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日は遡り、昨日の夜。
祐樹の帰りが遅いことに心配した祖父母が、雄太の家かバイト先のホームセンターに電話をかけようとした時、玄関の引き戸が力無くガラガラと音を立てた。
慌てて玄関に向かえば、ぐっしょり濡れて今にも消えてしまいそうな顔をした祐樹が膝を付き、呆然としていた。
一体何があったのか、どうしてそんなに悲しい顔をしているのか。
祖父母には分からないが、とにかく体を拭いて風呂に入るよう促す。
やっぱり、叱れることなど出来ず、ただただ心配して「どうしたの?」と問うばかり。
しかし、祐樹は風呂から上がっても何一つ返答を返さず、静かに首を横に振るばかりだった。
久しぶりに見てしまった、泣きそうな顔。
眉間に皺を寄せ、口元を小さく歪めている。
その表情は、昔祐樹の母であり彼らの娘である祐美が結婚を反対されたときのひどく苦しそうな顔にそっくりだった。
そして翌日、雨に長時間濡れて冷え切った体はその反動か対価か、ひどい高熱にうなされてしまった。
「祐樹、アルバイト休むこと連絡しといたからね。…大丈夫?リンゴ食べる?」
祖母が付きっ切りで看病する。
結局学校もバイトも休み、自宅療養。
高熱に浮かされる思考を何とか整えながら、祐樹は「大丈夫」と小さな声で告げた。
祖母は更に心配を重ね、祐樹の額でぬるくなった冷えピタシートを取り替える。
昔から彼は、心配をされることを恐れて何でも「大丈夫」と返すのだ。
そんな孫に、無理やり「大丈夫じゃないだろう、無理しないで甘えなさい」なんてことは、
言えなかった。
未だ、わだかまる罪悪感が彼ら祖父母をそうさせない。もし、自分達が祐美達の結婚を許していたら、祐樹はひとりぼっちで考え込むという悲しい状態にならずに済んだのだろう。
これは、罪だ。
罰によって終わらないもの。
祐樹が「気づ」かない限り永遠に。
祖母は緩みそうになる涙腺を押さえ、祐樹の睡眠を妨害しないように静かに部屋を出た。
閉めた襖の奥からは、未だ苦しそうに呼吸を続ける祐樹の呼吸音が薄っすら聞こえる。
もう一度襖を開けて、祐樹の様子を見ようとした瞬間電話が鳴り響いた。
黒電話の呼び出し音がけたたましく受話器を取れと怒るように何度も鳴る。
慌てて祖母は電話を取りに、弱った足を早ませて向かう。友人か誰かだろうか、と思いながら取れば、それは意外な人物だった。
いつのまにか眠りについた祐樹。
混沌とした空間を、夢で見ていた。
色んな声が、聞こえる。
それは時系列もバラバラにし、暗闇の中で声だけを響かせて非常に気持ちの悪いものだった。
自分に事情を説明する祖父母の苦しい声。
父のことを聞けば俯きすすり泣く母の声。
周りの大人や子どもに情の無い言葉を言われ落ち込む自分を必死に慰める航や雄太の声。
暗闇の中で祐樹は必死にその声に答える。
大丈夫、大丈夫だと。
そう言いながら何とか1人になれる場所を探し、必死に走っていた。そのとき、
…あの雨の日、西條に言われた言葉。
どっと冷たい汗が湧く。
夢の中だと気づかずに、祐樹はひたすら耳を塞いだ。
言わなければならない言葉があるはずなのに、声は枯れて喉もつぶれたように何も出てこない。
言わなければ、永遠に西條が自分から離れていく気がする。
その事実に、なぜか涙が出そうになった、瞬間。
冷たくて心地よい何かが祐樹の瞼と額を包んだ。
暑かったのだろうか、そのひんやりとした何かがひどく心地よい。
すると、先ほどまで響いていた声はぴたりと止み、何故か安堵と楽しい思い出ばかりが蘇って来る。
徐々に覚醒していく意識を惜しいと思えるほど、心地よかった。
(…?あれ、冷たい…?)
夢が醒めたはずなのに、リアルに額と瞼には冷たい何かが覆われていた。おかげで目が開けられない。
冷たいものは徐々に熱を含んでいき、少しぬるくなってゆく。
冷えたタオルでも乗せられたのだろうか、と思ってどかそうと祐樹は布団の中から手を出した。
瞬間、ぐっとそれに力が入る。
無機物でない、と気づかせるその力に祐樹は心底驚いて動きを止めた。
よくよく神経を研ぎ澄ませればそれは人の手だということに気づく。
指のひとつひとつが若干ながら揺れていた。
祖父か祖母が手を当ててくれたのだろうか。
しかし言葉がいつまでも降りてこない。
それでも、その手はとても心地よかった。
縋りたくなるような掌、誰だろうか。
「…、 寝ていろ」
低い声が小さくそう命令した。
それは「目を開けるな」という意。
祐樹の体が大げさに揺れる。
ありえなかった、その声が聞こえることは。
そして今更気づく。やんわりと薫るは太陽の香り。
祐樹がその事実に動揺し動けずにいると、ゆっくりとその手は離れ人の動く音が聞こえたかと思えば、いつの間にか気配が消えていた。
襖の閉まる音がする。
祐樹はばっと目を開け、襖の方向を見た。
閉まる直前に見えたのは、彼がいつも着ている碧のジャンパー。
(… 夢、?)
ぶるぶると体が震えた。
悪寒に似たようなその刺激は、背筋を一直線に駆け上り、熱を上げる。
くらくらとする頭を何とか意思で支え、祐樹は何とか体を起こした。
ふと、横を見ればコンビニの袋が置いてある。
一体なんだろうと思い、中を見ればそこにはゼリーやらアイスやら清涼飲料水など風邪に欠かせないものが沢山入っていた。
祖父母は、コンビニに行かない。
よってこれを置いて、先ほどずっと祐樹の額に手を乗せていた人物は、揺ぎ無く彼だ。
(… 西條さん…!)
再度触れる西條の優しさが怖くなった。
突き放されたはずなのに、何故?
どうして優しくしてくれるんだ?
その疑問がぐるぐると祐樹を苦しめる末に行き着いたのは、純粋に嬉しいと思う心。
その嬉しさに気づいた瞬間、自分の愚かさに祐樹はまた嘆き、貰ったゼリーやアイスに口もつけずまた布団に丸まった。