翌日が今回の来日の最重要目的で、 俺は数人の部下を連れ立って、あの52階建てに負けるとも劣らない豪奢なホテルの一室で、 自国での商売をこの国でも展開する為にとにかく礼儀正しく、 しかし自社の良さと提携後のメリット、そして情熱だけはこれでもかとアピールした。 テーブルを挟んで向こう側に居た取引相手の表情から、 決して悪い方には転ばない確信はあった。 しかし俺はどうにも心のどこかが晴れず、 考えれば考える程全面的に俺が悪いのだが、 昨日俺の日本語を誉めてくれた白と黒の彼の事をもやもやと気にしたまま、 深々とお辞儀をして、真紅の絨毯の部屋を後にした。 「なんだよボス、辛気臭ぇ顔して」 ロマーリオが日本の観光雑誌片手に、ソファで沈んでいる俺に話し掛けてきた。 「帰ってきてからずっとその調子じゃねぇか。商談だって上手い事行きそうだし、なにがそんなに不満なんだよ?」 「別に不満があるんじゃねぇよ」 「じゃあなにかい、好きな女に振られでもしたのか?」 そりゃねぇか、と快活に笑ってのけるロマーリオに、 心臓がどきりとした。 違う。好きな男に振られたんだ。いやこれも違う気がするが。 とにかく慌てて、そんなわけあるかと否定する。 「お、そろそろ時間だ」 「なんのだよ」 「イワンたちと昨日のバーに行く約束してたんだよ。ボスも連れてこいってさ」 「おっ俺も行くのか!?」 今度こそ心臓が跳ねた。 なんだよそんな驚く事かとロマーリオは呆れた。 「昨日お前さん、誰と飲んでたのか知らねぇけど急に居なくなっちまって。まったくあいつら、ボスはどこだって騒いで大変だったんだぜ」 「そう、だったのか」 「あいつらもなんだかんだ、ボスに構って欲しいんだよ。ちょっとぐれぇ遊んでやってくれよ」 ロマーリオが眼鏡の向こうで目を細めた。 しかし、あのバーに行くとなると、そこにはもちろん恭弥も居るだろう。 あんな事をしでかして、会わせる顔などあるはずがない。 19と言えどまだまだ子供だ、 知り合ったばかりのイタリア人に突然あんな事をされて、きっと怖い思いをしたに違いない。 悲しいくらい、嫌われた自信があった。 「どうしたボス、具合でも悪いのか?」 「あ、いや、」 心配げに見てくる右腕に、申し訳無くなってくる。 お前の慕ってくれているボスは7つも下の子供に手を出して、 当然拒まれて、それでへこんでる様な奴だなんて、あんまりにも可哀想だ。 「わかった、行くよ」 「お? おう、無茶はすんなよ」 こんな俺を気遣ってくれる彼に、情けない反面素直に嬉しくなる。 今日はこいつらと一緒に居よう、 昨日の様に、ステージから降りてバックヤードを通る彼に会わないようにすれば良い。 謝罪はもう少し時間を置いてからにしよう、 きっと今は俺の顔なんて見たくもないだろうから。 そう思うと急に心が冷えていく気がした。 それくらいに俺は、恭弥に嫌われる事を恐れていた。 昨日よりも客の増えた店内は、俺たちが入る頃には随分活気があった。 ジャズバンドは今まさに演奏の真っ只中で、 もしかしたら恭弥はオーナーに俺との事を言って休みを取っているかも知れないという予想は、 スピーカーで楽器たちに負けないよう拡大されたその声に打ち砕かれた。 それは間違いなく恭弥の声で、ちらりと視線をやったステージの上には例の白黒の細い身体があった。 どうしようもなくその声に気を惹かれながら、部下たちとグラスを鳴らした。 昨日とはプログラムが異なるらしく、 恭弥は随分長いあいだ歌っている。 それを複雑に思いながらも、昨日は聴けなかった声が聴ける事に喜んでもいた。 聴けば聴く程に、手放したくない声だった。 低いのに高い、痛ましくも甘い、子供染みていて不安定で艶やかな、 どうにも俺から思考能力を奪っていく声だ。 あの細い身体を組み敷いて欲望のままに触れてみたら、 いったい俺を煽って止まないこの声はどんな風に鳴いてくれるのだろうと、 やましい妄想に駆られては罪悪感に襲われた。 あまりに俺がぼんやりとしているので、 やっぱり調子悪いんじゃないか、とみんなに変な心配を掛けてしまってまた申し訳無くなる。 「いつもそんなに飲まねぇしな、酔っちまったんじゃねぇか?」 「ちょっと部屋戻って休んでろよ」 「ん、あぁ、どうしようかな」 あれほど会うのを避けようとしていたのに、 やはり会ってしまうと今度は離れたくなくなる。 もう触れられないであろう彼の体温を思いながら、 未練はあるが大人しく部屋に戻る事にした。 幸い恭弥にはまだこちらに気付いた様子は無い。 このまま部屋に戻ろう。 そうすれば、週末しかここに来ない恭弥が次に現れるのは来週末だ。 それまでに俺はイタリアに帰らなければならない。 もう恭弥に会う事は無いだろう。 フロアから恭弥を盗み見た。 本当はきちんと挨拶がしたい。俺が日本に来て初めて話した相手だ。 そしてきちんと謝りたい。不用意に怖い思いをさせてしまった事を。 どこか不思議な思考回路の彼は、ともすればすべてのイタリア人があぁだと思い込んでしまいそうだ、 それは全イタリア人を代表して俺がちゃんと弁解しておかなければならない。 しかしいつ謝罪しに行こうかと考えながら席を立つ、 ついて行こうかと進言する部下たちに断って、その場を離れた。 出入り口の前まで来た時、女々しくもふと振り返り、せめてこの曲だけは聴いていこうと思った。 しかし、ステージの上の漆黒の目と、目が合ってしまった。 「……っ」 昨日はすぐに外された視線は、今日はこちらが慌てて反らしても、俺を見据えて離さなかった。 その目は俺を咎める風でも、怯える風でも無く、 ただなんの感情も見えないまま、ひたすらに俺だけを映した。 やがて演奏を終えたメンバーが、礼をして舞台から消えていく。 恭弥はなおも俺を見つめたまま、形だけの礼をすると、 ステージからフロアへ続く短い階段を降りた。 その目は間違いなく俺を捕らえていて、 迷い無くフロアを横切って、俺の居る方へと歩み寄ってくる。 俺はといえばただ目を反らし、しかしその場を動く事すら出来ない。 薄暗い店内で、互いの表情の変化さえわかる距離まで近付いた時、 恭弥はふいに視線を俺から後ろの扉へと変えた。 そのまま真横を通り過ぎ、擦れ違う。 感情の読めない視線が外れた事に安堵した。 だから左手に触れたものがなにか、わからなかった。 咄嗟に擦れ違った恭弥を振り返るが、せいぜい見えたのは黒い髪と細い背中、 そして俺の左手指を弱々しく、しかし確かに、 名残惜しげに引いた左手だけだった。 111205. ← | → back |