ラプンツェルの疎通
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「いったい何がしたいんだよ」
もしかしてもう古いのかもしれないが、気軽なやりとりや会話のなかでこういった返しを聞くことがある。
文面にすると、大抵は語尾に(笑)などがつくものと思われる。
つまりはネタ、ないし一種の会話術であろうと推測する。
これが一般化したころ、私は日本にいなかった。
帰国して友人と再会したおり、たまたま共通の知己のことで互いに頭を悩ませていた。
愚痴まじりにそのことを語りあっていたとき、ふいに彼女が苦笑してこぼしたのだ。
「もうさ、わからない」
「ん?何が?」
「あの子さ」
「うん」
「私わからないわ」
「何が」
「あの子が何をしたいのか、わからない」
私は彼女が何を言いたいのかがわからなかった。
今となってはさすがに言外にある意図はおおよそ予想はできる。
本気でその第三者の言動が理解できない、これはそういった意味ではないということ。
ではどういうことなのかというと、もうわからない。
こういった言葉のまわしかたは、日本人の感性でひとたび汲んでしまうと、説明などほぼ不可能になってしまう。
いつの間に把握したのか、使いこなせるようになったのか、それすらわからない。
それにしても、「何がしたいのかわからない」とざっくり一言でくくることによって揶揄めきつつやんわりとした非難を実現するとは、なかなか見事なお点前である。最初に考えた人の発想力に対して敬意を評したい。
「いったい何がしたいんだよ」
もしも真剣にこう問われたら、さてどうしたものか。
あたりを見まわして、よくよく自分を振りかえる余裕が、はたしてその時にあるのだろうか。
「あなたはどうしたいんだよ」
ためらう。答えはあるだろうか。それを伝えるに値する相手だろうか。
「したいことは、もうしている」
と言えたなら最善だろう。
けれど心のどこかで、やりたいことはわかっていて、なおかつ実際にやっている、ただそれだけでは許されず、うまくやれていなければ意味がないのだと思いこんでいる。
ということを、私はおおむね常に意識している。
「いったい何がしたいんだよ」
「何をやってるんだよ」
同義ではなかろうか。
そして私も他人も決してほんとうの興味や関心なんて、ましてや理解する気など、これっぽっちも持ちあわせてやいないのだろう。
根底にあるのは嘲笑と否定かと思うとたまらない気持ちになる。
私はこの点において、いったい何をしたいかと言うと、ぜひとも絶対的に間違っていたい。
ところで、会話の弾ませ方のひとつとして最近の私のお気に入りは、これである。
「それな」
できれば続けて2回ほど言いたい。
「それな。それな!」
力づよく言いきりたい。そして相手には、
「それなー」
と、ゆるく流してもらえれば幸甚の至り。
「何がしたいかわからないとか単におまえが馬鹿なんじゃないのっていう」
「想像力の欠如というかね」
「それな。それな!」
「それなー」
何か違う気もするが、この果てしなくどうでも良い加減が、どこか中毒性の漂う安堵に私を浅く浸してくれる。

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