美人薄愛



 唐の玄宗皇帝の御代に楊貴妃という女性がいた。
 楊貴妃は玄宗に深く寵愛され、楊一族は次々に出世した。世間はその様を冷ややかに見つめ、『女を生んでも悲しむな 男を生んでも喜ぶな』という唄が都の長安で流行るほどだった。
 そのころ長安からほど近い洛陽に、立香という美しい娘がいた。彼女は貧しい貴族の娘だったが、その美貌と音楽の才能から趙氏に養女として迎えられ、後宮に仕えることが決まっていた。
 趙氏は大貴族で、当主は正一品の高官、娘は麗妃(皇帝の側室)だった。その趙氏の一族として後宮入りする立香の役目は決まっている。麗妃に仕えて皇帝の目をひき、皇帝と話すときは麗妃の美談をつたえるのだ。あくまで麗妃の侍女として。

 立香はあくびを噛み殺した。麗妃は美しい女性である。しかし目立った才能もないし、話も長くて面白味がない。若い頃は一時期皇帝に寵愛されたそうだが、長続きしなかったことがよく理解できる。
 それに皇帝は楊貴妃を深く寵愛し、他の女性に目移りすることは一切ないのだ。立香はその才を持て余していた。せいぜい麗妃の話し相手をするぐらいだが、話題はいつも楊貴妃の悪口ばかりで面白味がない。むしろその楊貴妃に立香は強い興味をもつようになっていた。
――楊貴妃。
 本名を楊玉環という。幼い頃、皇后に並ぶ存在になると予言され、玄宗の息子である寿王の妻となったが、玄宗に見初められ後宮に召し上げられた。
( …一度、お会いしてみたい… )
 どれほど美しい女性なのだろうか。噂では、柔らかな髪に花のような顔、歩く姿は揺れるかんざしのようで、視線をめぐらせて微笑めば、その艶やかさから他の女性たちは色あせて見えるという。また音楽と舞踊の天才で、ぜひ一緒に演奏してみたいと立香は思った。
 見たことのない楊貴妃に立香はほとんど片思いをしていた。

「……妹妹(めいめい)聞いているの?」
   ※妹妹…目下の女性を親しく呼ぶとき
「はい、麗妃さま」
 返事があいまいになってしまっていたことを反省し、立香は麗妃の肩を揉み始めた。
「こんど月見の宴があるでしょう。そこで歌って、陛下のご関心を惹こうと思うの。妹妹は私の歌に合わせて笛を吹いておくれ。くれぐれも抜かりの無いように」
「はい、麗妃さま」

 正直なところ立香は笛が得意ではない。どちらかといえば磬(けい、打楽器の一種)のような踊りに合わせて奏でるような楽器が好きだ。しかし主君の命令なら練習しないわけにいかない。
( ……歌で皇帝陛下のお気に召すかしら? )

 そう訝しがったものだが、その宴で立香はついに楊貴妃を目にすることができた。
 噂通りの艶やかさに、少女のように無垢な笑顔を浮かべている。きめ細かな白肌が月夜に輝き、聞こえてくる声は鳥のさえずりのようだった。
( 残念だけど麗妃さまの歌はお邪魔ね )
 立香の予想どおり、彼女の歌は途中でさえぎられた。退出する皇帝にぴったりと楊貴妃が寄り添っている。麗妃は口惜しげに眉をひそめたが、立香は一瞬だけ楊貴妃と目が合った。
 にこり、とその無垢な笑顔を向けられた気がする。立香は夢見心地になった。



 ある日、立香は麗妃の部屋にかざる花を用意する花を庭園で摘んでいた。
 ふっと良い匂いがしてすべらかな肌に手を引かれる。驚いて顔を上げると、楊貴妃がそばに立っていた。
「あなた、この間の宴で笛を吹いていらっしゃった方ね。途中までしか聞けなくて残念だったわ」
「有難うございます、娘娘(にゃんにゃん)※」
   ※皇后またはそれに次ぐ夫人を呼ぶとき
「こんど聞かせてくださらないかしら」
「喜んで。でも本当は笛は苦手なんです…」
 頭を垂れもじもじと応えた立香に、楊貴妃は「では何が得意なの?」と聞く。立香が「磬(けい)です」と答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「まあ!私も磬が好きなの。陛下は琵琶(びわ)が好きで、披露する機会がないのだけれど。もしよければ今度一緒に演奏いたしましょう。」
「よろしいのですか、私などと…」
「苦手な笛でさえあれだけ演奏するのですもの。得意な楽器であれば、どれだけ奏でられるか楽しみだわ」
 楊貴妃は澄んだ瞳を輝かせた。
 立香は後宮でこれだけ純粋な女性に会ったことがないと思った。笑顔も、瞳も、後宮の汚濁に染まらず輝いている。まるで泥池に咲く蓮のようだ。
「では麗妃さまに聞いて参ります」
「ええ、きっとよ」
 楊貴妃は立香の手を握り微笑んだ。身につけている香が鼻腔をくすぐる。立香はまた夢見心地になって、ぼんやりとその後ろ姿を見送った。
 はたと気づいて、急いで麗妃のもとに届ける花を摘む。


 立香が麗妃の部屋に戻り花を生けていると、仲間の女官たちが目配せをした。一人が麗妃を呼びに行く。彼女は苛立った表情でやってきて、立香を目にすると突然手を振り上げた。
「っ……」
 立香は主君の手を避けることができず、よろめいて台に手をつく。驚いて立ち尽くしていると麗妃は怒鳴った。
「私があれだけ目をかけてあげたのに!貴妃に媚を売るなんて……!!」
 立香はぼうぜんとしたが、自分の衣に楊貴妃の香が移っていたのに気づいた。楊貴妃の香は独特で、遠くからでも匂いに気付く。庭園にいたせいで気付かなかった。
 立香は両手をつき、頭を地面につけて詫びた。
「麗妃さま、どうかお許しを…!」
「どんなことでもやるというの?」
 麗妃は冷たく立香を見下ろした。手のひらを返したような対応に、血がさあっと引いていく。
「ではこのお茶を楊貴妃に届けなさい」
 麗妃は戸棚から飾り箱に入れた茶葉を取り出した。上品な色紙に包まれているが、中身は一口飲めば命取りとなる毒草だ。
「これを持っていって飲ませなさい。大丈夫よ、お前の郷里にはお金を送るわ」
「麗妃さま…」
 立香はいやな感じに心臓が脈打つのを感じた。泣いて詫びたが、麗妃は宴で歌が中断されたことも立香の落ち度だと思っているようだった。
「はい…郷里の父と母をよろしくお願いします」
 頭を下げ、楊貴妃の住む宮殿に足を運んだ。



 楊貴妃は思ったより早く現れた立香を嬉しそうに歓迎した。
「立香、麗妃どのは優しい方ね。貴方をすぐ遣わしてくださるなんて」
「…はい……こちらは、お近づきの印にと…」
「嬉しいわ。さっそく淹れましょう」
 彼女が女官たちに指示すると、白磁に緑の絵付けをした碗へお茶が注がれる。楊貴妃はそのまま飲もうとしたが、立香の不安そうな表情にきづいた側仕えの女官が「お待ちください」と言って、銀の針を碗に入れた。
 銀は、黒く変色する。立香は息をのみ、崩れるように楊貴妃に向かって平伏した。
「申し訳ありません。これは、すべて私の……」
 立香は頭を床につけたまま震える。間違いなく死刑だ。一族全員に罪が及ばないよう命乞いしなければ。
 ところが楊貴妃は立香を罵るどころか、そっと手を取って彼女を立ち上がらせた。
「何を言うの。さすがに私も貴方一人の企みだとは思わないわ」
楊貴妃の頬に怒りの朱が混じる。「きっと麗妃どのの差金でしょう。私のことを口にしたから、怒りを買ってしまったのね。」
 立香は何も言えず、ただ楊貴妃に手を握られていた。
「ねえ立香、あなたは麗妃どのに捨て駒にされたのよ。怒って良いの。これからは私と一緒にいれば良いわ」
「そ、そんな…」
「私、あなたを気に入ってしまったの。これからは私に仕えて。陛下にもお願いするわ」
「……恐れ多いことです…」

 我慢していた涙がぽろぽろとこぼれ、楊貴妃の手にも涙が降った。それを嫌な顔せず、持っていた手巾を差し出す。立香は何があってもこの女性についていこうと思った。
「そうとなれば、決めたわ。仕返しをしてやりましょう」
「仕返し?」
「ええ、貴方の得意な磬(けい)と私の舞踊で。あなたを手放したことを麗妃どのに後悔させるのよ」



 その機会は半月もしないうちにめぐってきた。宴の席で「新しい出し物はないか」と尋ねた玄宗に、楊貴妃は「新しい舞踊がございます」と言って立ち上がる。
 しばらくして戻った楊貴妃は、裾が地面につくような長い舞踏用の服を着ていた。
「今からお見せするのは、陛下がお作りになった霓裳羽衣(げいしょううい)の曲に西域の回転舞踊を載せたものです。磬(けい)の演奏は私の女官、紅桃がいたします」
 紅桃とよばれた立香が額に花の化粧をつけ、前に進みでる。麗妃は気づいて声を上げかけたが、皇帝の手前ということもあって立香を睨み付けるだけだった。

 立香は磬の演奏をはじめる。澄んだ鐘の音に合わせ、楊貴妃が長い袖を宙に浮かせる。そしてひとときの間に腕をめぐらせ、長い布がくるくると優美な円を描く。彼女はのびやかな腕と柔らかいステップで踊り、宴席にいる人々を有限の世界に誘った。最後に磬が甲高く響き、皇帝は、はっと夢から覚めたようだった。

「…いかがでしたか?私と紅桃の舞踊は」
「素晴らしい。そなたと紅桃に、絹一匹と翡翠の玉を褒美として与えよう」
「有難く頂戴いたします」
 立香は楊貴妃の後ろで深くお辞儀した。麗妃の苦々しげな表情もまったく目に入らず、喜びで胸が高鳴っていた。




 それからしばらく立香は楊貴妃と絵巻物のように雅な生活を送った。
 玄宗は楊貴妃を深く寵愛し、毎晩寝所にやってくる。彼女が泣けばすぐに皇帝が駆けつけ、彼女を喜ばせようと遠方のめずらしい品が部屋に届いた。楊貴妃が琵琶、皇帝は唄、立香は磬を演奏して宴を開くこともあった。
 しかし政情は厳しくなりつつあった。楊貴妃の従兄弟である楊国忠が権力を握ったが、同じく貴妃と親しい安禄山と対立し、両者は玄宗と楊貴妃の寵愛をめぐって激しく争った。二人の情愛が政治闘争に直結するようになっていた。
 そのころから玄宗は疲れた表情を見せるようになり、楊貴妃のところに来てもお酒を飲んで眠るだけになった。以前のように笑ったり、唄ったりしなくなった。



 蝋燭の明かりを消すために立香が部屋を回っていると、楊貴妃は起きていて玄宗はその膝枕で眠っていた。
「娘娘…」
「立香、ご苦労ね。陛下は先ほど眠られたばかりよ。お疲れになっているのにお酒がないと眠れないの。しばらくしたらまた目を覚まされるわ」
「娘娘はずっと起きていらっしゃるのですか?」
「ええ。私がいないと陛下はうなされるの。大丈夫よ、昼間に休んでいるから」
 玄宗は楊貴妃の宮に入り浸り、朝の会議にも行かなくなっていた。玄宗が離れている間だけ楊貴妃は眠る。起きている間はずっと玄宗の心を癒す。
 心労が増すにつれ、皮肉にも楊貴妃の儚げな美しさは磨きがかっていくようだった。

「…恵妃、恵妃…」
 眠っている玄宗が誰かの名前をつぶやいた。楊貴妃ではない。そっと楊貴妃は彼の手を握り、安心させようとする。
(…恵妃様…?)
 立香の不思議そうな表情を見て、楊貴妃はこたえた。
「武恵妃様は若い頃に三郎と連れ添ったお妃様よ。とても深く寵愛されていたのだけれど、則天武后の血縁ということで皇后になれなかった。生まれた男子も皇太子には出来なかった。」
    ※三郎…玄宗の愛称
彼女は優しく玄宗の額を撫でた。
「三郎はかわいそうな人なの。長い間連れ添った武恵妃さまが亡くなったときから、政治への情熱を失われた。
 彼が求めるのは自分の心をなぐさめてくれることだけ。私は一緒に歌って、彼を喜ばせて、悲しい時にいっしょに泣いてあげる。でも彼の心の埋め合わせに過ぎないの……」
 立香は楊貴妃が少女のように無垢で純粋な瞳をしている理由がわかった。
 ずっと彼女は皇帝に片思いをしているのだ。永遠に手に入らない男性の心を。

「もし…なんでも叶うとしたら、娘娘は何を願いますか?」
 唐突に、立香は楊貴妃の願いをなんでも叶えてあげたいと思った。自分の命を捧げても。しかし彼女はあっけないほど小さく、叶えられない願いを言った。
「ここを出て普通の女性になりたいわ。三郎と一緒に。」
「……」
「私、三郎とふつうの夫婦みたいに過ごしてみたいの。娘と息子、小さな家だけあれば良いわ。それでもこの箱みたいな後宮より広い世界に違いないもの。」




 “ここを出る”という願いだけは、その後すぐに叶った。
 安禄山が反乱を起こし、玄宗は楊貴妃、楊国忠、高力士らをつれて蜀地方(現在の四川)に退却した。そこで前々から憎まれていた楊国忠は兵士たちに殺され、さらに兵士たちは楊貴妃を殺害しなければ命令に従わないと玄宗を脅した。
 玄宗は楊貴妃をかばったが、側近の高力士のすすめでやむなく彼女に自殺を命じた。最後に彼女は「天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝」という言葉を残してこの世を去ったという。
 この言葉は一心同体を意味し、“夫婦の情愛がきわめて深く、互いに離れがたいこと”として今も使われている。


 立香は抜け殻のようになった玄宗のもとを訪れた。玄宗は長安に戻り、楊貴妃の絵を描かせてそれを朝夕眺めていた。
「……陛下、紅桃です。私も貴妃様の御霊をお慰めしてもよろしいでしょうか」

 立香は楊貴妃の作曲した「涼州」を歌い、玄宗と共に涙を流した。



<終わり>




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