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  水面に浮かぶ月


(いつだって、楽しい時間は終わりを告げる)


「だからね、リドル。もう……さよな」

言葉の続きを遮るように強い力で引き寄せられた。

ぱちゃりと水が跳ねる。
水面の月が波紋と共に揺らいだ。


突然の行動に驚いて、瞬く。
視界いっぱいに広がる黒。辺りを包む暗闇より深いそれはリドルのローブの色だ。抱きしめられたのだ と数拍遅れて気が付いた。

ぱたりと頬を打つ水滴。そっと身動いで上へと視線を向ければ、すぐ傍にリドルの整った顔があった。濡れて艶を増した漆黒の髪。月の光を受けて艶めくそれはただでさえ白い肌を一層際立たせている。

「……こんな風に感じるだなんて、思わなかった」

ぽつり と。
肩口に顔を埋めたまま呟くリドルの声は小さく擦れていて。なんだか、ものすごく────胸が締め付けられた。

「勝手だよ、君は。突然やって来て、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して。……僕の心だって今までこんなに乱された事は無かった」

ぐっと。抱きしめる腕の力が強くなる。

「いなくなるなんて、許さない」

闇色に艶めく髪の間から鳩の血色の瞳が真っ直ぐに見つめてくる。ぎらぎら と痛い程鮮烈な紅い闇が揺れた。
水に濡れて冷えたローブも抱き寄せた腕も リドルの全てが冷たいのに、耳朶にかかる吐息だけが、熱い。

「……それでも私は、帰らなきゃ」

ゆるゆると力の抜けた声で、精一杯、囁くように告げる。

「駄目だ」
「、リドル」
「駄目だよ」
「あのね、」
「駄目だ!! 」

激昂し、叫ぶ。泣きそうな顔をしていた。あの、リドルが。誰よりプライドが高くて弱さも脆さも全て綺麗に笑顔の裏に押し隠してしまうひとが。

「……わかっているくせに。もう、時間が無いって」

泣きそうな表情で、笑いかける。震える声でなんとか絞り出した言葉は、自分でも驚く程小さなものだった。

「君は、帰りたいの? 」

ぐっ と眉を寄せてリドルは問う。瞳の中で紅い闇が揺れる。声の端に怒りが滲む。

「意地悪だね、リドル。そんな事を聞いてどうするの? 」
「っ……! はぐらかすな!! 何で君は、いつもいつも答えないで誤魔化すんだ……! 」

怒り、悲しみ。
ただの執着という枠を超えた、情。弱みにつながる人の感情。

トム・リドルという人間はそういったものとは無縁だと思っていた。いや、それをこうして表に────ライムに対して見せる日が来るとは、思わなかった。

それがいいのか悪いのか、わからないけれど。“嬉しい”と、思ってしまった。だってそれは、リドルがライムに気持ちを傾けてくれているという何よりの証拠だから。

何て自分勝手だろう、と自嘲する。

「いやだよ」
「────っ、」

声が震える。ぐっ と手のひらを握り締めて、ライムは詰めていた息をゆるゆると吐き出した。

「帰りたくない。嫌だよ。離れたくない。……本当はずっと、此処に、リドルのそばにいたい」
「、なら」
「でもね、駄目なの。無理なんだよ。どう取り繕ったって私はこの時代の人間じゃないし、きっと此処にはとどまれない。……だって、もう」

────影が、無い。

今宵は満月。灯りも無いこの場所で、月明かりは静かに蒼白い光を投げ掛け地面にくっきりと陰影を描いている。けれど、ライムの足元にはあるはずの影が無い。それに気付いた時から、ううん、本当はきっと……もっとずっと前から覚悟は決めていた。俯いたライムの視線の先、影の無い水面を見たリドルの顔がくしゃりと泣きそうに歪んだ。

「ふざけるな」

痛みを堪えるように吐き出された声は地を這うように低い。その重く鋭い響きに ライムはああ、リドルも泣くんだなと思った。

感情を顕にするリドルは何だか不思議で、哀しくて、でも嬉しかった。この人だって、他の人と別に何も変わらないじゃないか。

例えこれから先の未来で彼がどんなに酷い事をするのだとしても、今此処にいるリドルにはちゃんと感情があって、怒ったり、笑ったり、泣いたりする。
ものすごく捻くれているし、傲慢だし、残酷なところもある人だけれど。


リドルにも、心がある。
誰もその本心に、気が付かないだけで。きっと、独りの時間が長過ぎただけで。
今なら、まだ──────ああ、でももう……時間だ。

「! 、ライム」

異変に気付いたリドルが、ハッと目を見開く。

するりとリドルの腕から抜け出して、ライムは真っ正面から向かい合う。
歪む視界。滲む涙を瞬きで払って、精一杯の虚勢で微笑む。

私は上手く、笑えているだろうか。

「ごめんね」

傍にいられなくて。

いっぱい迷惑かけたのに、ちゃんとお礼も言えてない。ああでもリドルなら口先だけの礼はいらないから見返りをよこせって言いそうだけど。残念ながら、もうそんな時間も無いらしい。言いたいことは山ほどあるのに、そのどれもが言葉にならない。伝えられないまま。

指の先から、きらきらと光の粒子が舞う。いつか見た、光る砂のように。

「好きだよ、リドル」

言い逃げなんて、ずるいだろうか。それでもこの気持ちだけは、伝えたかった。

透き通ってゆく。手が、足が、存在自体が消えてゆく。全てが希薄になる。
急激に眠気が躯を包み、視界が揺らいだ。音が遠ざかる。感覚が薄れてゆく。

世界は蒼くて、その中でリドルの瞳の紅だけが鮮やかだった。

「さよなら」

囁くような小さな声は、果たして届いただろうか。

リドルが口を開く。一拍遅れて、声が出た時には、そこに呼び掛けた相手はいなかった。

「ライム……」

伸ばした手は行き場を無くして力無く下ろされる。


てのひらを 呆然と、見つめる。


────掴めなかった。

生まれて初めて心の底から欲したものは、容易くこの手をすり抜けた。

空虚で。空っぽで虚しくて、大切なものが抜け落ちたように思えるのに、痛い。

「もう、二度と……」

頬を伝う雫だけが、僅かに温かい。


そっと零れ落ちた雫は小さな波紋を呼び、水面の月が、歪んだ。


(もう二度と、届かない)


夜の闇に輝く月は、現れた時と同じで、幻のように消えていった。


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