伝えし歌


 今、夜は眠っている。
 虚ろに侵され、常に脅かされ、怯えていた世界はリビカ達との友好を取り戻した。
 かつての絶え間ない穏やかで急速な侵略を受けていた面影はない。
 そしてコノエもまた、やさしい夜と、傍にある温度に包まれて眠る。



(森の匂い。土の匂い。そこに在る全てのものを抱く木々)

 精神は平穏。一人静かに森の香りで満たされて生きる日常。

(昼。木々の隙間から地面に降り注ぐ白い光が風に吹かれて揺れる)

 森の鼓動に合わせて目を閉じる。心をとある一点に集中する。それはこの世界の具体的な場所ではなく、心に思い浮べた――あるいは精神や思考のどこかにある――場所。
 魔術を高めようとする者にとって初歩的で、だが毎日欠かすことの出来ない訓練だ。

(風がゆっくりと通り抜ける。森は閉ざされた場所ではない。開かれていて、訪れるあらゆるものを許し、受け入れる)

 一つ、大きく呼吸をすると清々しい空気が体内を満たして集中力が増す。

(傍の茂みががさりと音を立てる)

 集中が途切れる。黒い耳は音の出所を探してぴくりと動いた。

「……リークス?」

どこか抜けたような、良く言えば穏やかな声。ここにいるのがリークスではなく、賊や魔物の類だったならばどうするつもりだったのだろう。……何も考えていない、のか。
「物好きもいるものだな」
「え?」
茂みがもぞもぞと蠢いて、赤い髪が姿を覗かせる。
 案の定、シュイだった。姿など見えなくても足音が、息遣いが、雰囲気がその到来を告げる。
「良かった、やっぱりリークスだ」
「俺じゃなかったらどうするんだ。不用心にも程がある」
シュイは木々の隙間に覗く空を困ったように見上げ、とぼけるように言う。
「私だって君の居そうな場所や、君の気配くらい分かるさ。それに……」
それからリークスを見て花が開くように笑った。
「私に何かあったら君が助けてくれるだろう?」
「俺はお前みたいに親切な性格じゃない」
リークスがそう言っても、シュイは首を僅かに傾げながらにこにこと笑ったまま。
「だって初めて会った時だって助けてくれたじゃないか」
「気紛れだ」
本当にただの気紛れのつもりだった。こんなにしつこい奴だとは思いもしなかったのだ。
 突然、シュイはぱたりと尻尾を動かした。腰の袋に手を突っ込んで、握った拳をリークスに差し出す。
「これ、美味しそうだったから持ってきたんだ」
半ば押しつけるようにしてリークスの手に持たせた。クィムの実だ。
「な……」
シュイは途方に暮れているリークスの様子をろくに確認もせずに、日当たりの良い木の根元に座って自分の分の実を噛り始める。
 この森に一人で住み始めてから、誰かに物をもらったことなどあっただろうか。
「……もう来るな」
リークスは木に寄り掛かりながら言った。途端、シュイの戸惑う気配が伝わってくる。
「な、んで……」
見なくとも、目を見開いているだろうこと位分かる。
「危険だ」
「あぁなんだ、そんなことか」
シュイは大きく安堵のため息をついた。
「てっきり嫌われたのかと……」
そんなわけがない、リークスは出かけた言葉を飲み込んだ。
「そのことだったら、この辺では滅多に魔物も出ないし、大丈夫」
シュイの能天気な言葉に目の前が真っ暗になるのを感じた。見かけによらず頑固だ。来るなと言っても来るに決まっている。
 リークスは諦めて、一口クィムの実を口に含む。酸味が口いっぱいに広がって、遅れて甘さがやってきた。
「君は心配性だなぁ」
笑いながらリークスを見上げるシュイ。
 止めてもやって来るならば予防をするしかないか。仕方がない。結界、あたりが適当だろうか。
 リークスの意識が思考に向いていた時、シュイの声が割り込んできた。
「そうだ! 新しい歌を聞いてくれないか?」
向けられた瞳が眩しい。リークスが頷いて肯定の意を示すと、シュイは目を閉じた。風の音でも聞いているのだろうか、耳が忙しく動く。尻尾が揺れて、やがてこぼれる歌――


(うららかな光が二匹を照らす。朗々とした声が響く。柔らかな言葉を乗せた歌は遠くへと)

この歌は後へと伝わるのだろうか。そんなことを考える。

(温度を持った透明な液体が気付かぬ間に頬を伝い始める)

残酷なまでの刹那的な優しさ。


(そして、頬にあたる熱い感触)



 夢を見ていた。夢ではないのかもしれない。コノエ自身は経験したことはない、しかし覚えている過去の記憶。
「どうした」
頬に温度が触れたような気がして、無理矢理に閉じていた目蓋を開ける。頬を這うものの感触に、コノエは目を覚ました。
「あ……」
「どうして泣いている」
涙。ライに言われて初めて、コノエは自分が泣いていることに気付いた。
 ライに尋ねられて、コノエは涙を止めようとする。しかし次から次へと際限なく溢れてくる涙は止まらない。夢のせいで流されてしまった感情は、呆然として雫を拭うことも出来ない。
 再び頬に熱。唐突な刺激に驚いてコノエは身を強ばらせた。続いてぴちゃりと小さな水音がした。
 ライの舌だ。コノエのそれよりも幾分ざらついたライの舌は頬を伝う涙を拭って、その唇は雫を丁寧に吸い、舐めとる。
「ん……」
ライは涙を舐めとるだけでは飽き足らず、宥めるように耳を舐め、そしてライの唇がコノエの唇に押しあてられた。
 僅かに開いた唇からライの舌が侵入する。舌は器用に口腔内を動いて、コノエの舌に絡み付くと吸い上げる。奇妙な感覚がコノエの全身を走った。
「やめ、ろ……っ」
さらに先に進みそうな気配に、コノエは全力で抗ってライの頭を引き剥がす。
 そんなコノエの様子を見て、ライは口の端を少しだけ上げて笑みを作った。ライの余裕に若干いらついたコノエは思わず口を開いた。
「……何だよ」
「こちらが聞きたいくらいだな。何故泣いていた」
言われてみればコノエの涙は止まっていた。不本意ではあるが――ライのおかげか。
「何で、って言われても……」
夢だとは思えないリアルな感情は、共感の能力を自制していてさえ、とめどない涙をコノエに流させるには十分だった。
 説明しにくい。
「嬉しかった、んだ」
多分、この言葉が一番しっくりくる。ライの無言はコノエに先を促した。
「あんたと一緒にいられることが嬉しいと、思ったんだ」
「何だ、それは」
ライは怪訝そうに眉をひそめる。
「夢で俺にでも会ったか」
「自意識過剰なんじゃないか、あんた」
放っておけば夢の中の自分にも嫉妬しそうな勢いだ。
 何ということもない日常の一風景。仲の良さそうだった二匹。あんなに仲が良かったのに、あれからしばらくして――
「――っ」
その先を考えようとするだけでも胸が痛んだ。出来事の重さに耐えられず、コノエは俯いた。
「早く準備をしろ。食べたら出かける」
嬉しいのは、だからだ。心から信用して、委ねることができる関係はあまりにも貴重で愛しくて。
「ありがとう」
傍にいてくれて。
 恥ずかしくて小さくなって、語尾にいたっては呼吸と大して変わらないようなコノエの言葉が伝わったかどうかは分からないが。
 無言のライが前振りもなく投げ付けてきた物体を手を伸ばして慌てて掴む。
 クィムの実だ。
 赤い実は窓から注ぎ込んできた朝日を受けて艶やかに光る。
 リークスの、シュイの想いは、歌は間違いなく今に――少なくともコノエには伝わっていると、コノエは思うのだ。
 一口噛ったクィムの実は、昔も今も変わらずに、酸っぱくて甘い。



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