まぁ、おかげでこうして今日まで五体満足で生き残れた。
つっても、生きるってーのは結構たいへんなもんで。気がつきゃこの身体は埃まみれの泥だらけ。
なんかもう色々面倒くせぇなと思ってたら、いつの間にか大切な宝ができちまった。
なによりも大切で、誰よりも守りたい。
俺たちの――
麟子
春は花が咲き、夏には川のせせらぎに蛍が集い、秋は月にススキの影が映り、冬には雪が深く積もる。
そんな人里離れた里山の外れに小さな家が一軒あり、そこに父と母、娘の三人家族が暮らしていた。
父は甲斐性がある男だった。
仕事で家を空けることは多かったが、いつも両手に抱えきれないほどの土産を持って「ただいま」と家の戸を開けた。
おおらかで、逞しく、強い父だった。
母は器量のいい女だった。
教養もあり、その幅広い知識から自身で煎じた薬をよく村へおり売っていた。
暖かで、美しく、優しい母だった。
娘は元気で活発な子供だった。
花を摘み、蛍に瞬き月を眺め、雪に足跡を残して日が暮れるまで外を駆け回っていた。
父のようにおおらかで、母のように美しい、可愛らしい娘だった。
「あっ! おとうちゃん!!」
夕日に染まる空にひぐらしの鳴き声。
家の傍らにある畑で娘が母の手伝いに野菜を収穫していると、橙色の視界に見覚えのある番傘が揺れた。
それに気づいた娘は勢いよく顔を上げ、持っていたかごを足元へ置いて走り出す。
「いい子にしてたか、名前!」
自分に向かって駆けてくる娘を抱きとめる父。
大きな瞳を輝かせながら、腕の中で満面の笑みを咲かせる娘の姿に溢れる愛おしさ。
その顔をよく見ようと傘の柄を肩で支えしゃがみこめば、娘の黒髪は記憶の中のそれよりも随分と伸びていた。
「おかえりなさい、あんた」
娘に少し遅れて聞こえた優しい声色。
その声に顔を上げると、そこには夕日を背に微笑む妻の姿。
「あぁ。ただいま、水蓮」
名を呼び「ただいま」といえば笑顔が返ってくる。
三人の暮らしはけして裕福なものではなかったが、それでもそこには確かに『幸せ』があった。笑顔の絶えない、暖かで幸せな家族があった。
――天人が現れるまでは。
「きゃあぁぁあぁ!!!」
「逃げろぉお!!」
怒声ともとれる悲鳴。
家屋に放たれた火は荒波のように炎をあげ闇夜を明るく照らす。
この地獄を誰が予測できただろうか。
穏やかな日常は無残にも奪われ、訪れるはずの未来には暗雲が立ち込めた。
「っ! そこを退けっっ!!!」
行く手を阻む敵を薙ぎ払い、飛び交う砲弾を避けて男は進む。
なにが起こっているのか。考えるよりも先に足が動いた。
妻が。娘が。
男の帰りを待つ家族が居る大切な家へ。
なによりも。誰よりも。
男が守りたい愛しい家族の元へ。
「――!!」
傷口から流れる血に赤く染まる服。
痛みに軋む身体を引きずりながら、それでもやっとの思いでたどり着いた男の帰る場所。
「っあ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙あ゙あ゙ぁあ゙!!!!」
その場所は、大きな炎に包まれ黒煙を吐き出していた。
…――歩みを進めるたびにサクサクと雪に沈む足元。止まない降雪に明日はあの子たちに雪かきでもしてもらおうか、と考えて口元に笑みが浮かんだ。
肩に乗った雪を気にもとめず、男は少ない食料を片手に傘もささず家路を辿る。
ふと、視界の先に門が見えたところで「おや?」と男の足が止まった。
「どこかで見たことのある傘かと思えば…」
目に留まったのは門の隅にうずくまる人影。
男の声にゆっくりと上げられたその顔は酷く憔悴していた。
動きに合わせて肩にかけた番傘から積もった雪が流れ落ちる。一体いつからここに居たのだろうか。
「お久しぶりですね、文昌」
「……」
文昌と呼ばれた彼は挨拶を返すわけでもなく、無言で立ち上がると男の目の前へ歩み寄った。
そこで男は初めて気づく。彼が大切そうに抱えた小さな命を。
「?? その子は?」
「俺の娘だ」
いつの間に所帯を持ったのだろう。
自分の娘だという意外な彼の言葉に男は瞬きを数回繰り返した。
見ると娘は寝ているか。瞼は閉じられ、可愛いらしい寝息が聴こえてくる。
父親に似た艶やかな黒髪を持つ娘だ。
「こいつは…名前は、俺と水蓮の大切な娘だ」
言ってその表情を苦しげに歪めた彼は今にも『壊れて』しまいそうだった。
けれど、その眼は間違いなく覚悟を決めた者のそれ。
徐に自分の娘を目の前に差し出した彼に男はすべてを悟る。
「こいつを守ってやってくれ。頼む…ッ、松陽――!!」
「……」
託された小さな命を腕に抱き、離れゆく背中を見送って男は思う。
きっとこの娘の父はもう戻ってこない。
「…寒いですね」
視界の隅で、花弁に雪を纏った椿の花がぼとりと静かに音を立て地へ落ちた。