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「嫌な予感がする…」
ギターのチューニングをしながら、葵はぼそりと呟く。
その声に、隣で同じようにベースのチューニングをしている彰人は頭を傾けながら、
「どった?兄ちゃんにプリンでも食われた?」
と、半ば冗談交じりで独り言の理由を問う。
葵はすぐさま「プリン今家に無い」と斜めな回答をするが、楽譜を読み込んでいた渚から、
「じゃあケーキ?」
なんて、双子ならではのコンビネーションでからかわれた。
甘党な事はバレているので問題は無いが、からかわれるとムッとする葵。
仕返しに、隣に座る彰人の額を指で弾いてやった。
「痛い!」と男子にしては少し高めの声で、喚かれると鬱憤が晴れたようですっきりする。
葵のデコピンは、腕力に比例せずとてつもなく痛いのだ。
じんじんと持続する痛みに悶えながら、彰人は渚の後ろへと逃げる。
双子とはいえ、彰人は兄だというのにどうにも渚を頼りにしてばかりなのだ。
見た目はそっくりな2人だけれど、中身は案外違っている。
「渚ー、葵が俺をいじめんだけど」
「マジうける、もっといじめてもらえば?」
なんて会話をするほどに、だ。
葵は相変わらずふざけまくる高平兄弟に呆れ、溜息を思い切り吐いた。
嫌いな訳ではないのだが、困ったところが多々ある。
ああ、早く竜一が来てバンドの練習をしたい!と願いながら、嫌な予感も忘れてチューニングを再開した。
その後、ようやく竜一が宿題を終わらせ3人と合流する。
文化祭まで日が無いのだ、早々に練習を進めて完成させなければならない。
もうすぐ大学の先輩達との打ち合わせや練習もあるので、気合も入れて。
自分達の大きな舞台に、不安と期待でいっぱいになりながら、彼らは夕方遅くまで練習に励んだ。
もうそろそろ秋になる。
衣替えはまだだけれど、日の沈みは夏から秋へと変化を遂げていた。
以前まではまだまだ昼のような時間が、今はすっかり夕焼け小焼け状態だ。
竜一のバスの時間もあるし、今日はここまでという事で解散する4人。
だらだらと靴を履き替えて裏門を通って帰ろうとすると、ふと葵はポケットに入れたものが無い事に気づく。
「あれ?家の鍵が…」
ごそごそとポケットを漁るが、それは一向に気配を見せない。
部室代わりの視聴覚室に置いてきたのだろうか、と戻ろうとしたが疲労感がその意識に勝ってしまう。
まあ、どうせ鞄の中に突っ込んだまま忘れたのだろう、と楽観視した。
その楽観視が、後の激しい後悔を生むこととなるとも知らずに。
「じゃあなー葵ー」
「おー、また明日」
一緒に下校した高平兄弟と別れ、葵は帰宅する。
玄関前に来て、いつものように鍵を出そうとポケットに手を突っ込むが無い事に気づいた。
そうだそうだ、鞄だった…とさも鞄にあるかのように中を漁るが、
(…あれ?どこだ…奥か?)
どこを探しても、荷物を全部取り出しても皮製のキーケースは一向に出てくる気配を見せない。
鞄をひっくり返しても、自分のポケットをもう一度漁ってみても、
(無い!無い!なーい!?何で!?どこ!?)
どこにもそれは無かった。
このまま玄関で待っていれば、拓也が帰宅する。
拓也の鍵で入ればいいのかもしれないが、鍵を無くしたと知られたら…両親にも兄にも叱られる始末だ。
更にキーケースには自宅の鍵だけではなく、自転車の鍵もロッカーの鍵も諸々収納してある。
無くしたとなればまた取り寄せないといけない、先生に相談しなければいけないという大惨事。
顔を青ざめさせて、その場にへたり込む葵。
叱られるのを覚悟で、拓也を待つか。
それとも、面倒くさいが今から学校に行って探すか。
ひたすら悩んだが、葵の選んだ選択肢は『学校で探す』というものだった。
生徒達が皆とっくに下校した時刻。
教師もそろそろ帰宅するであろう時間に、葵はこそこそと裏門から学校に侵入した。
なぜ裏門かというと、帰宅の最中に落としたかもしれないという可能性があるからだ。
帰るまでの自分の道のりに、きっと鍵は落ちている!と考えた結果。
誰かに拾われているという可能性を、葵はすっかり忘れているが故だ。
しかし、
視聴覚室も見渡したが、無い。
廊下も、2棟の玄関も見たが、無い。
今は、教室のある棟の玄関と2棟の間の通りをうろうろして探している。
ぼんやりと保健室を眺めていたことを思い出して、特に保健室周辺を探しまくった。
だが、薄暗くてあまり見えない。
(どこだよ…ここに無かったらもう…)
葵は立ち上がって次に探さなければならない所に視線を向ける。
そう、玄関から入って…残るは教室だ。
思い浮かぶは、薄暗い廊下に人のいない暗い教室。
その情景だけで、葵の背筋を凍らせ、ぞっと悪寒を走らせるのに十分だった。
(い、行きたくねぇ…)
けれど、鍵を見つけなければ悲惨な末路が見えてしまう。
葵はごくりと唾を飲み込むと、勇気を振り絞って恐る恐る玄関へ足を進めた。
そのとき、
「あ!そこのキミ!」
「ぎゃああああ!!」
突然、朗らかな女性に声をかけられ、ビクビクしていた葵は思わず叫んでしまった。
辺りに響き渡る青少年の叫び声に、声をかけた方もびっくりして「うぎゃあ!?」と声を上げてしまう。
保健室周辺に人がいなかったことが幸いして、他の先生方が駆けつけてこなかったことが幸いなほどに。
腰を抜かして尻餅をついてしまった葵は、恐る恐る声をかけられた方を見上げれば、
「あーびっくりした…君がいきなり叫ぶから…」
「か、神城…先生?」
保健室の窓から顔を出した神城が、呆れたように笑っていた。
眉尻を下げて、「私もでかい声出しちゃったよー」と明るく笑う神城に、葵はぽかんと口を開ける。
もっとおしとやかな人だと思っていたが、明るい女性だ。
やはり、鷹島一族は美人で明るい人が多いんだな、と葵は思いながら何とか腰を上げた。
「えと、何か用っすか?」
「ああ、そうだったそうだった。
そこで何か探してたからさ、これかなと思って」
神城が取り出したのは、まさしく葵の探していたキーケース。
一瞬にして神城が女神様に見えた葵は、ぱあっと表情を明るくして、
「それっす!!ありがとうございます先生!!」
手を広げながら神城の元へ駆け寄った。
まるで、砂漠のオアシスを発見したかのように喜ぶ葵。
しかしそんな葵を見て、神城はさすが養護教諭と言うべきかめざとく葵の腕に擦り傷を発見した。
「血出てるよ、これ受け取るついでに保健室おいで」
「あ、ほんとだ…」
にこ、と優しい笑みで言われて葵はちょっと心ときめいてしまう。
美人で保健室の先生、しかも優しいだなんて高校生男子にとって憧れそのもの。
距離が縮まったらどうしよう!だなんて、浮かれながら葵はスキップで保健室へと入っていったのだった。
神城の手当てを受けながら、葵はそわそわと足を動かす。
どうやら転んだ時に擦りむいたらしいので、土が付いていた箇所を洗い、消毒されている。
神城の綺麗な手が自分の腕をそっと支えているというだけで、葵は頬が緩みそうになった。
大き目の絆創膏を貼られて、手当ては完了。
ありがとうございますと律儀にお礼を言って、葵はキーケースをしっかと受け取った。
これで家族に叱られることも、事務室で鍵を再度受け取る必要も無くなったのだ。
葵がほっと安堵の息を吐いていると、神城が立ち上がって別の机からあるものを持って来た。
それは、保健室に来ましたという証拠の受付表のようなもの。
葵はうっかり忘れていたが、保健室に来て治療を受けたりベッドで休むと名前と「なぜ来たか」を書かされるのだ。
「私が呼んだけど…まあ、規則だから一応書いてね」
はい、と鉛筆も渡されたので葵はすらすらと名前と理由を書く。
因みに理由は「転んで怪我をした」というなんともドジの形跡である。
近いうちに友人が来てこれを発見しないことを祈りながら、葵はそれを神城に返却した。
用も済んだので、葵が帰ろうと荷物を持つと、受付表をマジマジと見ていた神城が、
「齋藤…これは、あおいって読むの?それとも、まもる?」
やはり、葵の名前に突っ込んできた。
今までどんな人に知り合っても、「葵?女の子みたい」と言われ続けて来た葵。
何度も名づけた両親を責めたりしたが、「あおい」と柔らかいイントネーションで呼ばれることは苦ではない。
だが、確実にそれは彼のコンプレックスになっているのだ。
「まもる…と思わせて実はあおいっスねー。
どうせなら、まもるにしときゃいいのに!」
でもあまり悲観はしたくない。
もう16年間「葵」で生きてきたので、気にしたくは無いのだ。
そんな葵の苦笑する顔を見ながら、神城はにっこり微笑んだ。
「齋藤くんはまもるよりあおいって感じだと思うよ。
いいじゃん、夏に生き生きしてる感じがあって!夏生まれ?」
「あ…俺、12月生まれです」
「ええ!?それは意外!夏かと思った!」
髪の毛金色に近いし!という、なんとも不思議な固定概念。
そんな不思議で気さくな神城に、思わず葵は噴出して笑ってしまった。
何だか一緒にいて楽しくなる先生だな、と。
最初のイメージとは大分違う神城に思わず挽かれた葵は、もうちょっと話をしようかと別の話題をしようとした。
そのとき、保健室の入り口がガラガラとやる気の無い音を立てて開く。
警備員の人だろうかと葵が振り向けば、そこには。
「おい千春…お前が飯奢れっつたから残ってンだぞ…さっさと終わらせろ…」
ぐったりとした表情を浮かべる鷹島が居た。
ああ、そっか。
神城先生の名前、千春って言ったっけ。
なんて、頭の中はひどく冷静であったのに葵はそこから表情も仕草も全て凍ってしまった。