三輪め
(6)
年が明けてアキレウスは15歳になった。さっそく登城した彼は、母親からの思わぬ仕打ちに心が折れそうになった。
アキレウスが案内されたのは警備の兵士がたつ城内の表ではなく奥である。しなやかな純白の衣やサフランで染めた布、羽毛などを渡されたときは冗談かと思った。女官たちに囲まれて衣をまとい、両肩をピンで留め、腰にたるみを持たせて帯を締めると、絶対に親友のパトロクロスに見られたくない姿になった。しかしまわりから見ると違和感ないようで、女官たちから大股で歩かないようにとだけ言われた。
「アキレウスどのには大変申し訳ない。しかし母君たっての願いでな」
謁見したアキレウスにリュコメデス王は申し訳なさそうに言った。
「そなたを探しにスパルタ軍の使者が来るだろう。近く大きな戦があるそうだ。その間は城の後宮に隠れ、ピュラーと名乗っていただこう」
戦についてはアキレウスの耳にも入ってきていた。トロイアの王子パリスがスパルタの王妃ヘレネに横恋慕し、彼女を連れてトロイアに帰ってしまったのだという。夫であるメネラウス王がトロイアに赴いてヘレネの引き渡しを求めたが、パリスはこれを断固拒否した。メネラオスは弟アガメムノンとともに全ギリシアに呼びかけ、集まった連合軍は史上最大の規模になろうとしていた。両軍の使者が英雄たちに誘いをかけて回っているのだという。
いっそ戦に出てみたい、とアキレウスは思った。しかし王の前で冷静にふるまうだけの自制心が彼にあった。胸中は穏やかではなかったが、頭を下げて王命を拝する。
「わかりました。お心遣い痛み入ります」
これが王かとアキレウスは思った。名前への想いは胸に閉まってある。リュコメデス王は血色が良く大柄で、立派な髭をたくわえた男だった。この男ならば名前は安心だろう。
ちょうどそなたに頼みたいことがある、と王は続けた。
「この春に側室になる名前とは隣家の仲だったそうではないか」
「はい」
「慣れない王城での生活に緊張がつづいているようだ。旧知の仲であるそなたが会いにいけば心が休まるに違いない」
「そうでしょうか……」
そう言いつつもアキレウスは胸の奥が高鳴るのを感じた。ことの成り行きはともかく命令をうけ入れれば名前に会える。二度と会えないと思っていた彼女に会えるのは、女装の恥ずかしさを差し引いても喜びが勝っていた。
「会いにいってくれるだろうか」
「わかりました」
すっくと顔をあげてアキレウスは王をみた。リュコメデス王は微笑して彼を見ていた。
謁見を終えたアキレウスが回廊を歩いていると、後ろにいた女官がそっと耳打ちした。
「アキレウス様。名前様にお会いになるのは慎重になった方がよろしいかもしれません」
「………」
アキレウスは無言で振り返り、あたりに人が居ないことを確認して空いていた部屋に入った。真意を疑いながらも詳しく話せと言う。女官はかろうじて聞き取れるほど小さな声で話した。
「王に2人の男子がおられることはご存知でしょうか」
「一応は」
「では、ご長男は側室カレ様のお子で、ご次男は御正室アイギナ様のお子というのもご存知でしょう。王の世継ぎをどなたとするかで王宮内では争いがあるのです」
アキレウスは慎重に頷いた。すでにリュコメデス王の長男は成人して後継者に指名されていた。しかし正室に待望の男子が生まれて以来、不穏な動きがみられるようになったという。
「王は何も言われないのですか?」
アキレウスが言うと、女官はさらに声をおとした。
「いいえ、実際のところは派閥間の主導権争いなのです。お2人の肩を持つことを理由に豪族たちが争っているだけのことです」
「………」
王が口を挟まないのは他方の派閥を敵にまわさないためだ。また豪族同士で対立している方が王にとって都合のよい状況なのかもしれない。
「そのような状況で世継ぎ問題をひっくり返そうとする一派の勢力争いに、名前様も無縁ではないのです」
奥に召し上げられることが決まり、王はたびたび名前の部屋を訪れた。そのうち名前の身辺では奇怪なことが頻発するようになった。
名前の毒見係の女官が倒れた。名前本人も服を着たら首筋に針がささって気を失いかけた。王城内を散歩している途中に迷い込んだ野犬に襲われた。
世話をしていた女官たちは震えあがった。自分に危害がおよぶのではないか。それに食事や衣類、どれも自分たちが用意したものだ、咎められるかもしれない。それ以降、名前の身の回りをかいがいしく世話する女官も減ったということである。
「なおさら会いに行くべきだと思われるかもしれませんが、あなた様がお会いになるとよけいな噂を立てられる可能性があります。慎重に行動なさってください」
「………」
では、と女官は一礼すると先に部屋を出た。時間差を作るためしばらくしてからアキレウスも回廊に戻ったが、王の前で感じていた名前に会えるという喜びはもうなかった。
──名前。
目の前の回廊をもっと奥にいけば、王の妻たちが住まう最奥につながっている。名前がどの部屋にいるかは分からない。それでも彼女の白い面影がはっきりと浮かんで、アキレウスは胸の奥が苦しくなるのを感じた。
物静かで臆病な名前だ。のぞんで奥に入ったわけでないのに、こんな状況に置かれてしまった彼女を気の毒に思った。かぼそい身で降りかかる災厄にどれだけ不安な思いをしているだろう。
慎重にと言われたばかりだったが、アキレウスは足が奥に向かうのを止められなかった。
(7)
奥につづく廊下は天井が高く、色彩豊かな壁画も見事だった。高い位置にある窓から差し込む光は回廊全体を照らすように工夫されている。しかし侵入者を防ぐために窓は小さく窮屈で、まるで鳥籠のようだとアキレウスは思った。
アキレウスに気づいて奥仕えの女官たちが2人出てきた。
「こちらにご用でしょうか」
女官たちは彼が男だと知らないようだった。しかし男性がいるべきでない場所に自分があらわれて無用な混乱をさせたくない。アキレウスはできるだけやわらかい声で言った。
「名前様に用があって参りました。以前お住まいだった家の隣に住んでいたのです。その者がお目にかかりにきたとお伝えください」
「名前様に……」
女官たちは沈黙した。「わかりました。お会いになるかたずねて参りましょう」
女官の一人が奥に消え、足音が遠ざかる。残った女官が武器を持っていないことを確認し、待つ間アキレウスをじっと観察していた。
しばらくして再び足音が近づき、さっきの女官が戻ってきた。お入りくださいと小さく頭を下げる。
「名前様がお会いになるそうです」
アキレウスは一礼し、さらに奥へと進んだ。白い大理石が皮靴の足音を反響する。いくつもの部屋の入り口を通り過ぎ、女官たちがぴたりと止まった。アキレウスはにわかに胸がさわぎ立つのを感じた。
──1年ぶりか。
きちんと会話をしたのはもっと前だが、最後にすれ違ったのはほんの1年前だった。ずっと昔のように感じた。ほとんど変わっていないだろうと思う一方で、アキレウスは名前の変貌が怖かった。あどけなかった少女が、今は名前様として王城の奥でかしずかれているのだ。
部屋の中は廊下とおなじように天井が高かった。急に差し込む光がふえて、アキレウスは目がくらみそうになりながらお辞儀をした。
「どうぞ、お顔を上げてください」
正面の席で声がした。静かな声だったがはっきりと聞こえた。すこしだけ大人の声にかわっていたが、やはり名前の声だった。
「失礼ながら……」
アキレウスは顔を上げた。すると名前は想像したような豪華な衣装を羽織ることなく、女官がまとっているような簡素な衣を着ていた。髪飾りの宝石だけが輝いて見える。頬は痩せてすっきりとし、化粧のせいか白い肌はさらに透きとおって見えた。しかしよく見ると丸い目や小さくて形の良い唇は名前のままだった。
大きく違っていたのはアキレウスを見つめる目だ。すれ違ったときに逸らしていた目が、今はしっかりと彼をとらえている。それが名前の印象を大人びたものに見せていた。
「まあ、どなたかと思いましたが。おひさしゅうございました」
「名前様も……」
それ以上はつづかなかった。アキレウスは熱いものがこみ上げてきて、胸がつまるように思いながらつづけた。
「……ご出立の日、挨拶に来てくださったそうですね。あのときは会えずに申し訳ありませんでした」
「いいえ……伺ったときが悪かったのでしょう」
「実はあのとき追ってみたのです。王城に向かう道をさがして、草原にも行きました。あなたがいるのではないかと思って」
再開した喜びでアキレウスの心は一年前のそのときに戻っていた。名前は一瞬なつかしそうに目を細めた。心のなかでどんな思いがめぐっているのだろう。彼女の目はすこしだけ潤み、やがて優しくはっきりと言った。
「いつまでも子供ではありません」
「そうですね」
名前の言葉はアキレウスを現実に引きもどした。彼女は堂々として、アキレウスをしっかりと見ている。想像していた王城の奥で身をちいさくして震える少女とはちがった。アキレウスは名前が自分よりも冷静であると感じた。
「お元気そうでなによりです」
「ええ」
アキレウスは喉のあたりまで出かけていた言葉を言わないことにした。
──あのとき、何を言いに来たのか。
そんな事よりも今のことを考えるべきだと思った。あの臆病だった名前が置かれた立場を受け入れているのだ。奥の女性としてふさわしい振る舞いをしようとしている。その変貌ぶりは美しく神秘的ですらあった。
するとアキレウスのなかで不思議に、身を隠すため女人の姿をしている自分への恥ずかしさが薄れていった。彼女はアキレウスが母親の制約でしばられているのを知っている。今もその目にかれを悼むような優しさがあった。アキレウス自身を見ようとしてくれていた。
「しばらく王城にいます。困ったときはいつでも声をおかけください」
こうなるまでにどれだけ名前は苦心しただろう。以前の名前を知っているからこそ、いじらしく愛おしかった。
「ありがとう存じます」
名前はゆっくりと手をまえに差し出した。白くてほっそりとした手だった。草原でひいたころの手と比べると細さが際立っていた。
──名前が幸せならいいが……。
か細い手をみて女官の言葉を思い出した。あの話が事実なら、名前の未来は決して楽観できるものではなかった。世継ぎや勢力争いに巻き込まれて安全に過ごせるはずがない。
アキレウスは手を取ると、そっと手の甲に額を寄せた。白く柔らかい肌の感触は永遠に忘れないように感じた。
ふたたびお辞儀して部屋を退出する。あかるい部屋にいたせいか廊下はほんのり影が落ちて見えた。短い時間でアキレウスの心は大きく変わっていた。
──同じだ。
王の側に上ることは女性として幸せなことかもしれない。しかし権力の上に生きる以上、生き方を変えられ、抗えない運命に身を置くしかない。母の制約にしばられたアキレウスのように。
むかしとは違う堂々とした名前の姿が、アキレウスの胸をどこまでも焦がした。胸にしまったはずの思いが目覚めていた。それは名前への思いに気づいた時とはちがう、強い覚悟をともなっていた。
運命や制約に抗う方法はないのだろうか。アキレウスの脳裏にパトロクルの言葉がよみがえる。
『答えを知らずとも追求することはできる。追求すればするほど正しさ≠ノ近づき、強さ≠手にするのだ』
──おれは、どうすれば名前を守れるだろう。
学ばなくてはならない。自分のためだけでなく名前を守るために。
アキレウスは廊下を戻りながらも何度も奥をふりかえった。
<つづく>