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住み慣れた家に、戻ってきたのはもう夕刻などとっくに過ぎた頃。
祐樹の家の前に車を止め、西條は「着いたぞ」と告げ降りることを促した。
祐樹はそれに従順に応じ、静かに後部座席から外へと出てゆく。
冬の冷たさに震えながら。
吐く息は目にはっきりと映るほどに白い。
ふと、祐樹は西條が再びアクセルを踏む前に、駆け足で運転席側に向かった。
その気配に気づき、西條は不思議そうにガラス越しに彼を見やる。
パワーウィンドウを下ろそうと思ったが、祐樹が頭を横に振ったのでそのままでいいとのことだろう。西條はガラス越しに祐樹の顔を、見つめた。
今まで見たことの無い、柔らかい笑顔。
寒さのせいか、分からないが頬が赤く染まり。
寒さに白くなった唇が、動いた。
ありがとう
そう、確かに。
西條が目を丸くしている間に、祐樹はまるで消えてゆくかのようにいつの間にか自宅へと帰っていってしまった。
エンジン音と、ラジオのBGMだけが響く車内。
西條は、彼が消えていった家の玄関を見つめながら、ふと自身の唇に指を置く。
(あいつに同情したのか、慰めたのか、)
(あいつを、引き込もうとしてンのか、俺は)
(それとも、)
混乱し始める思考を振り切り、西條は自宅の布団で久しぶりに眠るためにアクセルを踏む。
何かに気づいてはいるが、西條はそれに気づきたくなかった。気づいたら、大切なことを忘れそうな気がするから。
フロントガラスに広がる世界は、昨日よりも綺麗な夜空を映していた。
祐樹が自宅に帰ると、一目散に祖父母が心配そうな顔をして迎えてくれた。
今まで黙っていてごめんね、と祖母が謝る。
大丈夫だったか、と祖父が心配する。
祐樹はそんな2人を見上げながら、その皺くちゃの2人の手を握り締めて、告げた。
「大丈夫だよ、嬉しかった」
屈託の無い笑顔を向けて。
その笑顔に、祖父母も嬉しそうな顔をしながら泣きそうになる。今まで、大丈夫だよという彼の言葉は何度だって聞いた。それが虚勢だということも知って。
けれどこの「大丈夫」は、本当に心からのもの。
祖父母は、長年の鎖が解けたかのようにいつの間にか大きくなった祐樹の手を力強く握り返した。
1日ぶりの風呂に入り、茶の間で祐樹がぼんやりとテレビを見ていると、隣に祖父が座り嬉しそうに話しかける。
「最初、西條さんに気づかれた時は驚いたよ」
「何が?」
「お前の父親が、あの町で暮らしてその上祐樹の学費を送ってることだ」
黙っていて悪かった、と付け加えてそう告げる。
祐樹は、西條が気づいたことよりも父が学費を送っていたことに心底驚いた。
まだ祖父が働いているとはいえ、自分の学費までは賄えない。むしろ、自分を大学に行かせるために貯めていると聞いたのだ。同時に出せる訳が無い。
なんだか、色々な人に迷惑をかけているな、と祐樹は項垂れる。
その後頭部に、祖父の手のひらが柔らかく乗った。
くしゃくしゃと頭を撫でられながら、
「お前の父親も、西條さんも迷惑だなんて思ってないよ」
そうでなければ、こんなことはしない。
優しく、告げた。
そして、
「しかし、西條さんは本当いい男だなぁ!
今度お礼をしたいから暇なときにでも家に来て欲しいなぁ」
朗らかに笑ってそんなことを言った。
「えっ、いや、それはちょっと…」
祐樹はしどろもどろに答える。
確かにお礼はしてもしきれないが、また家に来られては心臓の休まる場所が無い。
祐樹の中で、西條が怖い認識はまだ残っているからだった。
「彼は独りもんだろう?彼女が居るなら仕方ないが…大勢のほうがご飯はうまいじゃないか」
祖父の何気ない言葉で、祐樹はふと気づいた。
(…西條さん、 1人なんだ)
自分は、今は離れ離れでも、西條のおかげでまた家族揃って笑い合える日が保障されている。
たとえ母が父を拒んでも、自分が何とかできる自信がある。
だって生きているから。
けれど、彼にはどうしようもできない。
友人や仲間が沢山居たとしても、やっぱり1人なのだ。
自分に出来ること。
そのことに、祐樹は薄っすらと気づき始めていた。