どうにも頭がぼんやりしていけない。
ひとりきりの家に居てもする事が無く、
正しくはしなければいけない事が何も手に着かず、
仕方が無いのでいつもより随分早くに家を出た。
ふと、もしかしたら店の鍵がまだ開いていんじゃないかと気付いたのは既に51階行きのエレベーターに乗り込んだ後で、
しかし幸いな事に鍵はいつも通りに開いていた。
静まりかえったフロアの座り心地の良いソファで、一眠りしようかとあくびをひとつする。


「あれ? 誰か居る?」


控え室の方から聞き慣れた声がして振り向いたら、
童顔の彼は、あぁ雲雀さんか、と破顔した。


「沢田綱吉。こんな時間になにしてるの」

「それはこっちのせりふですよ」


沢田はこのホテルのオーナーの息子で、
18歳という若さでこのジャズバーを父から任されている。
中学の後輩で、僕にこの仕事を紹介した張本人だ。
事実上現在は彼のが上司になるのだが、
彼は学生時代から変わらない、丁寧な敬語で話しかけてくる。


「雲雀さん、なにか悩みでもあるんですか?」

「…なんで?」


突然、普段の朗らかな彼からは想像もつかない真剣な顔をしたので、どきりとした。
妙に鋭い奴だと思う。
しかしそう思った瞬間に、眉を下げていつも通りの顔に戻る。
どうも掴みどころが無い。


「だって遅刻魔の雲雀さんが、開店より3時間も前に来てるだなんて。獄寺君びっくりしますよ」


人の良い笑顔だ。
少々気の弱い男だが、周囲の人間を不思議と惹き付けるなにかがある。
きっとそれに僕も例外無く惹かれてるんだろう。


「ねぇ、」

「なんですか」

「僕は悩んでいるのかな」


笑うか呆れるかすると踏んでいたが、
沢田は唸ると至極困ったと言った顔で考え込んだ。
適当に突っぱねたりしないのに、
本当に優しい、悪く言えば甘い男なのだと再認識させられる。


「悩んでるんですか?」

「わかんない」

「じゃあ悩んでるんですよ」

「そうなの、」


そうですよ、と沢田は屈託無く言った。
ねぇ、とまた話し掛けると、なんですか、とまた応えた。


「あのイタリア人の団体、」

「あぁ、ディーノさんたちですか」

「知ってるの?」

「えーっと、知り合いの知り合いっていうか。何回か会った事あるんです。優しい人ですよね」


優しい人は知り合ったばかりの人間にいきなりキスしてきたりするものなんだろうか。


「…愛に溢れてるって事?」

「愛? あぁ、まぁそうかも知れませんね。イタリアの人だし」


沢田は笑うがそんなわけが無い。馬鹿げている。
そもそも僕は昨日から、なんでこうもあの人の事ばかり考えているのだろうか。
まったくもって馬鹿げている。




「恭弥!」


控え室に戻って、とりあえず荷物を取りに行こうかと悩む暇も無く、
あなたは防音の分厚い扉から慌ただしく飛び出してきた。
あなたが追いかけてくるか、五分五分といったところだった。
さっきまで頑なに視線を反らされ続けたから、一分九分になったところだった。だから意外だった。
あなたは一分の割にはやたら真面目な顔をしている。


「恭弥、悪かった」


こっちは感心しているところだったのに唐突に謝られて少し混乱した。


「なにが」

「昨日、いきなりあんな変な事して」

「あぁ、」


つまりあのキスは悪い事だったと言っている。
ほら見ろ沢田、やっぱり愛に溢れてなんかいないよ、この人は。


「謝るならしなきゃ良いのに」

「…悪ぃ」

「初めてだったんだよ」

「え、」


あなたはぎょっと顔を上げた。
どうかしたんだろうかと思ったけど構わず続ける。


「あんなに人と話したのは、初めてだった」

「あ、あぁ、そっちか」


なにかややこしい言い方をしてしまったんだろうかと気付いた。
これもよく獄寺に叱られる事だった。


「それから人と一緒に居るのに、あんなに気分が落ち着いたのも、初めてだった」


あなたはぱちりと瞬きをした。
やっぱり26歳にはどうも見えない。


「ねぇ、」

「なん、だよ」


じり、とにじり寄ると同じだけあなたは後ずさった。
壁まで追いやる。皮肉にも昨夜と同じ柱のくぼみにあなたを追いつめた。
緊張を滲ませたあなたの両頬を掴んで、
一瞬悩んでから、意を決して唇に噛みついた。


「……!?」


目を見張るあなたにぐいぐいと唇を押しつける。
しかし優勢だったのは最初の内だけで、
閉じられていたあなたの薄い唇から赤い舌が現れると、
もう僕はされるがままになっていた。


「ん、…ふ、」

「……は」


されるがままでは悔しいのであなたを真似て舌を差し出してみる。
くちゅくちゅと音を立てて、なんて行儀が悪いんだと思った。
それでどんどん気分が高まっている僕も悪い子なのだろうかとも思った。
でも大丈夫。この人はきっともっと悪い人だ。


「…はぁ、……ねぇ、」

「…なんだよ、」


かつて無い程目と鼻の先に居るあなたを射止めるつもりで見つめた。
あなたは後ろめたそうに、それでも真っ向から見返してくる。
煽られた気分では、もう1回くらい意を決するくらい容易かった。


「僕を抱いてよ」


今度こそあなたは目を見張った。それはもうこれでもかと見張り切っていた。
なんとも間抜けな顔だった。
まったくもって、馬鹿げている。









111209.  |



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