十七、【暁鶏、変調を告げる】 洛叉監史本部・白鶯館。 明け六つ過ぎて朝日射し込む灰白の廊下。 昼に近づく旭日は強さを増しながらも今だ柔らかい。 朝故の静けさに何処か浮き立つ慌ただしさが混じり、緩やかな金糸の光が溢れる中漆黒を装う軍人が四方入り乱れる。 連日事件が立て込んだせいか、朝の冷たい空気に胡乱(うろん)な倦惰と微睡みが伝う。 「おはよう!」 朝夕人の切れ間がない為に淀む空間を割って入り込む声が響いた。 続いて快活な靴音が硬質で律動的な歩調を生み出す。 カツカツと靴を鳴らし頼光輝一朗は滞る雰囲気を払拭しながら進んでいた。 頼光が歩けば自然と道が開き左右に人が掃ける。 爽やかな笑みを浮かべ挨拶をすれば、隊史は一様に緊張した面持ちの中に安堵の色を見せ会釈する。 頼光の歩いた後は風が吹き抜けるように空気が変わり道が出来ていた。 その頼光の後ろには二人。 やや斜め後ろに椿真琴輔佐官が控え、その更に後ろに渦嶋ヨキ秘書官が付き従う。 朝に行なわれる定例会議後見ることの出来る光景だ。 いつもなら頼光の横に夕美紅副史長がいるのだが、今朝から強制的に療養期間に入った為現在その位置には誰もいない。 三人は一定の速さを保ちながら縦長に進む。 「史長、和泉(イズミ)大佐が今日帰還の予定ですが報告はどうされますか?」 抱える書類の中から覚え書きを取出し渦嶋が内容を告げる。 「取り敢えず俺に顔見せるように言っといてくれないか。詳しい報告と資料は後でいい。 あーそれから真琴、兼定(カネサダ)が帰ってきたらその時に集められる奴だけで良いから各隊長に召集かけてくれ」 速度は変えず軽く振り返りながら頼光が答える。 その時、進む廊下の先に人影が躍り出た。 「史長!」 声を弾ませ真っすぐ呼び掛けながら脇から黒い隊服の女性が飛び出てきた。 腰まである癖のない艶やかな黒髪をなびかせ、少し息を乱し頼光に駆け寄る。 頼光より大分低い位置で僅かな動きで揺らめき光を映す黒髪が目に入った。 「おう、青女(オウメ)おはよう。急いでどうした?」 歩く足を止め頼光は駆け寄ってきた女性に笑いかけた。 彼女の名は相沢青女(アイザワ オウメ)。 精巧な人形のように整端で幼い顔立ち、良家の令嬢のように何処か気品ある華奢な風貌だが、これでも洛叉監史第六分隊隊長で少佐の地位にある軍人だ。 青女は律儀にお早よう御座居ます、と答えながら、少女といっても過言ない幼さの残る顔をほんの少し歪ませ、息を整える。 一呼吸置いたところで青女はすぐに顔を上げた。 「夕美副長が負傷なさったと聞きました。史長、あの、夕美副長のご容態は、」 口が動いていなければ良くも悪くも人形に例えられる容姿の青女だが、今は言葉に詰まるほど何か必死で頼光に縋るように問い掛けていた。 「あぁ……青女は明け方西京に帰ってきたから知らないんだったな。 紅なら大丈夫。怪我はしてるけどあと一週間くらいしたらちゃーんと帰ってくるから」 心配するな、と頼光は自分より小さな青女の頭に軽く手を置いた。 そこで青女は小さく息を吐く。 緊張して肩が強張っていたのか肩の線が幾分緩くなだらかになった。 「死んでなかったんだな」 突然割って入るように青女が走ってきた方向から声が響いた。 「……和泉大佐」 先より確実に低い声音で青女が呟く。 短く発せられた一言でありながら隠しきれない刺が見える。 明らかに良い雰囲気ではない。 青女は形の良い眉を潜め声の主を睨み付けた。 「兼定!お前帰ってたのか?!」 青女とは正反対に頼光は顔を綻ばせ声の主に声を掛けた。 「ああ、さっきな」 素っ気なく答えたのは頼光にも引けを取らない長身の男。 さらさらとした短めの黒髪から覗く黒曜石の眼は猛禽類の如く鋭く他を射抜く。 腕を組み憮然とした態度で男は歩み寄った。 「ご無事で何よりです、和泉大佐」 頼光のやや後方に構えたまま、紋切り型の挨拶で椿が出迎えた。 この眼光鋭い男の名は和泉兼定(イズミ カネサダ)。 第七分隊隊長を務める大佐で、常に冷然とした雰囲気を持ち、紅と椿に並ぶほど隊内では近寄りがたい存在である。 その鋭さと冷徹さを雪に例えられる紅と、氷に例えられる椿に対して、和泉は研ぎ澄まされた剣に例えられる。 言葉数が少ない故にそれは更に拍車がかかった。 「片付けた案件の報告がしたいんだが」 「あー悪い、兼定。それ後にしてくれないか。ちょっと野暮用に付き合ってほしいんだよ。青女もな」 皆まで言わず先に事を進めようとした和泉を頼光が別の用件で止める。 止められた和泉は少々怪訝な顔をし、言葉尻で話を振られる形になった青女も不思議そうに首を傾げた。 「一条の件で話がある」 頼光の一言で微弱だが空気が変わった。 緩慢な流れを帯びた空間に一筋切れ込みが入ったように。 「ヨキ、どっか適当に空いてる部屋用意してくれないか」 「分かりました」 「じゃあ決まったらそこに集まっといてくれ。 あぁ、お前ら飯食ってないだろ?ちゃんと食ってから来いよ」 いつものようににこやかに哄笑し、手をひらひらと振って頼光は歩き出した。 椿も半歩遅れて後に続き、渦嶋は二人とは別方向へ足早に去っていく。 和泉と青女もどちらともなく視線も交わさず互いに背を向け歩き去った。 四方に五人の隊史が去った後には、もうそこに熟れて爛れるような微睡みの時間は存在しなかった。 あるのは一握の緊迫感。 また別の時間をその空間は紡ぎ始めていた。 【了】 |