小説 | ナノ
兄主2
あれから気づいたことがある。ここは昭和の日本だ。つまり僕はタイムスリップという非現実的な体験をしていることになる。
そして女のことを少し知った。というよりは女が勝手に話したことが耳に入った。 夫のせいで借金があること。 体を売って稼いでいること。 夫も家族も死んで孤独であること。 最初の二つはどうでもいいが身内がいないというのは良い。僕の存在を疑問に思われることが格段に少なくなる。身分証明ができない僕にとっては素晴らしいことだった。
女は僕によく懐いた。朝昼晩とご飯を用意し、手をつなげば生娘のようにはしゃぐ。 出勤前に"いってらっしゃいのキス"をすれば面白いほど赤くなって逃げるように出かけた。 体の関係は持っていないが、もし持ったならあの女はそれに溺れて馬鹿になってしまうだろう。そう思わせるほど僕にぞっこんだった。
「悠人くん」
今だって猫なで声で僕を呼ぶ。僕の返事が必ず帰ってくるものだと信じて。その期待を裏切ってさんざんに辱めてやればさぞかし楽しいだろうに。 渦巻く欲望を押さえつけながら今日も僕は笑う。
「なあに、菜々美さん」
そうして腰をかがめてキスをしてやれば、彼女は破顔して喜ぶのだ。
「ふふ。なんでもないの」 朝ごはん作るね。彼女はそう言って台所へかけていった。
僕はあの女に憐れみを感じていた。 僕のいた社会では珍しい、馬鹿正直な女。 何も考えず親が定めた許婚と籍を入れ、その男が暴力を振るっても我慢し、挙句の果てにはその男にギャンブルで女の稼ぎどころか家の財産まで食い潰された。男のためにした借金のせいでまともに働けなくなったというのに、責めるそぶりも見せない。 その上、25にもなって薄給のゴミ溜めみたいな店でおもちゃにされている。 そして僕みたいな悪い奴に恋までしてしまうのだ。
自分の不遇さを理解できない可愛そうな女。 だからこそ執着させて捨ててしまいたい。 不運だとはっきり自覚したときの泣きっぷりが楽しみでたまらない。
「悠人くん、できたわよ。食べましょう」 ああ、女が僕を呼んでいる。はやく行ってやろう。
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