なんなんとするキャラバン
150628 1823



気づけばもう6月も末。
この長文日記を書かずに七夕月を迎えようというのか。
それはいけない。そうはいかない。
毎日のようにこのコンテンツを更新していた頃が懐かしい。そもそも日刊の心づもりでいたので1ページに7つ分のリンクを貼ったのであった。
引っ越しのどさくさ紛れにその原則は瓦解した。かわりに短文日記があるからいいか、と思いきやそちらも気まぐれすぎる。

書くことがないわけじゃないんです。
それどころか、あれも書きたいこれも書きたい、そんな駄々をこねている7日間のくりかえしなんです。
多分やればできる子なんです。でも、やらなきゃ絶対にできないんです。あまりにも当たり前です。
自己満足の場なのだし、まったくもって義務ではない、これが救いであり、かつ脳みそを甘やかす何よりの口実。
本当はルーチンワークとして、長文日記と言いつつ短めでもいいから毎日ちょっとでも書きたいのですが、いざテキストを開くともうとめどないんです。まったく始末に負えません。

というわけで、山ほどある書きたいことの中から、今これだけはというひとつについて以下、だらだらと述べる。

若い頃、特に十代、もうちょっとしぼりこんで、いわゆる思春期のころにやっておいたほうがいいこと。
それは、不幸な気分になること。

「大学在学中に何をすべきか、しておけばいいか」というコラムか何かを読んでいて、ふとそんなあさってなことが頭に浮かんだ。
ちなみに、その記事の中では、資格の取得、人脈の開拓と維持、TOEICを850程度、留学、海外旅行(特にアジア圏)、ダブルスクール、インターンシップ、ボランティア活動、恋愛、とにかく遊ぶ、などが「卒業ないし就職活動スタートの前に是非」と推奨されていた。
この中で私が実際にやったことはボランティアくらい。未だに運転免許さえ所持していない。マリオカートは中腰かつ両腕のみならず全身を揺らしてプレイせざるを得ない。もちろん、勝利の美酒の味など知りようもない。
一応お断りしておくと、そんな私なりに楽しく有意義な大学生活であった。映画とラテン語と改宗に彩られたキャンパスライフ、つたなくて愚かながらに愛おしい日々。

話を戻す。
何故、十代なかばに不幸な気分になっておくと良いのか。
自分でもちょっととっぴな考えに過ぎる気がして、珍しくじっくり考えてみた。3DSのボタンを淡々と叩きながら。

まず、ひとつには、簡単にできることだから。
不幸な気分になることほどやさしいことも、そうそう無い。
私は不幸だ、とそう思った瞬間に、もう私は不幸な気分。まばたきよりはやく成就する。
故にやってみて努力の無駄だったという脱力感を恐れずにすむ。

また、免疫として有用かもしれない。
いわば、おたふく風邪や風疹のようなもの。
「三軒さきの山田さんのところの子が不幸な気分らしいから、ちょっと行ってきて貰っておきなさい」
反抗期だろうとこれは素直に聞いておいた方が無難。びっくりするほどあっさり感染する。
そして、傷らしきものができたとしても、その深さによるが、やはり治りも比較的はやい。
大人になればなるほど痛みは全身をむしばみ、しかも長びく。
治癒に専念したくてもなかなかまわりがそうさせてくれない、と現実と思いこみの狭間でもがき続けることになる。

最後に、自分の感覚というものを大切にして、信じられるようになる、かもしれないから。
少なくとも、やらないよりは、その可能性が高まる。

私は不幸な気分と言っているのであって、不幸の話はしていない。
たとえば、御不幸は何歳になっても何度むきあっても、慣れるものではない。回避できやしないけど、どうか起こらないでほしいと祈らずにいられない。
実際に不幸な境遇にある十代もいることだろうから、あまり無責任なことも言えない。
だから、あくまで、不幸な気分、であることを強調しておきたい。

日常のささいな幸せとか、かけがえのない、満ちたりたおもいとか、そういったものは大人になってからで充分。
若いうちは、ずっとでも、たまにでも、不幸な気分でいていい。そうであっていけない理由なんてない。
不幸な気分をまったく知らずに、あるいは自ら抑圧して成長すると、どこかしら傲慢に陥りがちなのではないか。
平均的に良い人間が絶対的に正しく、何ひとつ非も落ち度もなく、自分が見た黒と白のみがすべてになってしまう。

上手く言えないが、現代日本の子どもは基本的に恵まれているのだろう。
そんな中で不幸なんてぜいたく、と思われるかもしれないが、だから、不幸ではなく、不幸な気分なのだ。
自分は駄目な人間、いらない存在、理解してもらえない、好かれない、嫌い、ひどい、つらい、悲しい、孤独、消えたい。
そんなことを思ってはいけないと断罪する人間こそ、どうにかして不幸な気分を心ゆくまで味わってほしい。世代に関わらず。よもや手遅れということはない。と思いたい。

もちろん、十代で、本を読むだけで、歌うだけで、友達がいることが、陽だまりでの昼寝が、ごはんがおいしくて、うさぎや猫がかわいくて、幸せ、と感じることが間違っているなどと言っているわけでは決してない。
そうした気持ちはとてもあたたかく育んでくれる。
ただ、そのすきまにある、ちょっとした寒さにこごえることを、悪いことだとは思わずにいてほしい。

更に付け加えるなら、この情報社会。
でありながら、結局、声の大きいところが正解と言わんばかりの空気。
せっかくだから出来うる限り多くのデータを集めて検証なり精査すればいいものを、たとえばウィキペディアひとつで終わらせてしまう。
そして、それが誤りのない、自分の知識であり主張だとして異論を拒む。
もちろん例外はあるが、それよりも、最初と最後は感覚を優先したほうがいい。
途中経過はネットや本、専門家の見識にまみれようと、それらを自分なりに洗う知性を捨てることは、それこそ不幸ではないか。
不幸な気分のなかで、疑うことと信じることを右往左往する。
どれだけ迷っても自分の感情から逃れられず、それどころかいつも始点にしてしまって、そして今ここに辿りついている。
間違っているか正しいか、そのふたつだけじゃない。
何かおかしいな、という感覚。
これでいいのかな、という感覚。
誰がどう言おうと、私はこうなんだ、という感覚。
その記憶と手ざわりが、ものごとの答えをいついつまでも探したり、あるいは、つくりだす強さを与えてくれる。

という気がする。

どうにも自信をもって明言できないところが未だに悩みどころ。
文責ですら怖い。まだまだ大人として足りないと痛感する。
どこまでも戯れ言。机上の空論。口先だけ。
という不幸な気分らしきものを未だにほんのり堪能しているだけある。現代では自虐とか言うのだったか。
無意識だと苦しいが、意識的にやると結構いい気分転換になったりもする。
成人の方々も、万一ご興味などありましたら、どうぞ軽くお試しを。
ところで私はマゾヒストではありません。あしからず。

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