聴こえない子守唄
その日は朝からやけに身体が重いな、とは思っていた。けれど授業は朝からぎっちり入っていたし、唯一の空き時間には薬草学のレポートも仕上げなければならなかったから、気のせいだろうと考えていつも通りに過ごしていた。
思えばそれが間違いだったのだ。
「風邪ですね」
強い口調でそう診断を下した校医の言葉に、ライムは思わず顔を顰めた。
朝の時点では「少しだるいなーおかしいなー」くらいの違和感だったのに、時間が経つにつれ身体の重さは増してゆき、午後には頭痛や吐き気までしてきた。ああこれはまずいな、と思った時にはもう遅く、ライムは移動中の廊下で倒れたらしい。らしい、というのはライム自身にその時の記憶が無いからだ。
「全く! 何でもっと早く来なかったんですか? 自分の体調くらい、きちんと把握しておきなさい」
「す、すみません、マダム……」
マダムの言う事は正論だ。言い訳のしようもない。いい歳して風邪で倒れるだなんて、本当に情けない。一応ここでは未成年ということにしてあるが、本当はもう大人なのだ。もっとちゃんとしなければ、とライムは自省した。
「元気爆発薬も効かないなんて……倒れるまで無理をするからです」
既に薬は飲んでいたが、不思議な事に一向に良くはならなかった。ただもくもくと耳から煙が上がっただけで、あんなに恥ずかしい思いを我慢したのに何だか損をした気分だとライムは思った。
「貴女は少し薬の効きが悪いみたいですから、もっと気をつけないといけませんよ」
「……はい」
「ひとまず通常より強めの薬を出しておきます。量は様子を見ながら調整しましょう」
「すみません、お願いします」
ライムが差し出された薬を受け取り大人しく飲み干すと、途端に口の中に耐え難い苦味が広がった。噎せそうになるのを何とか我慢し慌てて水を口に含んで、押し流すように飲み込んだ。
「うっ、にっ、苦い……! 」
「薬ですからね」
「こ、これをしばらく飲むんですか?一回だけじゃなくて? 」
「勿論です。効きが悪いようでしたら、より強いものに変える事になりますが」
「これより……その、苦いんですか……? 」
「ええ。良薬は口に苦し、ですからね。これに懲りたらもう無茶はしない事です」
「もう二度としません」
即答したライムにマダムは苦笑した。
「とにかく、今日はここに入院です。ゆっくり眠って安静にしていなさい」
「はい、マダム」
ライムが大人しくベッドに潜り込むのを見届けると、マダムは薬瓶を抱えてカーテンの向こう側へ消えた。
「あー……だるい」
視界は奇妙に歪んで傾くし、身体に上手く力が入らない。頭は痛いしだるいのだが、ライムはずっと違和感を覚えていた。
感覚が、やけに鈍い気がするのだ。
いくら何でも倒れるまで不調に気付かないなんておかしい。ライムは一度何かに集中すると周りが見えなくなるきらいはあるが、そこまで我慢強いわけでは無い。
薬の効きが悪い以外にも、身体に変化が起きているのではないだろうか。
そう考えて、ぞくりと背筋が冷えた。
「縮み薬、飲み過ぎたかな」
毎日少しずつでも飲み続ければ影響が出るのかもしれない。かと言って、今更飲むのはやめられない。誰か魔法薬学に詳しい人に相談出来ればいいが、事情は話せないし、知識がある人間は限られている。
「厄介だな……」
そうしてしばらくぐるぐると思考の渦に嵌っていると、医務室の窓を叩く音がした。窓を開ける音と共に聴こえた羽音から、ライムはフクロウ便だろうと当たりをつける。その予想は当たっていたようで、少ししてからマダムがやってきた。
急用で少し医務室を離れると言うマダムに「大人しく寝ているので大丈夫です」と返して送り出すと、ライムは再びベッドに潜り込んだ。
「ふう……」
一人になると途端に心細くなるのは体が弱っているからだろうか。一人でいる事には慣れたと思っていたのだが、まだまだ甘いらしい。
白いカーテンに仕切られた空間は静かで穏やかだった。寝返りを打つと、右耳のピアスが当たって少し痛んだ。
再び仰向けになって古びた天井を見つめている内に、眠気は緩やかに目蓋を下ろしていった。
****
ふと、耳元で誰かの声が聞こえた気がして、ライムは唐突に目覚めた。
何だか夢を見ていた気がするのに、記憶の糸を手繰り寄せてもそれは途中でふつりと千切れていて、少しも思い出す事は出来なかった。
「目が覚めたかい? 」
その声に、ライムはゆっくりと瞬きを繰り返す。霞む視界に映った予想外の人の姿に、ライムは自分がまだ夢の中にいるのではないかと思った。
「リド、ル……? 」
「やあ、目が覚めたかい? 」
「……どうしてリドルがここにいるの」
「君の姿が見当たらないから、聞いたんだ。廊下で倒れたんだってね。風邪かい? 」
「……そうみたい」
「薬は飲んだの? 」
「うん」
「その割には辛そうだ」
「私、ちょっと薬が効きにくいみたいで」
掠れ気味の声にリドルは眉を寄せる。珍しく少し真面目な顔で、ライムに問い掛けた。
「マダムは、何て? 」
「強めの薬を出したから、とりあえず様子を見るって。効かないようならもっと強い薬を使うらしいわ」
でもあの薬は苦いから嫌だな、とこぼしたライムに リドルは呆れたようにため息を吐く。
「苦いから嫌だなんて、まるで子どもじゃないか」
「えー、大人になったって苦いのは嫌だと思うけど」
「だが大人はそんな事は言わないさ」
「我慢するのが上手いから、ね。本音はきっと一緒よ」
「屁理屈だね」
リドルはため息を吐いて椅子に深く座り直すと、長い足を組み替えた。頬杖をついてライムを見下ろしたまま、愉しげな声で言った。
「いつもと立場が逆だね」
「────そうだね」
前は、これが普通だったのに。
いつだってリドルは上手で、ライムは翻弄されてばかりで。今でもリドルに勝てないと思う事は多いけれど、昔に比べたら随分と減ったように思う。
けれどそれをリドルが知る由も無い。
「弱味でも握れると思った? 」
ライムが冗談めかしてそう言うと、その言葉が予想外だったのか、リドルは僅かに目を瞠った。
「それが出来たら話は早いんだけどね。君はそう簡単に弱味を握らせないだろう」
「……そうだね」
そうだ。それでいいはずだ。なのに何故、違和感を覚えたのだろう。
前と違うから?
でもそれは仕方の無い事だ。前と同じでは駄目なのだ。変えるために来たのだから。
だからこれでいい。……いいはずだ。
「夢……そっか、夢か」
そうだ。あれは過去の夢だった。だからこんなに懐かしくて、そしてほんの少しだけ、痛い。
ぼんやりとだが、夢の輪郭が見えてきて、ライムはぎゅっと目をつむる。
「夢を、見ていた気がするの。よくは覚えていないけど……何だかすごく、懐かしい夢を」
「昔の夢かい? 」
「多分ね。友達が、いたような気がするから」
「君が前に住んでいた所の? 」
「うん。……みんな、とても優しかった」
「そう」
相槌を打つリドルの声は静かで、珍しく聞き手に回るつもりのようだった。だからこそライムは気負い無く話す事が出来た。話すつもりの、無かった事まで。
「風邪が治ったら、手紙でも出せばいい」
「……そうだね」
届く事は、無いけれど。
過去の残像にひどく焦がれる。他愛無い事で盛り上がり、くだらない話で夜が明けるまで話し込んだ。笑い過ぎて涙が出たり、走り回って息が切れて、手を取って、取られて、ただひたすらに駆け抜けた日々を。
もうあの時代には戻れない。もうあの日々は何処にも無い。過去を塗り替えるってそういう事だ。そうなる事を理解した上で、ライムは再びこの時代に来た。後悔なんてしていない。それでも時折こうして気持ちが揺らぐのばかりは、どうにもならないのだろうか。
想いが胸にこみ上げて、息を止めて飲み込んだ。
「リドルは、後悔した事ってある? 」
「何だい、急に」
「んー……なんとなく? 」
「無いよ。熱があるからおかしな事ばかり考えるんじゃないかい」
「……そうかな」
「そうさ」
「そうかも」
「なら、早く眠る事だね。校医が戻るまでなら、ここにいてあげるから」
思い掛けない申し出に、ライムは瞬いた。まじまじとリドルを見つめるが、リドルは発言を撤回する様子も無い。
「何だい、その顔」
「……取り巻きから逃げたいだけじゃないの? 」
「人の好意は素直に受け取っておくべきだよ、ライム」
「好意? ……リドルの? 」
まるっきり信じていないライムの様子に、リドルはわざとらしく顔を顰めて見せると、掛け布団を無理やり引き上げてライムの顔を覆った。
「ちょっと! 何す」
「いいかげん大人しく寝なよ。悪化しても知らないよ」
「あ、うん……」
途端に大人しくなってごそごそと布団を直すライムを見ながら、リドルは小さくため息を吐いた。何だか最近リドルのため息ばかり聞いている気がするな、とライムは思った。
「ねえリドル」
「ん? 」
「……これって、借り? 」
「さあね」
リドルは僅かに頬を緩めた。それは微笑と言うには固くいびつなものだったが、ライムは何故だかそれに安堵した。
「ほら、寝なよ。ちょっとは眠気が出てきたんじゃないかい? 」
「ん、ちょっと……眠くなってきた……かも」
薬が効いたのか、遅れてやってきた眠気は徐々にライムの気持ちを落ち着かせた。ゆらゆらとゆりかごで揺られているような安心感と怠さに腕を引かれて、急速に意識が沈む。
「おや、すみ……リ、ドル」
「…………おやすみ、ライム」
ぼんやりした視界に映るリドルの姿は、輪郭がぼやけてその表情まではよく見えなかった。
囁くような小さな声。でも確かに聞こえた。それを合図に目蓋が落ちる。
「おやすみ」
毒の無い声は耳に心地良く、ライムはそのまま深く眠った。
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