×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -



  これが私の道標


夜の帳は静かに下り、昼の生き物は皆眠りに落ちた真夜中過ぎ。談話室にいるのはリドル一人だった。
しんと静まり返った緑の世界。暖炉の炎は消えかかり灰に埋もれているが、新たに薪をくべる者はいない。変身術のレポートの最後の一行を書き上げて、リドルはようやく顔を上げた。

書き終わったレポートをざっと見直して誤字が無い事を確認してから杖を振り、インクを乾かし羊皮紙をくるくると巻く。広げた書籍を閉じて積み上げ机の上を片付けると、リドルは軽く伸びをした。

「一時、か」

時計の針を見れば既に日付を跨いでいた。予定より時間が掛かってしまったが仕方が無い。厄介な課題を片付けた事で、リドルは少しだけ機嫌が良かった。

杖を振って暖炉の火を消し、荷物を手に立ち上がる。薄暗くなった談話室を抜けて部屋へ戻ろうと男子寮への階段を下りるリドルの耳に、ふと小さな足音が聞こえてきた。

(誰だ? )

こんな真夜中に。忘れ物だろうか?
音は女子寮の階段の方からするようだった。リドルは咄嗟に壁に張り付き、暗がりに身を隠しながら談話室の様子を窺った。まだぼんやりと薄明るい談話室に現れたのは、ライムだった。

何故、こんな時間に談話室に? リドルの頭に疑問が過ぎった。随分と前に部屋に戻った筈だ。しかもこんな時間だというのに、ライムはまだ制服を着たままだった。

息を殺して様子を窺うリドルの前で、ライムはきょろきょろと辺りを見回していた。用があるのは談話室ではないようだった。消灯時間をとっくに過ぎているのに、まさか抜け出すつもりだろうか?

リドルのその懸念は当たった。ライムは談話室に誰もいないことを確認すると、迷わず出入り口の方へと足を向けた。灯りも灯さずに真っ直ぐ歩いてゆくその背中を、リドルは反射的に追いかけた。


****


ライムの足取りに迷いは無かった。足音を殺し、抜け道を使い、見回りの教職員と行き会う事も無くぐんぐん城の奥へと進んでゆく。入り組んだ道へと進む度に明かりの数は減り、細い廊下をほの暗い燭台の明かりがぼんやりと照らし出していた。
 
幾度目かのドアを抜けた先には床が無かった。ライムはぽっかり空いた深い穴に怯む様子も無く手早く呪文を唱えると、植物の蔦でできた簡易な吊り橋を渡り、深い堀の上を真っ直ぐ進んで行った。

少し時間を置いて、リドルは橋へと歩み寄る。吊り橋に指を這わせ、強度を確認した。

「……何処で、こんな呪文を」

リドルはその呪文を知っていた。五年生が使いこなすには少し難しいものだ。メジャーな呪文でも無い。どうしてライムが、こんな呪文を知っているのだろうか?

……わからない。わからない事だらけだ。

扉の前で立ち止まりると、ライムはしばらくそこから動かなかった。黒い木の扉に額を当てたまま、祈るように目を閉じて微動だにしない。

────どれくらい時間が経っただろうか。ノブを捻る小さな音が、耳に痛いほどの静寂を破った。

顔を上げたライムの表情がどんなものなのか、リドルの位置からは窺い知れなかった。開いた扉の隙間に吸い込まれるように入っていったライムの後を、リドルは静かに辿った。

(ここは────)

月明かりに照らされた部屋は広く、がらんとしていた。かつては豪奢な装飾を誇っていたであろう分厚いカーテンも今や無残に破れ、力なく垂れ下がっている。不思議と埃っぽくは無いものの、この部屋が滅多に人の立ち入らない場所である事は明白だった。特筆すべきところも無い打ち捨てられた部屋だ。ホグワーツにこんな部屋は無数にある。ただ、中央に置かれた巨大な鏡が、やけにリドルの目を引いた。
 
「ねえ────付いて来ているんでしょう? 」
 
さり気ない口調で、突然そう言ったライムの視線は鏡に向いたままだった。けれどその言葉は、紛れも無くリドルに向けられていた。

まさか。気付かれているはずが無い。

「トム・マールヴォロ・リドル」

予想に反して呼ばれた名に、リドルは思わず息を詰めた。
暫しの沈黙の後、観念したように深く長く息を吐くと、リドルは滑るように扉の影から姿を現した。

「いつから気付いていた? 」
「はじめから」
「そんな馬鹿な。それならもう少し──」
「──態度に出ているはずだ、って? 」

クスリと笑うライムに、リドルは僅かに眉を寄せた。

「伊達に色々経験していないからね、これでも」
 
青白い月明かりに照らされたライムの顔は人形のように白い。そこに浮かんだ笑みはどこか暗く、自嘲を孕んだものだった。

「深夜徘徊だなんて、褒められた趣味じゃあないね」
「ちゃっかり付いて来ておいて、それを言う? 」

見付かったことで開き直ったのか、いつものふてぶてしい態度に戻ったリドルに ライムは呆れたように肩を竦めた。
 
「こんな真夜中に目的ありげに寮を抜け出す姿を見かけたら、気になるのは自然な事じゃあないかい? 」
「それで声を掛けて止めるならまだしも、後をつけるなんて変わった監督生さんね。見つかったらまずいんじゃない? 」
「そんなヘマはしないさ」
「自信家だね」
「君だってそうだろう」
「リドルには負けるわ」

どちらも譲らず、話が進む気配は無い。そんな状況に痺れを切らして、リドルは切り出した。
 
「この部屋に、君は一体何をしに来たんだい? 見たところ、その鏡以外に何も無いみたいだけど」
「……そうだよ。この部屋には、この鏡しかない。ここはこの鏡を置く為の部屋だから」
「へえ……君はこの鏡が何か、知っているの? 」
「知りたい? 」

形ばかりは疑問形だけれど、ライムが答えを待つ様子は無い。リドルにそう聞かれるとわかっていたようだった。それでもあえて尋ねるのは、ささやかな抵抗だったのか。その心を見透かすように見つめるリドルの瞳の奥で、赤い炎がゆるりと揺れた。
 
「これは、みぞの鏡。見る人の心の奥底にあるのぞみを映し出す道具」

謳うように軽やかに ライムは言った。ゆるい笑みを口元に浮かべると、リドルの言葉を待たずにくるりと鏡に向き直る。
 
「私はすぐに迷うから、確認しに来ているの。これが本当に私ののぞみなのか」
  
一歩、鏡に近づく。

「あの時見たのぞみを、見失っていないかを」
 
磨き上げられた鏡面に、細い指が触れる。体温で僅かに曇った鏡にはライムの姿と、それを離れた場所から見つめているリドルの姿しか映っていない。少なくともリドルには、そうとしか見えない。

「あの時……? 」

いつの──── 一体、いつの話をしているのだろう。
茫漠としているのに揺らがない。掴みどころが無いのに毅然としているその態度。

リドルは不意にこの少女の事が恐ろしくなった。

……いや、恐ろしいとは少し違う。リドルは滅多な事では恐怖を抱かない。そうだ。恐れる理由が何処にある。

────ただどうしても、ライムの考えが読めない。

淡々として、哀しげで、でも揺るぎない声。その感情は、リドルの知らないものだった。

「のぞみ、って」
「……リドルは、この鏡に何を見るんだろうね」

鏡越しに目が合う。真っ直ぐに。いつに無く真剣なその眼差しに、リドルは掛ける言葉を失った。

「あの時と、それは変わっているのかな」

何のことを言っている。いつのことを話している。僕の前で、一体誰の事を考えている。

湧き上がったのは怒りだった。けれどそれに、リドルは戸惑った。何故怒る必要がある? こんな一人の少女にどうしてこうも振り回されなければいけないんだ。どうしてこんなに気になるのか。だって、これではまるで────違う、馬鹿馬鹿しい。戯言だ。
そんなこと、あってはならない。

「君は、この鏡に執着しているのかい? 」

それとも、そこに映る“のぞみ”に。
内心の動揺を悟られぬように、リドルは努めて静かな声でそう言った。語尾は僅かに震えたけれど、この程度ならきっと気付かない。気付かれてはいけないのだ。
 
「どうだろう」

伏せった目元に、影が落ちる。
否定はしなかった。ぴたりと鏡越しに重ねたライムの手のひらは白く、吸い込まれそうだった。

「けど」

薄っすらと開いた唇から、吐息混じりにライムはつぶやく。

「……魅入られているのかもね」

 
自嘲めいた言葉は、やけに冷たく床に落ちた。


prev next

[back]