乗(上)



 お母さまがスープをひとさじすくって口に運ばれる。背筋はぴんと伸び、指の先まで美しい所作だった。いつも朝のひと時を藤の花が垂れる藤棚の下で過ごされる。
 本物の貴族はどのような状況でも貴族然として振る舞うのだ、と名前は小さいころに教わった。お母さまは本物の貴族だ。どんなときも誇りを失わず優雅な立ち振る舞いをされる。
 名前さん、と物憂げにすこし眉を寄せて私を呼んだ。
「今日はお客様がいらっしゃいます。ご学友と遊んだり、寄り道をしたりせずお帰りくださいね」
 雀のさえずりのような可愛い声だった。
「はい、お母様」

 学生鞄を手に取ると、藤棚の下からお母さまが手を振っていらっしゃるのが見えた。お辞儀をして門を出る。
 ──ここはお母さまの箱庭だ。
 大正時代の初期に建てられた小さな洋館。建物は小ぶりだが庭は広く、お母さまは日がな一日、花の手入れをして過ごしていた。身近なものを大切にするのが趣味のような人だ。買い物はお手伝いさんに任せ、滅多に外へ出られない。
 年に数回だけ外出しても名前の学校の用事ぐらいだ。それも玄関にタクシーを呼んで学校まで乗っていくだけ。
 ──だからお母さまはご存知ない。
 名前がどんなことを思って外の世界で過ごし、どんな想いでお母さまを見つめているかを。



「名前お姉さまが通られるわ! みなさんお辞儀なさって」
 つややかな木の廊下を通ると、後輩たちの美しくそろった挨拶に迎えられた。廊下にいなかった生徒も、教室から丸い顔を覗かせ名前に会釈する。校内放送を通して生徒全員が、生徒会副会長の名前を知っていた。
 微笑んでお辞儀を返すと賞賛のため息が聞こえた。
「美人で成績も良くて……あんなすてきな先輩がいてよかった」
 背中がこそばゆくなるような言葉。足を進めるたびお辞儀が波のように連なる。伝統ある女子校のなかで生徒会役員はあこがれの的になりやすかった。

 だが別の校舎へ渡り切って周りに誰もいなくなると、名前はほっと表情を緩めた。
 ──ああ、よかった。今日も上手に振る舞えて。
 名前は注目されるのがあまり好きでなかった。期待された通りの行動を取らざるをえなくなるからだ。伝統ある女学校の生徒像にぴったりで、特待生にふさわしい成績と振る舞い。断れずに引き受けた生徒会副会長という立場。
 逃げ込むようにたどり着いたのは、他の生徒が好んで立ち寄らない場所だった。
 コンコン、とノックすると低い男性の声で「どうぞ」と返ってきた。
「失礼します」
「副会長か。ちょうどよかった、いま指導室に生徒はいないんだ。このまま話しても構わないだろうか」
「はい先生」
 名前が尋ねたのは生徒指導室だった。中には担当教員が一人いるだけだ。
「いつもきちんと月はじめに報告書を出してえらいな。模試の成績も学年トップだったそうじゃないか」
 長身で笑顔がさわやかな男性だった。頬をあからめて名前はうなずく。出しにきたのはアルバイトの報告書だ。この学校で経済的に困っている生徒はほぼ居ない中、成績を落とさないことを条件に、名前はアルバイトを許可されている。
「学業特待をもらっているんです。成績を落とすわけにはいきません」
「そうか、副会長は頑張り屋さんだな」

 特待をもらっていても教科書や設備費にお金がかかる。だから経済状況が厳しいと相談した時、「アルバイトか……前例がないな」と言われて恥ずかしかった。でも先生はすぐ会議にかけてくれて許可がおりた。周りに知られないよう気も遣ってくれる。
 褒め言葉に、名前の心は軽くなってふわりと浮いた。先生は三十歳を過ぎたばかりで生徒に人気がある。名前も彼を前にすると、胸が高鳴って周りの音が聞こえなくなる。息苦しいものが全て飛び去っていく──……先生に憧れるただの女子高生になれた。
 ちらりと左手の薬指を見る。
 まだ、何もはまっていない。先生の笑顔は私一人のものではないけれど、少しぐらい憧れたって良いはず。

「そろそろ三者面談だろう。進路はどうするんだ?」
「就職してお金を貯めてから大学に行きます」
「専門学校には行かないのか? 前にパティシエに興味があると言っていたじゃないか」
 名前は表情をかたくして、いいえ、専門学校はお金がかかるのでと答えた。こわばった表情を迷いと受け取ったのか、先生は勇気づけるように言った。
「副会長は成績がいいし、特待をもらえると思うけどな」
 アルバイト申請を出した2年前、“カフェの調理”と書かれているのを見て「ホール担当じゃないのか」と聞かれた。名前は恥ずかしかったが
「お菓子作りが好きなんです。パティシエに憧れてて」と先生に話した。
 ──それを覚えていてくれたんだ。
 そう思いつつも、早く話題を変えて欲しかった。
 ときどき先生たちは残酷なことをする。先生の権限は学校内で強いから、『良かれ』と思ったことを躊躇せず行うのだ。悪気はないし理屈もあっているけれど、まるでそれを正解≠ンたいに扱う。学校を出てしまえばただの一大人なのに。
 ──これも箱庭だ。
 脳裏にイメージが浮かぶ。学校の中で、先生や生徒などの役割を負って振る舞う人々。役割から外れることに過敏で、名前はその中で浅い息をくりかえす。
 古い家のなかでまどろむお母さまを思い出し、胸がちくりと痛んだ。
 ──お母さまは、あの家から出たかったんじゃないかな。
 旧家の令嬢だったお母さまは父と駆け落ちして名前を産んだ。だが父は早くに亡くなり、幼い名前を抱えたお母さまは実家に戻った。
 はっきりと聞かされたわけではないが、「二度と我が一族にふさわしくない行動をしない」ことを条件に、ほとんど外界から絶たれる形で、本家から住む場所と生活費を貰っている。まるで足枷みたいな自分の存在。
 ……お母さまはどんなときも誇りを失わず、優雅な立ち振る舞いをされる。
 名前は一日でも早く自立したかった。



 家に帰るとお母さまが談笑していた。相手は男性だ、めずらしい。お母さまが知らない人を家にいれて話すなんて。
「名前さんお帰りなさい。聖堂教会の神父さまがいらしているわ」
「神父、さま……?」
 意外な職業にまじまじと客人を見つめてしまった。客人は若く、青年といっても差し支えない。肌はよく焼けて褐色、髪は生まれつきなのか白い。スマートな身のこなしで教養の高い人物にみえた。
 名前は整った仕草でお辞儀をした。一体どんな用事で、神父が家にくるのだろうか。
 神父と紹介された青年は柔らかい声で挨拶に応えた。
「はじめまして、シロウ・コトミネと申します。生前の父君に大変お世話になりました」
「そうでしたか……」
 スカートひだを崩さないようゆっくりと椅子に腰掛ける。でも、名前の父が亡くなったのは十五年も前のことだ。おだやかな表情で紅茶を飲むコトミネ神父は一体いくつなのだろう。
「父君が魔術師の家系だったことはご存知ですね」
「ええ、まあ」
 大人との会話で“魔術師”という非現実的な単語が出てきて驚いた。父のことを聞いていたが、お母さまの昔語りの一つだと思っていた。

「……で、名前さんには当主を継いでほしいのです」
「え……?」
 うっかり聞き落としてしまい、名前はカチャンと陶器の音を立てた。お母さまが心配した表情で名前と神父を見る。
「魔術師のですか?」
「はい。父君の家伝の魔術を継いで、ある戦争に参加していただきたいのです」
 コトミネ神父の目がきらりと光った。斜陽を背にしていたせいで分からなかったが、名前はそのとき初めて彼の目が赤いことに気付いて背筋に寒いものが走った。
「話がよくわからないのですが……」
「母君には承諾して頂きましたよ。父君の遺したものを名前さんに継いでもらえたら嬉しいと」
「………」
 驚いてお母さまを見た。お母さまがこんな簡単に話を鵜呑みにするなんて。それも、魔術を継ぐという突拍子のない話を。
 名前はためらったが、神父に同意するよう大きく頷いたお母さまと目が合って、頷くしかなかった。
 コトミネ神父は微笑み、ではさっそく召喚の準備にとりかかりましょう、と立ち上がった。
「実はあまり猶予がなかったのです。召喚されていないクラスはあと数枠でしたから。
 準備をしながら、詳しい説明いたしましょう」



 名前は理解がともなわないまま、召喚の儀式に臨んだ。言葉を復唱したときも半信半疑だった。
 しかし円陣に白銀の光が舞い上がり、何もない空間から人影が降りる光景に息を飲む。こんな光景を見せられてはコトミネ神父を信じざるを得ない。
 そして恐る恐る、降り立った人物をみた。その英霊は人形みたいに美しい顔立ちで、無邪気に声をあげた。

「やっほー!ボクの名前はアストルフォ!
 君がマスターかい?」

 ──全てをひっくり返す、出会いのはじまり。


<つづく>



うたかた聖杯戦争




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