眠れる夜


 今、夜は眠っている。
 虚ろに侵され、大した昼夜の区別もなく、せいぜい昼には少々明るくて、夜には余分に不気味な程度だった森も夜闇に身を静かに横たえる。
 かつて絶え間ない穏やかで急速な侵略を受けていた面影はない。
 そう、だから見えない敵に怯える必要はないはずなのだ。だから、眠れるはず。


(熱い。身の内がたぎっている)

 焦燥と高揚。

(夜が赤に染まる。否、赤よりもなお黒が勝っている。深い闇)

 飲み込み、飲み込まれ、闇が、

(爪が赤に染まる。全身に熱い飛沫を浴びる)

 巻き込み、巻き込まれ、赤が、

(見渡す限り暗い)

 見つからない。光は、どこに? 多分、もう助からない。

(襲撃。はぜる音がする。火だ)

 あれは俺を殺した火――



(そして頬に、突然のぬくもり)

柔らかな、あたたかな――

 夢を見ていた。夢ではないのかもしれない。コノエ自身は経験したことはない、しかし覚えている過去の記憶。
「どうした」
頬に温度が触れたような気がして、無理矢理に閉じていた目蓋を開けると、目前にはライの立派な尻尾の流麗な毛並み。
 ライの蒼の瞳は明らかな戸惑いを宿していた。直線的な視線は威圧的にではなくコノエを見つめる。
「随分うなされていた」
意図的にか無意識か、所在無げに揺れる尻尾は、コノエの肌を掠めるように時折撫でる。
 肌。
 そういえば服を一切身に纏っていない。
 天井。
 そうだ、確か昨晩は……ライに抱かれて、習慣化してしまった全身毛づくろいをされた。そしてゆるやかな、心地よい倦怠に任せ、そのまま眠ってしまったのだ。
 いつもならば思い起こそうとするだけでコノエの耳まで熱くなるような羞恥には襲われない。ライも煽るような言葉を発しない。
「夢を見ただけだ。……多分」
「多分?」
コノエは何となく居たたまれなくなってもぞもぞと身を動かし、ライに背を向けた。
 あんなに生々しい夢があってたまるものか。生の感覚も、死の感覚も、浴びる血液も、谺する悲鳴も、全てが現実のよう。
 思い出して、思わず両手を見る。赤くはない。だが確かに――赤い。
「リークスか」
ライが小さく唸って、憎々しげにその名を吐き出した。その名に、今日の夢に、否応なく思い出す。

リークスに体を操られたことがある。

 消し去れない事実。コノエの中にある覚えのない記憶。
 思い至って途端、ひくり、と体が動いた。震えはじめる。止まらない。意志が感情に勝てない。怯えに勝てない。
 再びコノエがコノエでなくなる可能性。膨大な記憶に苛まれることは覚悟していた。だが――
 恐い。
 震えが止まらないのが情けなくて、縋りつきたくて、コノエの両腕は己を抱いた。
 知らず、尾が丸まって、耳は倒れる。
 震えは止まらない。自身を抱くようにしている手に力が入る。抑えられない。
 震える。

「何をしている」
突然肩ごしに、声。ひんやりとした大きな手がコノエの肩に触れた。
 堅く閉じられたコノエの手をゆっくりと解いていく。緊張しきって力の籠もった手の爪は、コノエの皮膚を切り裂く寸前だった。
 震えは止まらない。行き場を失った手も小刻みに震える。

 考えなければ、何も見なければ、恐くはない――

「コノエ」
強い声に、移ろいはじめていた焦点が戻る。しかしコノエは何も出来ない。震えることしか出来ない。縋りつくものも奪われて。
「おい」
若干荒げられたライの言葉は真っすぐにコノエに向いている。
 コノエの肩に置かれた手は、乱暴にコノエを動かした。
「な……っ」
半ば強引にライと向かい合う姿勢になる。コノエの背後に回った手が、縮こまった尾をそっと撫でた。こわばっているのを解きほぐすようにゆっくりゆっくり。
 もう片方のライの手は不安げに、行き場をなくしているコノエの手を取った。
「馬鹿猫が」
ライの真摯な視線がコノエを射ぬく。
「お前は縋りつくものを持っているだろう」
「あ……」
コノエの手を掴むライの手。少し前に呪いの紋章があった時にもコノエを拒まなかった手。目の前にはいつもと変わらぬライの顔。
 ライはコノエの手をゆっくりと放した。コノエは解放された手を見て、それをすぐ傍のライへ伸ばす。そして己を抱く代わりに、ライに、腕を回した。
 その様子を、ライは僅かに笑んで見つめる。それからフン、と鼻を鳴らす。
「前にも言ったはずだ、本当の敵は己に迷うお前自身だと」
傲慢に言いながら、しかしライの腕はそっと、力強くコノエの体を抱き締める。尻尾をあやすように撫でていた手もゆるやかに背中に回される。
 二匹の間に衣服はない。直接に触れ合う肌は、コノエにとっていつもなら恥ずかしいものだけれど、今あるのは安心。
 そうしていつのまにか、コノエの震えはおさまっていた。時々コノエの頬に触れるライの尻尾がくすぐったい。

 肌から全身に染み渡るぬくもりと信頼。
「寝ろ」
ろくに眠れていないことなどライにはお見通しか。窓の外は既にうっすらと明るい。だがあたたかくて眠気を誘われる。
 ライの顔を見上げようとすると、ライの胸へ、頭が手で押さえ付けられた。
「寝ろ」
ライの行動が可笑しくて、少しだけ笑う。
「何だ」
「別に」
答える時にはコノエは既に微睡んでいた。
 コノエを包み込む腕の中で、眠る。



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