「これから先、あなたたちはさまざまなことを学んでいくでしょう」

桜の花びら舞い散るうららかな春。
心地いい声音に耳を傾けながら、桜色に染まる景色へ目を向ける。
ここへ来たときは雪降る白銀の世界だった。

ここがどこなのか。なぜ自分がここに居るのか。
両親はどこなのか。目の前の男は誰なのか。
わけがわからず、ここへ来たばかりのころは不安と恐怖に酷く怯え泣いていた。

「耳が痛ぇから…もう泣くな」

そんな私の隣には、白銀の毛をもつ赤目の『うさぎ』がいつもいた。
彼は私の頭をポンポン、と撫でて、泣き止むまで手を握っていてくれるのだ。

ぶっきらぼうで、そっけない言葉とは裏腹に暖かく優しい手。
手を握る。ただそれだけの行為が…――本当に嬉しかった。


麟子
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「今日という今日はもう容赦しないよ! 五ヶ月分の家賃、きっちり耳揃えて払いなっっ!!」

呼び鈴が数回。静かな室内にその音が響いたのとほぼ同時に怒声が上がる。
聞き慣れたその声と台詞に、名前は料理の手を止め苦笑いするしかない。

料理で濡れた手を拭き小走りに玄関へと向かう名前。
ガラス戸に映る人影に小さく笑みをこぼして開ければ、そこには予想どおり額に青筋を浮かべたお登勢の姿があった。

「おはよう、お登勢さん」
「銀時は居るかい?」
「それが、私が起きたときにはもう出かけた後だったわ」
「逃げやがったな、あの野郎…」

ピキッ。筋のキレる音とでもいおうか。
深く吸い込んだ煙草の煙を吐き出しながら眼を細めたお登勢に、「あ、銀時死ぬな」と同居人が辿るであろう末路に同情し名前は心の中で手を合わせる。

「銀時の分、私が先に立て替えようか」
「あんまりあの馬鹿を甘やかすんじゃないよ、ったく。仕事もろくにしないでどこほっつき歩いてるんだか」

「騒がせちまって悪かったね」と一言残し去って行くお登勢を見送って、名前の口から吐かれる大きなため息。
顔を上げると朝晴れの澄んだ青い空を鳥が心地よさそうに飛んでいた。


――『侍の国』。
この国がそう呼ばれたのは、今は昔の話。
20年前、突如宇宙から舞い降りた天人(あまんと)の台頭と廃刀令により、侍は衰退(すいたい)の一途を辿っていた。
かつて侍たちが仰ぎ、夢を馳せた江戸の空には異郷の船が飛び交い、肩で風を切り歩いていた街には異人がふんぞり返り歩く。

それがこの国の現在(いま)の姿。


「あっ、そろそろ出なきゃ」

朝食を終えてからしばらく。時計の針がさす時間に慌てて鞄を肩にかける名前。
ふと目にとまる『糖分』と書かれた掛け軸に、思わずクスッと笑ってしまうのはいつものこと。
ガスの元栓を閉め戸締りをしっかりと確認した。

「いってきます」

誰もいない室内へ向かって告げる言葉。
それでも名前は笑みを浮かべて戸を閉める。きっと「ただいま」をいうころには返事もあるだろう。

『眠らない町』かぶき町。
江戸で一番治安の悪い町と呼ばれるその一角で、名字名前は『万事屋』坂田銀時とともに暮らしていた。
住まいは万事屋事務所兼自宅の2K、風呂トイレ別。家賃は折半(せっぱん)で6万円。
自宅が職場である銀時とは違い、名前の職場は繁華街の片隅にある。

店の扉の鍵を開け、まず最初に名前が行うのはパソコンの電源を入れることだ。
スイッチとともにファンが回り出す音。複数の画面が次々と立ち上がった。

「今日までには納品させなきゃ」

荷物を足元へ置き、鞄から薄型のノートパソコンを取り出して椅子に座れば、これでこの店は就業開始である。
彼女の職業はフリーランスエンジニア。つまり個人事業主だ。

もともと頭の回転が早く、新しい知識を取り込むことに長けていた名前。
そこにカラクリなどの機械好きな趣味も相まってこの職業に就いた。
個人経営でありながら、個人から企業に至るまでさまざまな依頼を請け負っている彼女の主な仕事内容は、システム構築とそのプログラミング。
半日で終わるような簡単な依頼もあれば、一年以上も長期に渡る依頼もあった。
そして今日は依頼の納品日。
なんとしても今日中に終わらせなければ。そう意気込んで名前はパソコンへ向かう。

『時間』とは薄情なもので。
永遠に続けと願った日々は抱えた腕の中から呆気なくすり抜け、この街に住み始めてもう何年経っただろうか。
ここへ来たときは雪降る白銀の世界だった。

握った手は寒さに感覚を失い、逃げることに疲れた足はピクリとも動かない。
先の見えない不安と恐怖に押し潰されてしまいそうだった。
それでもこうして立ち続けていられたのは、隣で彼がいつも一緒にいてくれたおかげ。

手を、握りしめていてくれたおかげ。

「んーっ! 終わったぁ〜」

椅子の背もたれに身体を預けて腕をめいっぱい上に向けて伸ばす名前。
随分と集中していたのだろう。昼食も取らずに仕事を進め、気がつけば店の窓から夕日が見える時刻になっていた。

集中するとまわりが見えなくなるのは自分の悪い癖だ。
自身のことながら苦笑いしてしまう。
だが、そのお陰で納品に間に合ったと思えばまあ悪くはない。

後は検収結果を待って修正を。
先のスケジュールを確認して再度パソコンへ向かおうと名前が姿勢を正したとき、デスクに設置された店の電話が呼び鈴を上げた。



「お電話ありがとうございます、『発想製作所』です。――…え? 警察??」

その日、店の窓からのぞく夕日が地平線に沈もうとしていた。


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