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蛍が舞う。

優しく点滅する光は、ゆっくりと葵達から離れて行き、緩やかに流れる川を照らす。
聞こえないはずの羽の音が聞こえたのかもしれないと思える程、2人は静かに抱き合っていた。
どの位そうしていただろうか、いつの間にか鷹島の掌は葵の後頭部を優しく撫で始める。
そして、鷹島は葵の耳元で静かに唇を動かし始めた。


「…お前は、ずっと覚えてたのか」

葵の一途で、健気な心に鷹島は震える。
自分は忘れていたというのに、彼は貰ったウサギをこの10年間ずっとずっと大切にし続けていたのだ。
まだ子どもだというのに、長い時間ずっと名前も知らなかった自分を思ってくれていた。
徐々に、過去の記憶が鮮明になってゆく。
あの時の葵は、病気のせいで顔がむくんで顔色も悪かったけれど確かに面影はある。
ゆっくりと身体を離して、鷹島は今一度その顔を確認した。

暗闇でよく見えないけれど、そこには見知った生徒の顔。
あの時の「あお」の面影が少しだけある、成長した男子高校生の齋藤葵。

その顔は、頬が赤く染まり目が潤んでいて、少し切なそうに歪まれていた。
きっと、動揺しているのだろうと鷹島は悟る。
そして、過去の鷹島とはまるで違っていることに絶望したのだろうとも、勘ぐった。
そう思うと、鷹島の胸の中に重たい何かが通路を塞ぐように圧し掛かる。


「…鷹島先生、だったんだ…」

すると、ずっと押し黙っていた葵の口が開いた。
ぽろ、とあの日流した涙のように出てきた言葉はとても柔らかい。
ついでに「先生老けた?気づかなかったンだけど!」と余計なことも喋っているが。

老けてない、と言いながら鷹島が、もう一度葵の顔を見れば暗闇でも分かるその表情。
柔らかく、幸せそうにはにかんでいた。
口元がふにゃふにゃと緩み、目が極限まで細くなって眉尻が下がる。

そして、そっと鷹島の大きな手を掴むと、


「…あん時、言い忘れてたンだ…」

掠れた声で囁く。

自分はあの10年前、子どもながらに気丈に振舞っていたけれど、いつおかしくなるか分からなかった不安に襲われていたこと。
いや、子どもも大人も関係ない。
自分の身体が壊れていくかもしれない、蝕まれているかもしれないと思える恐怖でおかしくなることは。
それでも、「大丈夫」と言われれば信じるしかなかった。
大丈夫、だと言われるたびに、これ以上言わせないようにと必死に耐えていた。

けれど、あの日鷹島が自分の元に現れてから葵の世界は変わった。
自分が頑張らないといけない、と気張った精神を静かに壊してくれた。
それは、10年経った今も同じで。
彼の全ては、自分を安心させてくれる。自分を救ってくれる。


「…ありがとう…」


その言葉を聞いた瞬間、鷹島はたまらなくなって葵をもう一度優しく抱き寄せた。
ひゅっと驚きで葵の喉が鳴るも、鷹島は気にしている余裕も無くぎゅっと抱きしめる。
たまらなく、愛しかった。
あの時に感じた運命みたいなものに、今まで葵と接してきて溜めてきた何かが重なる。
その感情に一番近い言葉を見つけているのに、鷹島はまだ奥へ奥へと押し込んだ。

押し込めたまま、鷹島は目を伏せる。
そして、静かに口を開いた。


「…お前と離れてから、ずっと気になってはいたンだ。
まだ治療は終わらないのか、とか。こっちに戻ってくるのか、とか…。
色々気になってはいたんだけどな…
…お袋が死んでから、忘れちまった…お前の事」

ごめんな、と小さく謝った。
人の記憶と言うものは時に残酷に出来ている。
鷹島は、母親を亡くしてからツラいことを思い出したくなくて高校の時の記憶を曖昧にしていたのだ。
それだけではない。
10年も年月が経てば、学生時代にちょっと会った程度の人なんて忘れてしまう。
その事実を認めたくなくて、鷹島は無意識に母親を亡くしたせいだと思ってしまった。
相変わらず、人のせいにして痛みを和らげる自分がバカらしくて、鷹島はこの健気な身体を抱きしめる。

葵の気持ちに触れると、不思議と自分も素直になれる気がしたから。
そして、素直な気持ちを告げる。


「…生きていて、良かった」


あの命は、確かに今ここにあることを、喜ぶ。
その喜びは、葵の幸せになって葵の胸にじわっと染み広がった。
何だか泣きそうになって、葵はぐっと喉を鳴らす。震える唇を噛み締めて、何度も頷いた。
鷹島が、葵に生きていて欲しいと願うその気持ちが、どうにも期待を持たせてしまう。


(鷹島先生、ごめん…)

あの時のままの感情で、鷹島を受け入れたかった。
今は、感じたことの無い胸を締め付けるような、恋愛感情としての愛しさが溢れて止まらない。
それでも葵は、必死にその苦しさを我慢して何度も頷いた。


しばらくして、思い立ったように鷹島は葵を抱えて、すっくと立ち上がる。
急に横抱きにされて持ち上げられたため、葵は思わず「ぬわっ!?」と変な悲鳴を上げてしまった。
わたわたする葵がおかしくて、鷹島はくくくと喉を鳴らしながら、

「…裸足だろ、何か踏んだら危ないからな」

優しさを含んだ声色でそう言えば、車へと何事も無かったかのように進みだす。
その優しさは、今まで葵にくれたものではなく、「あお」にくれていたものだった。
嬉しいはずなのに、葵にはぞっと寒気が走った。
気持ち悪い訳ではない。このままだと、自分は永遠に彼の中で「あお」になるのだという危機感から。

昔はきっとそれで嬉しかっただろう、幸せだっただろう。
けれど、今は違う。
葵はリスクをも無視して、慌てて抗うように鷹島の首にしがみついた。

葵から抱きしめられ、鷹島は思わず歩みを止めてしまう。
ふわりと香る葵の香りに、つま先からずくりと欲望めいたものが広がった。
鷹島は必死に、昔の葵を思い出してこの欲望を打ち砕こうとする。彼にこういった思いを持ってはいけない!と。
その想いを、葵は何よりも望んでいるというのに。


「どうした?」

やっぱり高校生になってこれは嫌か、と鷹島は呟く。
葵はふるふると首を横に振って、搾り出すように掠れた声で別の答えを返した。


「…そのっ、昔の俺のことは、忘れたままでいいから…
嫌だとかじゃなくて!…今は違うっつーか、昔の俺みたいに接さないでっつか、その、おれ、おれは…」

プチパニックになってしまい、葵はぶるぶると震える。
想いを伝えてはならないけれど、どう説明したらいいかわからないのだ。
ぐるぐると目の前が回って、葵は気が遠くなりそうになる。
それでも、葵は何とか「今の自分を見てくれ」と伝えようとした。

情けない顔になっているかもしれないと思いながらも、視線で訴えようと顔を上げたそのとき。
いつから見ていたのだろう、鷹島の切れ長の瞳がじっと葵を食い入るように見つめていた。
葵は思わず、吸い込まれるようにその瞳を見つめているとゆっくりと暗闇の世界が広がる。



そっと、触れるか触れないか分からないかの柔らかく温かい感触。
驚いて息を呑んだ瞬間、鷹島の唇が葵の小さな唇に噛み付くように重なった。
ぴったりと重なった唇から伝わる体温や、微かに伝わる息。
全てが葵の全身を痺れさせ、気を遠くさせた。

とろん、と葵の目つきが変わり、そのまま瞼を落とす。
2人は時間も忘れて、唇を重ね続けた。

一度目のキスは事故で、二度目のキスは鷹島が無理やり欲望のまま貪ったもの。
そして、三度目の今。
このキスの名前は、付けられないものだった。

名前の付けられないそれを、2人はどちらともなくゆっくりと終える。
お互いの息が唇にかかる。それは先ほどのことは現実だったのだと言わんばかりに、温かかった。

葵は、混乱を通り越して呆ける。
どうして?とか、なんで?とか聞く事は山ほどあるのに何一つ出てこない。
そのことを言い事に、一足早く冷静になった鷹島は、また何事も無かったかのように歩き始めた。
先ほどと違い、ぎゅっと力強く葵の腕を掴みながら。


発車した車内は、先ほどよりも更に静かなものだった。
鷹島は無言で運転し、葵はドア側の硬い柱の部分に頭を預けてぼんやりと外を眺めるばかり。
お互いに会話は一切無く、ラジオのうるさい声だけが響いていた。
それでも、不思議と気まずさは無い。ただ、何も言う事が無かっただけだ。

しかし葵は、真っ暗な田舎道を見つめながらぐるぐると考える。


(…さっき、なんでキス…したンだ…?どういう意味だよ…)

きゅっと唇を噛み締めて、先ほどの感触を思い出すと胸がひどく痛んだ。
鷹島本人が、隣にいることで余計その痛みは甘さを含めて増す、増す。
ドキドキ、と胸の鼓動が早足を止めない。
葵は思わず胸の辺りの布をぎゅっと掴んで、思い切り目を閉じた。


(昔とは違うって意味?それとも…いや、だめだ期待とかすンな俺!キモいキモい!)


鷹島に対する期待と、自分の気持ちを裏切りたい別の期待が入り混じる。
そんな苦しみを今現在味わっている葵とは裏腹に、鷹島は何も考えずアクセルを踏みハンドルをきるばかりだった。

ようやく興津家に着くと、葵は慌てて助手席から飛び出すように降りる。
早く鷹島から離れないとどうにかなってしまいそうなのだ。
痛む足に無理やり下駄を履いて、急に歩き出したためかものすごく痛む足の裏。

それでも構わず、葵は玄関先に向かうと、運転席から降りてきた鷹島に向かって何度もぺこぺことおじきをする。
おじぎをする葵なんて、見た事がなかったので鷹島は目を丸くさせた。


「今日は、あざっした!じゃ、また2学期で!」

照れるとチャラける葵。
わざとらしく敬礼をして、そんなことを言ってみせた。
先ほどの口付けの意味を問いただせないまま、葵はべらべらと「今度は俺が奢ったりますよ〜」など軽い言葉を話す。
そんな葵に、鷹島は先ほどのことを気にしたくないのだとまた勘ぐり、言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
そして、代わりに葵に近づくと、軽いチョップを頭にお見舞いする。
いきなりの衝撃に、葵は思わず「いてっ!」と叫ぶと、


「ああ、また2学期な」


意地悪に笑った後、ひらひらと後ろ手で手を振ると車に乗り込み帰ってしまった。
黒のハードトップセダンは、改造してあるため帰りも排気音が少々やかましい。
その音が消えるまで、葵はじっと鷹島の帰る方向を見つめ続けたのだった。


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