▼page.2 ほんとに? もしかして私、アリスインワンダーランド的なファンタジー体験中? さしずめこの人はチェシャ猫か、ウサギか。 「ふっ、ふざけないで!! 勝手につれてきといて望みを叶えろだぁ? 人に頼みことをするときにはそれなりの態度をとるべきじゃないの!? お菓子の入った箱の底に帯つきのものが入っていたり、渡された封筒がやけに分厚かったり。せめて敬語を使いなさいよ敬語!」 間に入れた例えに偏りがあったことを深くお詫びいたします。私はテレビの見すぎです。 陳謝しつつ、しかし声を大にして言いたい。 「そんな事よりねぇっ、私はトイレに行きたいのよっ!」 「……ギャアギャアとうるさい奴だな。用を足したいならそのへんですりゃいいだろ」 くいっと、見事なお花畑を指差す。出来るか! そこまで女捨ててないわ!! 「面倒臭いな」 男は溜め息とともに私に近づいてきた。警戒して身構えた私の片腕をいとも簡単に掴むと、空いた方の手を横に弧を描くように振った。 パリン―― ガラスが割れるような音がした。耳が音を拾ったと同時に、何かの破片がパラパラと頭上を降り注ぐ。 透き通るような蒼、突き抜ける白。輝くそれらが綺麗だと思ったのは一瞬の事。 空を見上げて唖然とした。降ってくるガラスの欠片のようなそれは、剥がれ落ちた空の破片だった。欠損した空の向こうに広がるのは闇。ただただ何もない空間だった。 「きゃっ!」 足元がぐらついたかと思うと、今度は同じように地面も崩れ始めていた。 逃げようともがいても男に腕を拘束されたままでは動けない。もうお伽噺の中のような美しい光景は見る影もない。 どんどんと真っ暗闇が広がっていく。逃げる場所なんてなかった。 男を振り仰いだ。すると彼は私と視線が重なるのを待っていたかのようにジッとこちらを見ていた。 にやりと口元を歪めて、笑ったのだと思う。可笑しかったわけではないんだろうけど。 彼は掴んでいた私の腕を力いっぱい引いて、身体ごと引き寄せてきた。 「ちょ、なにす――」 抗議は途中で途切れた。ついに私達の立っていた所も崩壊し暗闇の中に落下したのだ。 ふわりと身体が宙に浮いたかと思ったら重力に引っ張られるように猛スピードで落ちていく。 「ぎゃああああっ」 「うるさい」 「だ、だって、だって!」 この状況ってロープなしのバンジージャンプ、パラシュートなしのスカイダイビングじゃない! さっきまで必死で離れようとしていたのに、今度は私から首に抱き着いて男に縋りついた。 怖いんだもの! ジェットコースターでは絶対に手すりから手を放せない派なんだよ私は。手を万歳させてる奴等の気がしれない。 さり気無く男が私の腰に腕を回してるのにちょっぴり安堵したのはこの際気付かなかったふりをする。 ていうかこれどこまで落下するの? 「ユリスの花嫁」 「な、なによ!?」 私はそんな名前じゃないわよって訂正する余裕もない。 「時間をやる」 耳元で囁くように喋る男の声に肩が跳ねた。 「理解しろ、お前が成すべき事。それまではあいつにでも庇護してもらえ」 「えっ!?」 くっつきそうな程近くで見た男の瞳は美しいガーネット。 そして突然。男は私を突き飛ばした。 完全に油断していたせいもあって首に回していた腕をあっさり解いてしまった私。もう一度彼にしがみつこうと伸ばした手は空振って。 どういう原理か落下スピードが遅くなった男を置いて一人でどんどん急降下していった。 「ふっざけんなコスプレ野郎ー!」 精一杯の罵声はちゃんと彼に届いただろうか。 どこまでも続くと思われていた暗闇は、何の前触れもなく途切れた。 さっきのお花畑の時同様、パッと瞬く間に景色が一変。暖かな日差しに包まれ雲一つない空模様が視界いっぱいに広がる。 空? 何気なく手を翳す。すると目には何も見えないのに手の平が何かに触れた。堅い透明な壁が私の周りを囲っていた。 何だろうと色んな方向をペタペタ触っていて、自然と視野に入ったもの。レンガや石でできた建物が並ぶ街が眼下に広がっていた。平屋の家が規則正しく連なっているところもあれば、大きな煙突からもうもうと煙を吐き出す屋敷、ひときわ高い、てっぺんに鐘がついた塔。 わぁ旅行番組で良く見るヨーロッパの古い町並みって感じ。なんて悠長な感想が浮かんだのは、コンマ一秒程度だ。 見る間に距離を縮めるオレンジや緑の屋根に恐怖が先行する。 「ぎゃあああっ! 死にたくないーっ!!」 そんな願いも虚しく、街の一角にある大きな建物に突っ込んだ。 咄嗟に身体を丸め両手で顔を覆う。綺麗なステンドグラスに体当たりして派手な音が鳴り響いた。 それでも勢いを失わず建物の下に落っこちて行った私。このまま床にも激突するんだろうな、でもこの壁があれば大丈夫かな、とか呑気に思った。 色々ありすぎて精神的にも体力的にも限界を超えていて朦朧としていたんだろう。 だけど実際にはそうならなかった。 この建物には人がいた。その人は大きく目を見開いて私を見上げ、受け止めるつもりなのか両手を差し出してきた。 その瞬間。 私を覆っていた透明な壁は泡のように掻き消え、身体がふわりと風に乗るように宙に浮いた。それもまた一瞬の事で、私はすとんと足から地面に着地した。 急に肩に荷物を追っているようなずっしり感に耐えられずによろめく。ああ、お帰り重力、ただいま二足歩行。 長時間落下し続けていたから分らなかったが、私の足は震えて産まれたての小鹿のようにガクブルしていて、腰も抜けてしまっているのか力が入らない。 前のめりになった身体を正面から受け止めてくれたのは、さっきも手を差し出してくれた人だった。 見上げた先には、綺麗な綺麗な朱金色の瞳。 それだけを確認して私は意識を手放した。 前 | 次 戻 |