぐ白鶯館へ突き進む女に真横から声が掛かる。 声のする方には男が一人。 外観と防犯を考慮した植木の隙間から、ゆるゆると眠たそうな黒目がちの眼を向け気怠げに女へ歩み寄る。 釦が開けられたシャツ一枚で欠伸をする姿は些か緊張感に欠けるが、それでも若い婦女子から持て囃される容貌が見て取れるなかなかの美丈夫だ。 場所が場所ならその笑みだけで世の女性を陥落できると言っても過言ではないだろう。 しかし、目の前の女はそれを意識するどころか不機嫌そうに眉をひそめた。 「仕方ないでしょ、家なんだから。そういうアンタこそシャツよれてるし、安っぽい香水の匂いがぷんぷんするわよ」 「そう?いや〜明け方まで離してくんなくてさ〜」 「お盛んだこと」 へらへらと笑う男に女の呆れたような溜め息が一つ漏れて一旦会話が途切れる。 女は会話で止まっていた足を進めまた白鶯館の館内へ歩き出した。それに続くように男も歩き始める。 「麗(ウララ)、お前車は?」 「まだ修理中」 「あ、だから俥屋がね。 あの車修理出来んの?銃創で蜂の巣じゃん」 「んー、厳しいかも。窓全部割れてたし。しばらく俥屋通いね」 「さっきの俥屋、あれ絶対お前のことどっかのお妾だと思ってるな。あの顔、相当疑ってたぞ」 「見れば分かるでしょ〜?朝っぱらから宿屋でもないのにこんな所わざわざ乗り付けてくる?それに会いに行くならそれなりの格好してくるってば」 「それはそれでそそるんじゃない?禁欲的で」 「アタシは嫌」 「オレも服はちょっと派手めが好きかな〜」 「瞬(シュン)は女なら何着ててもいいでしょ。どうせ脱がすんだから」 「そりゃ言い過ぎ。勿論据え膳は頂くけどさ〜」 いつものことなのか、明け透けな物言いで掛け合いをしながら二人は灰白の建物へ入っていく。 一度館内へ足を踏み入れると、二人を目にした隊史は一様に足を止め敬礼を施す。 当人達は一瞥し会釈をするくらいでそのまま足を止めずに靴音を鳴らしながら奥へと進む。 そこに呼び止める声が頭上から降ってきた。 「時任(トキトウ)さん、藤波(フジナミ)さん」 おはようございます、と続けながら正面の階段から降りてきたのは書記官・水崎鳴海。 小走りで駆け降りると、両脇に分厚い書類の束を抱えたまま綺麗に頭を下げた。 水崎が丁寧に挨拶するのだから先に入ってきたこの二人も勿論洛叉監史の一員である。 金髪にも近い薄茶色の髪に黄金色の眼をした女の名は藤波麗(フジナミ ウララ)。 洛叉監史第八分隊隊長の少佐だ。 麗の隣にいる金茶の髪に黒に近い緑の瞳の男の名は時任瞬弥(トキトウ シュンヤ)。 洛叉監史第九分隊隊長、階級は中佐に当たる。 二人とも凡そ軍人らしからぬ風体ではあるが歴とした佐官であり幹部階級に属する。 「おはよー鳴海くん。今日も忙しそうね〜」 「まぁ円鵠楼の一件があったばかりですからね。 あ、そう言えば先日請求書が出てた車の修理費の件なんですけど……あれ、通らないみたいです」 「うそ!?何で!?わざわざ休み返上で現場に急行して被疑者捕獲まで貢献したのに?!」 「修理ではなく買い換えになるそうなのでそこは自己負担して欲しい、と……」 「あははは、ご愁傷さま〜」 「それから時任さんも、先日出てた飲食代、経費じゃ落ちないですよ」 「えぇ?!あれは情報収集の為にやむを得ずかかった経費で!」 朝の爽やかな挨拶から一転、隊長二人から掴みかかられる形になった水崎は、怯える小動物のごとく肩を震わせ何とか動く範囲で腕を突っ張り逃げ出した。 「僕に言われても困ります!椿輔佐官が『納得いかない場合は直接私まで通して下さい』って仰ってましたからそちらに言って下さい!」 襲いかかるように水崎に詰め寄った二人だが、椿の名前が出た途端にぴったり動きが止まったと思えば、次の瞬間には互いに思い思いの格好で項垂(うなだ)れていた。 「ありえない。あの車いくらすると思ってんのよあの鉄仮面」 「お前は自業自得だろ〜。普通自分の車で銃撃戦の真っ只中に突っ込まねーよ」 「アンタに言われたくない。どーせ飲食代とかいって花代でしょ?公費で女の摘み食いなんてそれこそ不当請求だわ!」 「不当じゃないって!それなりに払わないと喋ってくれないのは麗の方がよく知ってるだろ〜?」 「でしたら直談判しては如何です?」 突然侵入した台詞に勢い良く麗と瞬弥が振り返る。 水崎もぱっと首を振り切った。 「お早う御座居ます。時任中佐、藤波少佐」 三つの視線の先には渦嶋がにこやかに佇んでいた。 本人に他意はないが、妙に迫力のある微笑みに麗と瞬弥は思わず口を噤む。 水崎だけが折り目正しく律儀に頭を下げた。 「談笑を楽しんでいるところ大変申し訳ないのですが、史長から各隊長に召集がかかっていますので早急にお上がり下さい」 「召集って、定例会議とは別に?」 「ええ。隊長だけの召集です」 「何なのかしら。……ったく折角外してきたのに」 不謹慎な麗の発言に渦嶋と水崎は苦笑いを浮かべる。 それから誰とはなしに移動が始まると瞬弥が話し出した。 「ねー渦嶋さん。史長に直接言ったら経費どうにかなんないかなー」 「さっきお話されていた件ですか?多分史長に話がいく前に椿輔佐に突き返されると思いますよ」 「……ですよ、ねぇ。オレあれを打ち負かす根性はねーわ」 「ああ、でも、可能性はないわけではありませんよ?」 口元の笑みを深めながら渦嶋は続ける。 「今日は“公爵様”がお越しになっていますから」 直々ね、と眼を細めて締め括った。 「公爵様がいらっしゃってるんですか?」 さも珍しいと言わんばかりに目を見開く水崎を横目に、瞬弥は渦嶋へ視線を戻すと会話を繋いだ。 「あの坊ちゃんが何の用だろ。 渦嶋さん、まさかその公爵様に直接言えって言うんじゃないっすよねー?」 「言ってみる価値はあるんじゃないですか?我々の支援者(パトロン)ですし」 「それ切腹してこいってのと同じでしょ」 「もしかしたら不敬罪に問われるかもしれませんね」 事も無げに言う渦嶋に瞬弥は盛大な溜め息を吐いて頭を仰け反らせた。 その姿をくすくすと笑ながら階段を登り始めた渦嶋を先頭に、瞬弥、麗そして水崎と続く。 「今日も一揉めありそう」 石材の階段を登りながら呟いた麗の独り言がその無機で硬質な館に吸い込まれた。 【了】 |