▽ <9.5章>

<9.5章>
以下の内容は、『私はホロコーストを見た』著:ヤン・カルスキより抜粋しています。

ヤン・カルスキ(1914〜2000)はポーランドのレジスタンス活動家。並外れた語学力と記憶力を武器にポーランド秘密国家に奉仕した。1942年夏、ユダヤ人指導者らの依頼でワルシャワ・ゲットーや強制収容所に潜入し、そこで目撃したナチスによるユダヤ人大虐殺を世界に伝える。しかし、彼の報告を列強は様々な思惑の中で黙殺。結局、終戦までユダヤ人を救うための有効な措置は取られなかった。

 本文をそのまま抜粋します。残酷な表現もありますので、苦手な方はご遠慮ください。



 ドイツ人は、もちろんワルシャワ市内でも一番貧しい地区を選んでゲットーを設けた。家々は荒れ果てて、三階を超える建物など見えない。道は狭く、申し訳程度に舗装され、歩道もある。あばら屋の街並みがところどころ切れているのは、1939年9月のドイツ空軍による爆撃の跡で、まだあちこちに瓦礫の小山が見える。高さおよそ二メートル半の壁がそのうらぶれた地区を囲んで建てられ、<アーリア人>たちはそこから立ち退き、代わりに四十万人ものユダヤ人が閉じ込められた。
 わたし(カルスキ)はすり切れた服を着て、帽子を目深にかぶっていた。わたしはなるべく小柄に見せようと努めた。すぐ脇を、ゲットーの住民、ぼろ切れをまとって今にも飢えて死にそうな人々がうろついている。わたしたちは秘密の通路からゲットーに侵入していた。
(省略)
境界壁のなかに入ると、そこはひとつの新たな世界、いかなる想像ともかけ離れたまったく異質の世界に侵入することだ。住民はだれもが戸外で生活しているようで、道にあふれていた。空いた場所など一平方メートルもあっただろうか。泥や瓦礫のなかをずんずん進んでいくと、かつて男や女であった人の影がわたしたちの周りをうろつき、だれかを、あるいは何かを探し求めているように、飢えて空虚な目を光らせる。
 すべて、人も物も、ここでは永久運動であるかのように震え続けている。壁に寄りかかった虚ろな目つきの老人は、ある得体の知れない力に体を乗っ取られてしまったように全身を震わせる。
(省略)
 ひとりの老人が倒れないように家の壁に寄りかかっているのが見えた。
「年寄りはあまりたくさん見かけないようですが、日中も家から出ないようにしているからですか?」わたしは尋ねた。
 それに答える声は墓の底から響いてくるように聞こえた。
「そうじゃありません、もういないのです……。みんなトレブリンカ(ポーランドにあった強制収容所。73万人以上のユダヤ人が殺害された)に送られてしまいました。たぶん、もう天国でしょうか。ドイツ人というのはね、あなた、実利的な民族なんですよ。まだ筋肉があって労働に適する者たちは強制労働に使える。残った者たちは、カテゴリー別に分かれて駆除されるんです。まずは病人と老人、そのあとは役に立たない者たち、次にできる仕事が戦争には直結しない者たち、最後が道路工事や工場で働ける人間です。そのほかユダヤ人の警官もいますが、彼らは自分が助かると信じて身内の者さえ滅ぼしてしまいます。しかしですね、わたしたちは全員消えてなくなる!全員、同じ方角に向かっているのです」
案内人はほとんど感情を交えずに言うのだった。
 とつぜん悲鳴が聞こえ、周囲はパニック状態に陥った。小さな広場にいた女たちが子供の手をつかんで最寄りの建物に逃げこむ。
 わたしはふたりに腕をつかまれた。何も変わったことは見えなかったし、何が起こったかわからずにいた。わたしは恐ろしくなった、正体を見破られたと思ったのだ。連れのふたりは、わたしをすぐ近くの戸口に引っぱり込んだ。
「さあ早く、あなたにはこれを見てもらわないと。これを世界に伝えてください。ほら、急いで!」
 わたしは一番上の階まで駆けあがった。銃声が聞こえた。彼らがあるドアを叩く。痩せて青白い顔がドアの隙間から現れた。
「窓は通りに面していますか?」ブント(ユダヤ人労働者総同盟)代表が聞いた。
「いいえ、中庭には向かってますが、何の用です?」
 代表は不機嫌にドアを閉めた。反対側のドアに向かって走り、拳で叩いた。すぐに顔を出した小さな男の子は押しのけられ、怖がって悲鳴をあげながら奥に走り去った、ブント代表はわたしを窓際に押しやり、カーテンの隙間から下を見るように命じる。
「これからあなたは、ある光景を目にするでしょう。狩りですよ。自分の目で見てみなければ、けっしてあなただって信じないでしょうから」
 わたしは見た。道路の中央にまだ思春期の若者がふたり立っていて、どちらもヒトラー青年団の制服を着ている。帽子をかぶっていないから、金髪の頭が太陽に反射して輝いている。丸みをおびた童顔の赤い頬、青い目、少年ふたりは健康と生命を体現しているかのようだ。しゃべって笑い声を響かせ、ふざけあって押し合ったりしている。そのとき、ふたりのうち年少の方が脇のポケットから短銃を出し、わたしははじめて何に立ち会おうとしているのかを理解した。少年の目は、縁日の射的で狙いを定める子どものように真剣に標的を探している。
 わたしは少年の視線の先を追った。その時点で、ようやくわたしは道路から人影が消えていることに気づいた。少年の目がある一点に釘付けになったが、それはわたしの視界からは見えない。彼は腕を伸ばし、しっかりと照準を定めた。銃声が鳴り、ガラスの割れる音がしたあと、男の声で恐ろしい断末魔の叫びが響きわたった。
 銃を撃った少年が歓声をあげた。もうひとりが何かを言いながら彼の肩を叩く、褒めたのだろう。ふたりはしばらく笑顔を浮かべてそこにいた。陽気で傲慢。それから手に手をとりあって、まるで何かの競技会からの帰りのように、会話を続けながら去った。その場で窓に顔を張りつけたまま、わたしはパニックに襲われたように、歩きだすことも何か言葉を発することもできずにいた。室内のだれもが沈黙したままである。わたしが少しでも身動きしたら、ちょっとでも筋肉を動かそうものなら、今さっき目撃したばかりのような事件をまた引きおこしてしまうのではないかと恐れていた。
 どのぐらい動かずにいたのか、わたしにはわからない。それから、だれかがわたしの肩に触れた、発作的に震えてしまうのを抑えながら、ゆっくりふり返った。ひとりの女がわたしの後ろに立っていた。部屋の間借り人にちがいないが、やせ細った顔はくすんだ光のなか、かさかさに白っぽく見える。両手を動かしながら話しだした。
「わたしたちのことを見に来たのでしょう。むだよ、何の役に立つわけないの。逃げなさい。こんなふうに自分を痛めつけるのはもうおよしなさい」
 わたしの連れふたりは、今にも崩れそうなベットに腰掛け、両手で顔を覆っていた。


『私はホロコーストを見た』
ヤン・カルスキ(白水社)





ヤン・カルスキを日本で知っている人は少ないと思います。彼は命がけで潜入し、自分の見たものをイギリスやアメリカの政治家、作家、様々な人に伝え、さらにはアメリカ大統領ルーズベルトにも面会しました。
しかし、かれらはカルスキの信じがたい報告を疑い、結果的に無視しました。
当時の政治家たちが知っていたのに何もしなかった罪……それはもっと知られるべきだと思います。

この本にはカルスキが強制収容所に潜入した話やドイツ人の友人にそれを伝えた話も載っています。興味があれば読んでみてください。





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