提携先の企業との商談の為、イタリアをしばらく離れて日本へやってきていた。 提携相手の用意した豪奢なホテルが日本に居るあいだの滞在先で、 慣れ親しんだものと違うシャンデリアの下で、 なんだか落ち着かず、うろうろと部屋を歩き回っていたら、 部屋を覗きに来た部下が苦笑混じりに言った。 「そんなうろうろして、子供みてぇだな、ボス」 「だってなんか落ち着かねぇんだって」 「お、じゃあちょうど良いや」 「なんだよ」 髭を生やした彼はロマーリオと言う。 長年、それこそ子供の頃からずっと傍にいた右腕だ。 社長の一人息子で、跡取りである俺の事を、 ボス、だなんて大層な呼び名で呼び出したのも彼だ。 「なんでもこのホテル、上の階にバーがあるらしいんだ。ジャズバー」 「へぇ、洒落てるなぁ」 「暇潰しがてらどうだよ、ボス」 「…お前、飲みたいだけだろ」 じとりと視線を送ったら、ばれたか、とロマーリオは豪快に笑った。 しかし彼の言う通り暇潰しには持ってこいだろう、 明日の商談の資料はすべて完璧に用意してあるし、息抜きにもなる。 特にする事も無いので彼の後について上階へ向かうエレベーターに乗り込んだ。 エレベーターの内部は扉とは反対側がガラス張りになっていて、 見ればビルだらけの都会が瞬いていた。 生まれ育った地には無い色とりどりの明かりが、 まるで獲物を待ち構える毒蜘蛛の様に見えた。 情報で隈無く張り巡らされた巣に、もしかしたら俺ももう捕まっているのだろうか。 この光景に恐怖を感じている分には平気かな、と開き直った時、51階のランプが光った。 バーの中はそれなりに盛り上がっていた。 というのも、自分の部下が大半で、 知り合いでもあるこの店のオーナーに少々申し訳無さを覚える。 しかし羽目を外し過ぎない連中である事は誰より自分が良くわかっている、 その辺り心配しなくて済むのは、良い部下に囲まれているなによりの証拠だ。 いつの間にかロマーリオは他の奴らと合流して騒いでいる。 俺はシャンパンを受け取って出入り口の傍の壁にもたれた。 それなりの広さの店内が見渡せた。 照明の点いていないステージの上では、 演奏家たちがそれぞれ所定の位置について楽器の調子を合わせていた。 演奏はもうまもなく始まるのだろう。 別段期待するでもなく、ぼんやりとその光景を眺めていたら、 舞台袖から細い影が現れ、マイクの前に立った。 薄暗い店内では良く見えない。 フロアがしんと静かになる。静寂を綺麗に裂く様に演奏が始まる。 舞台上をスポットライトが照らし、そのあまりに美しい彼から目が離せなくなった。 最初、女だと思った。 それくらい中性的な顔立ちをしていて、 すらりと伸びた手足は細く、白く、 とても同性のものだとは思えない。 濡烏の髪が肌の白さを引き立てている。 切れ長の眼窩から覗く瞳は肌とは正反対の漆黒で、 まるで彼は白と黒だけで構成されているみたいだった。 彼が喉を震わせる。それでまた引き込まれていく。 見るからに若そうな彼だが、さすがに変声期は終えているのだろう、 彼の鳴らす声はひたすらに艶めかしく、鼓膜と心臓とを打ち鳴らした。 いくら高級ホテルのバーとはいえ、こんなところに置いておくには勿体無く感じる程だ。 俺はといえば時間が止まったかの様に彼から目を離せずに、 店内を拍手が包んだので、それで演奏が終わったのだと気付いた。 それから数曲、彼らは静かに、どこか怪しく、いやらしく、演奏を続けた。 喋る分には苦労しない程には日本語を勉強したが、 歌となるといちいち意味を追うのは大変で、 もうなにも考えずに音楽を楽しむ事にした。 一瞬、舞台の上の彼と目が合った。 笑いかけたが、素っ気無く視線を外されて少し傷つく。 もしかしたら始めから目など合っていなかったのかも知れない。 たった数曲の演奏会はあっという間に終わり、 舞台上の彼は一礼すると出て行った。 店内はまた騒がしさを取り戻す。 俺は廊下に出て、店の裏口へ続く方へ歩いていった。 案の定、そこにはさっきの黒髪の彼が居た。 彼がこちらに気付く。会釈したが、またふいと視線を外された。 今度のは明らかに無視だ。 確実にダメージを受けたが不思議とめげる事は無かった。 「あ、あの、」 「なにか用」 そのあまりに敵意を剥き出しにした声色に、 たったさっきまでの艶めかしい声をうっかり忘れかけた。 「あ、いや。さっきの演奏、素晴らしかった」 「そう」 素直にそう伝えたが、彼は依然興味の無さそうな視線で俺をじっと見た。 「外人?」 「あ?」 「日本人じゃないだろ、あなた」 日本人じゃない人間の事をガイジンと言うのかと頭の隅にメモする。 「あぁ、俺はディーノ。イタリアンだ」 「イタリア。イタリアはイタリア語じゃないの」 「そりゃあそうだ、イタリア語だぜ」 「ふぅん」 白黒の彼の言う意味が良くわからず、 やはり日本語を勉強中の分際で話し掛けるものでは無かったかと思った。 もしや彼はそれで機嫌を損ねたのだろうか、 だとしたら悔しい話だ。 「んーと、なんか、悪ぃ」 「なにが」 「いや、ガイジンにいきなり話し掛けられたらそりゃ、驚くよな」 「…そんな事無いよ」 彼が首を傾げると、黒い髪もさらりと傾いだ。 「日本語が上手だから、びっくりした」 「え、」 まさか誉められるとは思っておらず、舞い上がってしまう。 「そんな、えっと、あ、ありがとう!」 「日本に来て長いの?」 「いや、日本に来たのは今日が初めてなんだ。親父が親日家だから、小さい頃から習ってて」 「そう、」 そこで初めて彼は笑った。 口角を少しだけ上げると唇が綺麗な弧になる。 持ち上がった頬はふわりと柔らかそうで、 透ける程白いのに温もりがある事がわかった。 ステージの上に居た時よりも、とんでもなく綺麗だ。 「…戻らなくて良いの? もうすぐ楽器隊のセッションが始まるけど、」 「え、あ、あぁ」 思わず見惚れていたなどとは言えず、 なるほどそれでボーカルの彼だけが出てきたのかと納得した。 「あ、もし良かったら、お前と話してたいんだけど、駄目かな」 「…別に良いけど」 彼の纏うオーラがさっきより随分柔らかくなったのを感じながら、 人気の無い廊下で品も無く立ち話をした。 取っ付きにくそうだと思った彼だが、しかし想像以上に会話は弾んだ。 彼は雲雀恭弥と言う事。 昼間は大学に通っているという事。 ここに勤め始めてもうすぐ3年だという事。 この街で生まれ育ったという事。 本人は歌う事が得意だとは思っていないという事。 (俺がそれを全力で否定したら、少し驚いた後に照れくさそうに、ありがとうと言った) そして今19歳だと聞いて、驚いた。 「19かよ、さすがにもっと上だと思ったぜ」 「あなたはいくつなの」 「今26」 「わお、もっと下だと思ったよ」 俺が笑うと、釣られた様に恭弥も笑った。 笑うと年相応な顔になる。可愛いと思った。 「実を言うと最初、女かと思った」 だから正直に言った。 「今だって笑うと女の子みたいに可愛いし、」 「なにそれ、どういう意味?」 にやりと笑ったので、慌てて弁解する。 「いや、別にそんな、変な意味じゃ無ぇよ」 「思ってないから安心しなよ」 ふふ、と笑った7つも年下の少年にからかわれたのだと気付く。 なんて奴だと笑い合っていたが、それが収まると何故か空気がぎこちなくなった。 扉の向こうから微かに聴こえるジャズが廊下に響く。 先程までの和やかな空気が嘘の様に、なんだか居心地悪く、恭弥は黒い目を少し泳がせた。 「じゃあ、そろそろ僕は帰るよ」 当てつけた様に携帯を開いて時刻を確認すると、 彼がひらりと手を振って俺の脇を通り過ぎた。 反射的に、その細い手首を掴んで、引き寄せて、 勢いのままにキスをした。 なんでそんな事をしたのか、自分でも良くわからなかった。 唇を覆ったまま、微かに抵抗する細い身体を構わず壁へと押しやる。 そこは設計上の関係なのか少しくぼみになっていて、 まるで隠れる様にそこに入り込んだ。 「…、なに、して、」 「……」 抗議の声にも応えず唇を貪る。 怯えた様な表情に罪悪感こそ覚えたが、 何故か止めようという気にはならなかった。 唇をこじ開けて、舌を入れた。 びくりと震えた恭弥の背筋を撫でる。 俺を退けようと胸を押していた両手は、気付けばまるで縋る様に俺のシャツを掴んでいた。 ちゅ、ちゅ、と湿った音が、響くジャズのあいだに漏れる。 どこかいやらしいメロディが存分に俺を煽った。 「ん、や、」 舌を弄んでやると溜息を漏らした。 微かに薄目を開けた恭弥に、もう理性なんてまともに働いていなくて、 細い身体をまさぐったら、とうとう目一杯の力で押し返された。 「…っは、離せ…!」 「きょう、」 ぱちんと高い音がして、遅れて頬がじんと痛んだ。 叩かれたのだと気付くのに時間が掛かった。 俺が呆気にとられている内に、恭弥は床に置いてあった荷物を掴むと、 瞬く間に駆け抜け、51階で止まっていたエレベーターに飛び乗った。 扉はすぐさま閉まり、高速エレベーターの階数ランプはどんどん下降していく。 ひとり取り残されてから、とんでもない後悔と罪悪感に襲われた。 でも、もう遅い。 恭弥の怯えた表情だけが胸を苛んだ。 その時、扉の向こうから拍手が聞こえた。 今日の演目は終了だ。 111201. ← | → back |