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「じゃあ、無理すンなよ」
ちゃんと寝て治せ、と葵に告げながら鷹島は玄関を出る。
葵は「はい」と言いながら、玄関に放置されたつっかけを履いて、鷹島と一緒に玄関を出た。
別れの挨拶をしたのに、何故一緒に出てくるんだと鷹島は思いながら、怪訝そうに葵を見下ろす。
「だから寝てろっつったろうが!」
葵の身体を心配して、思わず声を荒げる。
優しく注意出来ないのは置いておいて。
葵の肩がびくり、と跳ねた。
「う…」
下唇を噛んで、立ち止まる。
一気にしゅんとなる葵に、鷹島はまたやってしまったと口の端を引きつらせた。
少しおろおろしながら、鷹島は
「いや…、お前病み上がりなンだから外出ンなよ」
また来週会えるかもしれねぇから、と自分なりにフォローを入れる。
しかし葵は口を噤んでしまった。
言い過ぎたか、と鷹島は唾を飲む。ただでさえ、自分と葵には変なわだかまり(犯し犯された負い目)があるというのに、これ以上。
だが、葵は心を痛めたから黙っているのではない。
もじもじと足を揺らしながら、ポケットに手を突っ込んだ。
そして、
「あ…その、…先生のアドレス知りたいな…なーンて」
ポケットから取り出したのは、いつの間に持ってきたのか携帯電話。
鷹島に少し言いにくくて、ついつい外まで着いてきてしまったのだ。
一方、予想外なことを言われた鷹島はただ目を丸くするばかり。
自分のクラスの生徒にパソコンのアドレス(連絡用)と、緊急連絡先(電話番号)は教えてあるが、他のクラスの生徒(しかも問題児)に「教えてくれ」と言われたのは初めてだ。
と言うよりは、葵がそんなものを知りたいと言う事実に驚き。
なぜ、犯した本人にそんなに懐くのだろうか。
鷹島は未だに葵の心意が全く分からない。
しかし特に拒否する必要も無いので、
「ああ…構わないが」
自分の携帯を取り出して、赤外線で送信するのかと聞いた。
すると、葵はぱあっと笑顔になり、
「じゃあ俺が先に送る!鷹島ちゃんは受信にしてなぁ」
上機嫌で半端な関西弁を話しながら、わくわくと自分の携帯を弄り始めた。
笑顔の葵は見ていて気分が良いものだ。しかも、いつものようにへらへらはしていない。
鷹島はそんな葵を見つめつつ、携帯のアドレスを交換した。
「うわ!鷹島ちゃんのアドレスひどい!」
「あ?初期設定じゃねぇだけいいだろうが」
「けど…個人情報丸出しじゃん…」
鷹島のアドレスは、@の前が
『akira.1010-takashima』分かりやすいことこの上ない。対する葵は、暗号を使っているので分かりにくいのだ。両極端のアドレス。
それがおかしくて、何だか2人で笑ってしまった。
「この1010って何?」
「俺の誕生日」
「え!体育の日じゃん!まんまだ!」
「うるせーな!いいだろが」
ぺしっと軽くデコピンをされる葵。
痛ぇーと言いながらもけらけら笑った。
鷹島とこうやって話せることが、葵は楽しくて仕方ない。
だから、あの日犯されたということがあっても、鷹島と仲良くしたい気持ちのほうが強い。
そのことを、鷹島は知らない。
だから思わず、
「…お前さ、何で俺の事避けねぇの?」
正直に聞いてしまった。
やっぱり鷹島は不思議で仕方ないのだ。
もし、嫌なのならば無理する必要は無い。
鷹島はやっぱり負い目が強くて、葵に思ったように接すことが出来ないから、逃げたいという弱みも若干あったりするのだが。
対する葵は、元々大きめの目をくりくりさせて鷹島を見つめる。
何だか、これ前にも聞かれたなと。
(…やっぱ、先生真面目だもんなぁ…)
葵はちょっと視線を下ろして考える。
やっぱりきっとまだ不安なのだろうな、と。
そして、今まで優しくしてくれたのはやっぱりあの事の負い目からくるものなのだろう、と。
ちょっと胸が苦しくなる。大事にされてる、と思うとあんなにも嬉しいのに。
ゆっくりと、葵は頭を横に振った。
「…大丈夫」
鷹島を見つめて、力なく笑った。
「鷹島先生と一緒に居たいし、」
楽しいから!と。
純粋な返答をされて、鷹島の心に何かが湧き上がる。
そう、それはさっき抱きしめた時と同じもの。
不思議だ、「一緒に居たい」という言葉がこんなに嬉しいだなんて。
今まで付き合ってきた女性に「一緒にいたいの!」と可愛いワガママを言われるより、なぜか嬉しいと思えた。
その温かい気持ちが、自然と唇を動かす。
「俺も、齋藤と居ると楽しい」
葵は一瞬驚きに満ちた顔をするが、直後にふにゃりと微笑む。
以前言われた「別に嫌ではない」という言葉より何百倍も嬉しかった。
何だか、認められているような気がして。
ふへへ、と笑う葵の顔をしばらくぼんやり見ていた鷹島だったが、はっと自分のした発言に気づく。
いくらそう思ってしまったとはいえ、この発言は贔屓にならないだろうか。
相変わらず、自分の感情と世間の体裁でぐらぐら揺れる鷹島。
葵はまだ社会に出たことが無いので、そういうことが分からないから素直に言えるのだ。
「ま、まぁ…来週までにちゃんと寝て治せよ。無理だったら連絡でもしろ」
「何時に行けば間に合う?」
「練習が始まるのは9時だ」
じゃあ、30分前に行こうと葵はしっかと決める。
マネージャー業務だし、臨時なので早めに行って聞いたほうが良いだろう。
葵は俄然やる気が出てきて、今日のご飯はいっぱい食べよう!と決めた。
「じゃあ」
鷹島はもう帰ろうと手を軽く振った。
葵も鷹島に笑顔で手を振る。
玄関の外まで見送るなんて、ちょっとおかしいかもしれないが最後まで見れて良かったなんて思ってみたり。
すると、鷹島が敷地から出ようとした瞬間。
「あら!?…拓也のお友達?」
タイミング良く、金茶の髪をした女性が現れた。
鷹島はぎょっとして思わず息を止める。
葵によく似た女性。まさか、と思う前に、
「うわ!母さん!また帰ってきたの!?」
玄関に居た葵が驚きの声をあげて、真相は掴めた。
鷹島は葵の母をじっと見ながら、何を言おうかと迷っていると、
「葵が心配でまた帰ってきちゃった!大丈夫、秋まで日本に居ても大丈夫だしー…あら?葵がそこに居るということは…」
拓也の車は見当たらないし、と葵の母親は純粋に不思議がって鷹島を見上げる。
随分と大きい…とひとりごちながら、男前な鷹島を興味津々でじろじろ見つめた。
さすがに、その視線がいたたまれなくなって、
「…えーと、葵君の高校の体育教師をしてます、鷹島です」
「葵の先生!?えー!こんなカッコイイ先生がいたの葵ー!もう、早く紹介してよねー!先生お茶でもどうですか!?」
鷹島は、葵の母親のあまりの強引さと明るさに身じろぐ。
葵も玄関から顔を怒りで真っ赤にして、
「母さんー!止めろよー!先生今から帰るンだから!」
心の中で葵君って呼ばれた…!となぜか浮かれながら、母親に止めろと訴える。
しかし、そんな可愛い反抗など母親は諸共せず、
「いいじゃない!葵を心配してわざわざ来てくれたンでしょう?お礼しなくちゃー!」
「いや、そんないいですよ、俺が勝手に来たので」
しかし、鷹島はこれ以上気を使われても困るので、逃げるように「また今度」と行って車へとそそくさ行ってしまった。
母はちょっと寂しそうに「またいらしてくださいー」と鷹島に手を振って見送る。
親子揃って元気なンだな、と鷹島は何となく葵の性格のルーツを知れて面白かったり。
まだ手を振る葵と葵の母親に一度軽く会釈をして、鷹島は車に乗り帰宅してしまった。
「父さんに負けず劣らずいい男だわー。葵の担任なの?」
「え?いや…隣のクラスの…」
「えー!?それなのに来てくれたの?葵ったら母さんの居ない間にイケメンをたぶらかすように…」
葵の身体を心配しつつも、明るくカラカラ笑いながら久しぶりの自宅へとスキップで入る母。
彼女の明るさは、葵や拓也より群を抜いて明るいのだ。
葵は母の後を歩きながら、
「たぶらかしてねーよ!そういうンじゃないしっ」
母の冗談にムキになった。
「あら?母さんは同性交遊だろうと、歳の差恋愛だろうと構わないのよ?」
だから面白くて、母は冗談でからかうのだが。
「海外生活の価値観を俺に押し付けないでー!」
「そうねー、母さんはまだしも父さんが聞いたら…」
「絶対、言うなよ!?」
母は比較的寛容なのだが、対する父の性格は間逆で、厳しいのだ。
しかも、葵をとんと可愛がっている。
もし、鷹島との秘密がバレたりなどしたら、鷹島はもう二度と明るい空の下で自由に出来ないであろう。
葵はぞっと身震いして、鷹島は自分の見舞いに来ただけだということを、一生懸命説明することになった。
しばらくして、拓也が帰ってきた頃にはようやく母も納得する。
「優しい先生ねぇ」
にこにこしている母とは対照的に、キッチンで料理をしている拓也は鬼のような形相で、
「でも!葵が熱失神になったのはあの先生じゃないか」
未だに根に持っているらしく、突っかかってきた。
拓也にとって、葵に近寄るイケメンは断固排除したいらしい。とんだブラコンだ、相変わらず。
しかし母は、葵の頭を撫で繰り回しながら、
「それはもう仕方の無いことでしょー?しっかり反省したみたいだし…葵もちゃんと自分の健康状態を把握しなさいね?」
「はーい…。母さん、俺ガキじゃねぇンだから撫でンなよ…」
「葵はいくつになっても可愛いわねぇ」
この歳で、母親に可愛いと言われても嬉しいどころか苛立ちが沸く葵。
むぅ、と口を尖らせながら、臨時マネージャーのことは母にだけ言おうと決めた。
きっと、拓也に言ったら家から出してもらえなくなるからだ。
はぁ、と溜息を吐いてソファーにごろんと横になる。
家族が揃うのは嬉しいけれど、大きな隠し事が出来ると何だかいたたまれないものだ。
けれど、さっき鷹島から聞いた言葉を思い出すと一気に気持ちは高揚する。
(…楽しい、かぁ…)
夏休みが始まる前に、何度かトイレ掃除を一緒にしたり、怒られたり、一緒に昼を過ごしたり。
始まってからも、鷹島と一緒に過ごす日はきっと多くなったであろう。
そのことが、無意識な葵を徐々に気づかせてゆく。
けれどまだ、葵は子どもだからそれが「一緒に居て楽しい先生」としか認識できない。
夏の日の夕方。
冷やし中華の氷を容器にカラカラと入れる音。
少し開けた窓から吹く風が、最近取り付けた風鈴を鳴らす。
母と兄の会話を聞きながら、葵はソファーに寝転がりながら、ぼんやり夕方のニュースを眺めた。
来週は、陸上部の臨時マネージャー。ついでにバイト。
そして再来週の初めはみんなで海に行って、お盆には母の実家に家族総出で帰る。
そのためにも、頑張って元気になろう。
今日の冷やし中華はたくさん食べることにした。