四輪め

(8)

 アキレウスが王城に滞在するようになると、王の妻たちからたくさんの誘いが来た。数あるうちのどれから行くか問われ、まずは御正室のアイギナ様から……とアキレウスは戸惑いながら返答した。
 それで正解だったらしい。大きな諍いが起きずアキレウスはほっとした。御正室のもとを訪れるとアキレウスのために宴が開かれ、若くて美しい少女がかれの杯にぶどう酒をそそいだ。少女はそのまま隣にすわる。アキレウスはすぐに合点した。
「娘のクリュティと申します。年の頃はアキレウス様の4つ下です」
「美しい姫君ですね」
 どの席に招かれても見目麗しい少女がアキレウスの側にすわった。その姿を見るとアキレウスは気の毒になってしまう。女性たちも奥で生きていくために必死なのだ。そのたびに清廉な名前のことを思い出した。
 ──ここで名前は生きていけるのだろうか。
 アキレウスは名前に害を与えている人物を調べるために招きを受けた。だが失礼にならない程度にある一定の時間で席をたった。
 熱心に誘ってきたのはやはり正室アイギナと側室カレだった。アキレウスは何度か宴に参加したが、そのたびに彼女たちの娘がかれの興味をひこうとした。
「名前とは隣家の仲だったそうですね」
 2人ともその話題に触れ、アキレウスは美しい姫君に惹かれるどころではなかった。


 春の日差しが雪を溶かすころ、エーゲの荒い海原を越えてスパルタからの使者がやってきた。船にはリュコメデス王に献上する財宝や武器を積んでおり、50人をゆうに超える大使節団だった。
 王は使者団を歓迎し、丁寧にもてなしたが「アキレウスどのは居ない」と言いはった。
「こちらに来られていたがとっくに他へ行かれた。お探しになるならご自由に」
 そう王に言われてしまうと使節団も強く迫ることはできない。かれらはアキレウスを探すため王城の周辺に滞在したが、スキュロス島の人々はよそものを遠巻きに扱った。
 スパルタの船にはギリシア本土の商品を持ってきた行商人も乗っていた。王の妻たちに見せるための煌びやかなめずらしい品もあり、いかつい面構えの使節団より遙かに王城で歓迎された。
「どうぞお手にとってご覧ください。イオニアの亜麻布やアテナイの銀細工など様々な品物がございます」
 商品を見るため女官たちが群がった。怪しまれないようアキレウスも女官に混じって品物を見る。装飾品だけでも貝輪や金細工など多様な種類があった。
「ここにない品物も船内にございます。もし奥方様に必要なものがあれば申し付けください。何でもご用意しましょう」
 行商人の男は明るいとび色の目で微笑みかけた。しかし抜け目のない表情で、アキレウスは何となくこの男を好かなかった。


 リュコメデス王に居ないと言われても使節団はしばらく滞在した。アキレウスは使節の一員が女官に自分のことを聞いているところに何度も遭遇した。
 月の満ち欠けが一周した頃、ようやく彼らは帰ると言い出した。王が送別の宴をひらくことを伝えると、使者団は余興にパンクラッチオンの試合を行いたいと申し出た。試合は神に捧げる形でおこなわれ、優れた選手をそれぞれ3人ずつ、籤(くじ)で組み合わせて戦うという。使節団にはスパルタの名高い戦士も加わっていた。小規模だがこの試合に勝てばスキュロス島の名誉はギリシア全土に轟くだろう。
 スパルタ人は勇猛な戦い方で知られている。その試合を間近で見られるとあって、アキレウスもときめかないわけがなかった。
 しかしアキレウスは女官たちと並んで遠い席で見ることになるだろう。すぐ近くで見たい気持ちを抑えこんだ。もしかするとそれが使節団の狙いなのかもしれなかった。


 王城の正面に試合場は設けられ、松明が数え切れないほど灯された。選手たちの影が火で揺めき白亜の王城におおきく伸びる。スキュロスの代表は修練場で会ったことのある人物ばかりだった。ほとんどがアキレウスの組み下した者だ。
 女官に扮しているアキレウスに気づく者はいなかったが、目が合えば「そこで何をやっている」と問われる気がしてじっと選手を見ることができなかった。複雑な心中だった。
「これより奉納試合をはじめる。1試合目の選手は前へ」
 スパルタ代表の男はたくましい筋骨の立派な体格だった。試合慣れしているのか微笑すら浮かべている。一方、スキュロス代表は顔が青ざめ、ひきつったような表情をしていた。
 予想通り1試合目はスパルタ側が勝利し、2試合目は辛くもスキュロス側が勝利した。
「すばらしい。同格の戦いだぞ」
 場外から熱い声援がおくられる。3試合目にスキュロス側で出たのは師範のレイケイオンだった。体に砂をまぶし、相手を見ながらじっくりと構える。スパルタ側はミロという男で、背丈はほぼ同じだが腕の筋肉がはち切れんばかりに盛り上がっていた。
「はじめ」
 声と同時に体がぶつかりあう。さっそくレイケイオンは拳で手を弾かれ、嫌な音がした。指の骨が折られたのだ。顔をしかめながらも手をひらき向き直る。今度は彼が肩を打撃しミロは体勢をすこし崩した。
 2人は距離を取ってじりじりと足を前にすすめた。お互いぶつかる機会をはかっている。先に動いたのはレイケイオンだった。かれが前に出るとミロも腰を低くして上段に拳を突き出した。その打ち込みを、レイケイオンはかわさず腹部にうけたまま肩に拳を打ち込んだ。二人は相手の吐く息を感じる近さでぶつかる。
 汗が地面に飛び散った。再びミロが腕を振り上げレイケイオンの頬を強打する。しかしレイケイオンはその腕を掴み目の前にきたミロの喉を前腕で強打した。ミロが激痛で倒れる。
 勝負はあったと思われた。だが次の瞬間、ミロは体勢を返して足で蹴り上げ、レイケイオンのかかとを掴みひねりを加えて地面にねじ伏せた。地面ににぶい音が響く。足首が完全に反対側にねじられていた。たまらずレイケイオンは親指をたて、降伏をしめした。
「勝負あり。勝者はスパルタ代表」
 審判の声がして、ミロは拘束を解きレイケイオンに手をさしのべた。ゆっくりと緩慢な動きで起き上がると、両者は握手を交わす。試合場は拍手で満ちた。
「惜しかった。アキレウスがいればスパルタに勝てたかもしれないのに」
 そんな声が聞こえた。
 アキレウスは試合の興奮が覚めやらぬまま、歯を噛み締めた。
 ──おれは、なにをやっているのだろう。
 試合場の闘志がアキレウスをゆさぶった。

 女官たちも拍手を送っていたが、試合場の周辺とは熱気がまるで違った。試合を見ながら世間話で盛り上がり、お互いの装飾品を褒めあっている時間の方が長い。
「さあさあ、女性の方は退屈でしょう。あなたがたに劣らず美しい宝石を揃えました。こちらへどうぞ」
 試合が終わった瞬間に行商人が割り込んできた。箱から出てきた真珠や金の耳飾り、ネックレス、宝石をあしらった紫の布など女性たちが一斉に注目する。アキレウスは弾き出されて、ため息をつきながら試合場に視線をもどした。
 リュコメデス王の表情はあかるくない。スパルタ側に敗れてしまったことが残念なのだろう。王が従者に何か囁き、従者は心得たというように下がる。

「そちらの麗しい女官どの」
 不意に声をかけられた。女たちの中でアキレウスがそっぽを向いていることが気になったのだろう。「宝石や美しい布にご興味はありませんかな? 何でもお望みのものを用意いたしますが」
「………」
 アキレウスは無言で首を振った。
 商人であれば商売に集中していればいいものを、この行商人は気が回りすぎている。アキレウスはすでにこの男の正体を疑っていた。男は日焼けした肌に骨太のがっしりした体を持ち、アキレウスよりもすこし身長が高かった。装飾品に夢中になっている女たちへ向き直ってうかべた微笑には威厳があった。
「もし女官がた、アキレウス様に会われていたらお聞きしたい。
 かの英雄の望みはなにかご存知でしょうか?」

 男がそう言ったとき、突然に試合場の方向がざわめいた。アキレウスが視線をやると王の側に大きなライオンが現れていた。体長は4メートルを超え、筋骨隆々の体と鋭い目は繋がれていても威圧的だ。どうやらスパルタ側に負けたことで、リュコメデス王はスキュロスの威厳を保つ方法を考えたらしい。
 ライオンは試合場の中央に寝そべり、勝者であるスパルタ側の代表がそのまえに進み出た。ライオンに対して彼らは縮こまって見える。反対の方向から美しい少女があらわれ、月桂樹でできた冠をささげもっていた。
 ──名前だ。
 光沢のある白い衣をまとい、松明の火をうけて煌めきを放っていた。アキレウスは思わず魅入った。
 彼女がライオンの前で勝者の頭に冠をかけようとしたとき、不意にファンファーレが鳴らされた。大音量に耳が震える。
 その瞬間、ライオンが驚いて跳ね起きた。猛然と立ち上がり目の前にいたスパルタの代表と少女に向かっていく。
「………!」
 アキレウスは息を飲んだ。スパルタの代表がかばい出たが易々とはじき飛ばされる。近衛兵が弓を射った。しかしライオンの毛皮が厚く進みを止められない。
 アキレウスは冷静に周りを見回した。
 ──ファンファーレはだれが鳴らしたのだろう。
 ざわつくなかで微動だにしない正妻のアイギナが目に入った。なるほど。
 アキレウスは行商人の男に言った。
「さきほど、貴様はなんでも用意できると言ったな」
「はい」
「では剣を寄越せ」


(9)

 アキレウスは剣を男から受け取ると、上空から鷲が急降下するように走り出ていた。ライオンと名前の間に躍り出る。
 恐ろしい猛獣と向き合ったとき、アキレウスは自分に問いかけた。
 ──ライオンと戦ったことはない。だが、どうしてここで引くことができようか。
 背後には名前がいて恐怖で動けなくなっている。猛りくるう獣のするどい鉤爪と頑丈な体をとめられる人間などいない。だが、神と人間のあいだに生まれたアキレウスならどうだろう。英雄ならどう立ち向かうだろう。
 心の中で唱えた言葉で、アキレウスの脚は前へとすすんだ。ライオンは新しい獲物に気付いて咆哮し、床が割れんばかりの力でアキレウスめがけて猛進する。アキレウスは目をいっぱいにひらいて臆せずみずから首元を晒した。ライオンは一目に首元を狙って飛びかかる。
 瞬間、彼はすかさず左腕を突き出した。猛獣の熱い息が顔にかかり牙は左腕に深く食い込む。これが狙いだった。痛みをこらえ腕に力をいれて猛獣の牙を捕らえた。そして、全力を込めて猛獣の鼻面を打撃する。
 ライオンは泣くような細い声をあげた。そこにアキレウスが剣で首筋を刺し、ライオンはどうと倒れてうごかなくなった。濃い血の匂いがした。

 ──母上にはもう、アキレウスが隠れて身を守る男ではないことを分かっていただくしかないな。
 アキレウスが猛獣から剣をぬく。辺りは彼に注目して静まりかえっていた。
 ──英雄の力は、立ち向かうことを欲しているのだから。
 倒れたライオンを前にもう正体を隠すことはできなかった。しかしアキレウスには、自分の名を明かすより先にすることがあった。
 獣のかたわらに無傷の名前がいた。アキレウスの胸に安堵がこみあげる。抱き寄せたい気持ちを抑え、アキレウスは手をさしだした。
 ──名前がこの手をとらなければ……。
 命をまもったのだ。それだけでいいと思うつもりだった。しかし名前は迷うことなくアキレウスのさしだした手をとった。
「アキレウスさま……」
 沈黙に耐えかねたように、名前がアキレウスの名前を呼んだ。か細くふるえる声に、彼は名前がいま何を訴えようとしているか分かった気がした。名前はたぶん、これまで自分の身にあった出来事を聞いて貰いたがっているのだ。
「名前……」
 名前はアキレウスに抱き寄せられると、ほとんどしなだれかかるように身を寄せた。骨細で柔らかい。名前の身体の香が、アキレウスの鼻にとどいた。
 しかし王の側にあがる名前が抱き合うことを許されるはずがない。ふるえがとまり、冷静になった名前は体を固くしてゆっくりとアキレウスの胸から離れようとした。だがアキレウスは名前を強い力で抱き寄せた。
「このままで」

 いとおしい幼なじみの少女を抱きしめながら、アキレウスの中ではっきりとしたことがあった。
『答えを知らずとも追求することはできる。追求すればするほど正しさ≠ノ近づき、強さ≠手にするのだ』
 ──答えは知らない。だが自分の力をただしく使うということは、今こういうときなのだ。
 アキレウスは名前を抱きしめたまま、まだ猛獣の血がついている剣を高くかかげた。
「我が名はアキレウス。ペーレウス王と女神テティスの息子である。スパルタの使節団よ、探していた英雄アキレウスはここだ」
 アキレウスの宣言に、スパルタの使節団、スキュロスの人々からもざわめきが起こった。とくにスキュロスからが大きかった。皆、母テティスが課した制約を守るためにアキレウスが隠れていたことを知っているのだ。
 ──その制約も、ここまでだ。
 アキレウスはざわめきを静かに受け流し、リュコメデス王に向き直る。
「リュコメデス王。私は英雄として戦争に参加し、スキュロス島に栄光をもたらすことを約束します」
「それは……」
 リュコメデス王は神妙な面持ちでアキレウスを見た。女神テティスの制約を彼がやぶることに戸惑っているようだった。
「アキレウスどのは客人だ。私には許しが出せない」
「では父ペーレウスの代わりに、私が戦に出ることを許していただけないでしょうか」
 アキレウスは大博打に出た。腕の中にいる名前を抱きしめ、はっきりと宣言する。「あなたの娘を妻とし、リュコメデス王の息子として戦に参加したいのです」
「我が娘とはどの姫のことだ?」
 リュコメデス王はアキレウスに視線をそそいだ。彼が抱きしめているのは、王の側にあがる名前だ。まさかと王がつぶやくと、アキレウスは満足げにうなずいた。
「はい。私が所望するのは幼いときから共に育った名前です。彼女を王の養女にし、私の妻にください」
 腕の中で名前が息をのんだ。そんなことが叶うわけがないと、アキレウスを見上げる。アキレウスはぎゅっと名前の肩を抱きしめた。
「王にご迷惑をおかけすることはありません。多くの栄光をスキュロス島に持ち帰りましょう」
「………」
 リュコメデス王は沈黙した。うつくしい名前を惜しいと思うか、アキレウスを娘婿として受け入るほうがいいか。
 彼の中で合点がいったようだった。彼は静かにうなずいた。
「よろしい。名前を我が娘とし、アキレウスどのに嫁がせよう」
 王の言葉に、緊張して静まりかえっていた人々は歓声を上げた。スキュロス島には栄光がもたらされるだろう。
「しかし、証人を立てねばな……」
 と言って、リュコメデス王はあたりを見渡した。英雄と王族の結婚だ。ふさわしい身分の証人がのぞましい。
「ならば、私が証人になりましょう」
 思わぬところから声が聞こえた。どこから声が聞こえたのかと人々が見渡していると、行商人の男が立ち上がった。
「私はイタケの王オデュッセウス。アキレウスさまの参戦と名前姫とのご結婚をお祝い申し上げます」

 しばらく呆然としていた名前は、アキレウスの願いが聞き入れられたことを理解すると腕の中でふたたび震えはじめた。
 名前はこの申し出が嫌だったのではないかとアキレウスは今更になって心配になった。しかし震えていたのは涙のせいで、名前はすがるようにアキレウスの背を掻き抱いた。
 アキレウスはようやく安堵して息をついた。
「名前はおれの腕の中でふるえてばかりだな」
 喜びで震える名前に額を寄せた。


(10)

 おだやかな初夏の日差しが、左手につづく草原への道を照らしている。その先には花が咲き乱れる草原があった。
 アキレウスは父ペーレウスがくれた愛馬に戦車をひかせ、名前が落ちないように腕をまわして操縦していた。名前は足元のゆれを感じながら、アキレウスの胸に背をあずけていた。
「おぼえているか」
 アキレウスは唐突に言った。「おまえは草原に行くのが好きで、いつも両手いっぱいに花を摘んで帰ったな」
「はい。でも花を摘みに行きたかったのはアキレウスさまと一緒にいられるからでした」
 名前はおだやかに微笑した。
「王城に出仕するまえに、私がアキレウスさまの家をたずねたのをおぼえておられますか」
「よくおぼえている」
「王城に行くのがいやで、あのときはお嫁さんにしてくださいと頼みに行ったのです」
「………」
「でもあなたに会えなくて、家に戻ってしばらく泣いていました」
「おれは名前をさがして王城に向かう道や草原に行ってしまったのか」
「はい。でもそれを聞いたとき、嬉しかった……」
 名前はアキレウスを見上げ、そっと手で彼の唇にふれた。アキレウスは優しくそれに応えた。やわらかく重ねた唇は深くなりおたがいの若さを感じあった。
 唇がはなれると、アキレウスは名前に言った。
「おれはこれから戦に出る。待っていてくれるか」
「もちろんです」
 英雄の妻として覚悟していますから、と名前はほほえんだ。アキレウスはその表情がたまらなく愛おしくて耳元でささやいた。
「英雄の妻になるということは、その子供を産むということだぞ」
 そう言って、名前の腹をやさしくなぜた。赤面した名前に「まだ子どもだな」とアキレウスはからかう。
 名前の髪飾りに手を伸ばし、おもむろに外した。
「おまえには宝石よりもこちらのほうがいい」
 アキレウスは花の冠を名前の頭にのせ、抱き寄せた。彼女の髪からは花のあまい香りがした。


 伝説にはこうある。アキレウスとリュコメデス王の娘とのあいだに男の子が生まれ、エペイロス王家の開祖となった。
 アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)はその子孫である。


 <おわり>


最後まで読んでいただき有難うございました。
「あとがき」も良ければぜひ。

2021.04.04. 改訂を行いました。



  
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