小説 | ナノ
兄主
見知らぬ空気の中で目が覚めた。 目の前にはしみだらけの見知らぬ天井が広がっている。それを思考が止まったまま数秒眺めたのち、のっそりと体を起こす。 立ち上がると天井は頭の上すれすれになる。先をかすった髪に埃が付いた。
「ここはどこだ」
呟いてみても答える声などあるはずもなく、無音の部屋に虚しさが増した。
住人は相当貧乏らしい。低い天井に狭い部屋。ほとんど家具がないはずなのに、ここにいるだけで息が詰まりそうなのは気のせいではない。
身代金が目的かという考えが頭をよぎる。 僕はそれなりに名の知れた富豪の息子であるし、過去に誘拐は経験済みなのであり得ないことではない。 そのもしもに備えて部屋を物色する。といっても、見つけたのは箪笥の中の数着の服と着物、押し入れの中のせんべい布団、そして扉一枚で隔たれた粗末な台所だけだった。 ますます身代金説が有力になってくる。
警戒するのは台所の包丁だけでいい。あとは出口が狭いから逃げる時は焦らないことだ。 確認したところで最初に寝ていた場所に腰を下ろす。
窓の外はどっぷりと闇に浸かっている。とうに深夜のはずだ。 僕を連れてきたのだから何かしら用があるのだろう。だが何の音沙汰もない。 いい加減出ていこうかと思ったところで、玄関の扉の開く音がした。それに続いて重たげな足音とともに疲れた顔の女が顔を出した。
「……あなた、起きてたのね」
口調だけはしっかりしているが、声はぶら下がるように沈んでいる。 どうやら僕を放置したのではなく仕事に行っていたようだ。
女は安物のハンドバッグを投げ捨てるように置くと僕の前に座った。
「あなた、体調は大丈夫? ここに来る前の記憶はあるかしら?」
女は心配そうな表情で僕の顔を覗き込む。
「ここに来る前の……ですか?」 「ええ。あなた、玄関の前で倒れていたでしょう?」
倒れていたでしょう。玄関の前で。女の声がぐわんぐわんと頭に響く。
そういえば僕は屋上から飛び降りたのだった。 忘れていた。いや、思い出そうとしなかった。最期、僕は地面に叩き付けられ頭蓋骨が凹む音を……。ぶるりと体が震えて、回想を止めた。
「すみません。何も覚えていないようです」 背中を伝う冷や汗を抑えて笑顔を繕う。
「そう」 女は僕の返答に安堵したように息をついた。
「倒れていた僕を部屋に運んでくださったのですか?」
「ええ。放っておくわけにもいかないわ」
そう言った女の目は僕を熱心に見つめている。 僕は内心でほくそ笑む。当分は野宿を心配しなくていい。
「ありがとうございました」
笑顔のまま女の膝に手をおく。女は面白いほど大げさに体を揺らした。
「あなたに拾われていなかったら、どうなっていたことか」
大げさに感謝しながらさらに身を寄せれば、期待通りの物欲しげな視線が返ってくる。 ゆっくりと顔を近づけるが全く抵抗されない。キスしてやると女の口から悩ましげなが漏れた。
「待ってッ……だめよ…」
「だめ? どうして?」
聞き返すと女は目を泳がせる。
「どうしてって……会ったばかりの人と……しかも学生さんとなんて……」
上っ面の言葉を並べている間にも女はチラチラと僕を求めてくる。赤い顔をして、僕の肩を掴んで……。初心な女かと思ったが、案外そうでもないようだ。
「関係ないでしょう」
近づくと今度は受け入れられた。
胸に当てられた手を握って何度も唇を重ねる。たまに舌を絡ませると、さみしい室内に唾液の音がいやらしく響く。 女はそのうち自分から口付けてきた。夢中になって僕を求める女は先ほどのしおらしい姿とは大違いだった。 人の本性を引きずり出すのはいつやっても気持ちがいい。
タガが外れたような欲求にしばらく応えていれば、ようやく女の体がよろよろと崩れ落ちる。 肩で息をする女を抱きとめてやる。女は力の入らぬ手で僕の服をつかんだ。
間違いない。女は僕に恋をした。
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