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導入編6_耳朶に噛みつくその前に



 グラスになみなみと注がれていた酒を一度目に飲み干したのは、空に向かったリシャナの報告の半分を聞き終えた頃だった。
 ギラヒムが何も言わずとも、空いたグラスには血のような赤の液体が部下の手により注がれる。
 今年の出来が良かったのか、この自由奔放な部下の思惑があってなのか、今回持ち帰られた酒の味は上等と言って良いものだった。

「──でもマスター、まだ完全じゃないって言ってもこれだけ封印が解けてきてるんだから中位くらいの魔物なら放せるんじゃないですか?」
「可能ではある。が、有益ではないね」

 酒のボトルを片付けながらリシャナが口にした問いは、報告の中で聞いた現在の空の様子からのものだった。
 地上での女神の封印が解け魔力が及んだ影響により下位の魔族が増えつつあり、住人が警戒をし始めているらしい。

 しかし魔力の影響があったところでそもそも空に居ついた魔物たちは自然発生的に増えているにすぎない。それを人為的に理由もなく凶暴な魔物を放したところで逆に警戒心を強められるだけだ。

「……たしかにそうですね」
「魔物の数を増やすよりお前の頭の中身を増やすことに注力をする必要があるようだ」
「うう……」

 痛いところを突かれたと言わんばかりに顔をしかめるリシャナ。その表情は酒の肴としては最高だった。
 が、リシャナから聞く限り、平和に浸り切った空の人間たちも動きが見せる可能性は捨てきれない。それはそれで対策をしなければならないと頭の片隅においておくことにした。

 苦い表情の部下を見て加虐心がくすぐられるが、手を出すにはまだ早い。二杯目の酒で口内を潤し、報告の続きを促した。

「本題はそこじゃないんだろう?」
「……そうなんですけど」

 どうやら本題はリシャナにとって話すことを渋る内容のものらしい。が、話さないという選択肢はもともとないとこれは理解出来ている。
 あまり時間をおかず、リシャナは話し出す。

「マスター、シーカー族って地上にまだいるんですか?」
「シーカー族……あの女神の使いっ走りの連中か」

 部下の口から出たのは予想外の部族の名称だった。
 過去の戦争で女神陣営の中でも重要な役割を担った一族。戦闘力、諜報技術が共に秀でており、厄介なことこの上ない連中だった。
 加えその存在が歴史の表舞台に出ることは滅多にない。女神の影として生きることを使命としているような──性質としては魔族に近しくもある、到底理解のできない一族だった。

「歴史の暗部に存在していた連中だから生き残りがいるかは不明だね。聖戦の時もその集落があるのかどうかすら掴ませようとしなかった」
「……そうなんですね」
「で、その使いっ走りの一族が何だ」

 視線を寄越し問いかけるとリシャナは古びた一冊の本を手に取る。見かけだけなら数十年、あるいは表紙のハイリア文字を見る限りはさらに長い年月存在していたであろう本だ。

「スカイロフトや封印の地の結界をつくったのが、シーカー族かもしれないって話を聞きまして」
「……ほう」

 リシャナは本を手に入れた経緯とその内容について順を追って説明する。
 記録のほとんどがシーカー族に関する記述であり、過去の民族学者の調査記録といったところだ。一族が結界の技術を得意としていたこと、聖戦においてもそれを活用していたこと等、目新しい情報はない。──唯一、今まで女神自身の力によるものだと思われていた空の島の結界がシーカー族によるものであった、という記述を除いて。
 だがその推測は言ってしまえば想像の域を出ないものだった。当然の話だ。人間にとっては結界の存在など一部の力を持った者にしか知覚できないのだから、立証のしようがない。

「確証はほぼない話だね」
「ですよね……」

 そう返されることはこいつにも予想出来ていたのだろう。リシャナは再び悩ましげな表情を見せる。
 とは言え、こいつがこの本の解読を一人で行ったことには少々驚いた。どちらかというと頭の中を弄っても何の音もしないこの部下が、古びた文献と闘った理由へ純粋な興味が湧く。

 加えこれだけ立派な酒まで用意したのだ。本題はまだということなのだろう。
 焦らされるのは性に合わないが酒の効果も相まって気分は悪くなかった。続きを促すようにリシャナに視線を向けると、その意はすぐに伝わり彼女はおずおずと唇を解く。

「これはほんとかわからないんですけど……」
「何だ」
「フィローネの森の奥、シーカー族の昔の墓地があるみたいなんです」
「……へぇ」

 それは初耳だった。集落や足取りすら掴ませない一族の、末路だけが記録として残っている。事実ならば何とも皮肉な話だ。当然、リシャナがそれを伝えたのは古の戦士を拝みに行くということが目的ではない。

 ──この部下の行動原理には全て主人の存在がある。
 それはこの単純な部下も自覚していることであり、当の主である自身も理解をしていた。

「今もあるのか、何が残ってるかもわからないんですけど……封印を解く手がかりがありそうなら行ってみようかなと……」

 リシャナは逸らしそうになる視線を懸命に主人へ向け、そう伝えた。
 顔には出さず、興味が湧いた。普段空へ行く以外は主人に付いて回るか気の向くまま外の世界に抜け出してばかりの部下が、珍しく何らかの使命感を持っていることに。

「も、もちろん私一人で行きます! 空振りだったらマスターにご足労かけるので!」

 沈黙したままの主人に対し焦りを覚えたのか斜め上の弁明を入れるリシャナ。
 たしかにわざわざ足を運ぶには時間を使う場所だ。そして存在の有無すら定かでない墓地へ向かい、何か収穫があるのかというところまで考慮すると無駄になる可能性は高い。

 ──けれど、たまには何の魚もいない水面に一石を投じるというのも悪くはないと、この時ばかりは思った。

「リシャナ」

 短く名前を呼び、指先だけで指示をする。
 彼女は少し逡巡しつつも示された主人の膝の上に乗る。鼻をくすぐる甘い香りで奮うのは性欲か、食欲か。

「行きたければ行けばいい。ワタシは空振りで仕置きに怯えながら帰ってくるお前を待つ楽しみが出来るわけだしね」
「そ、そうならないよう頑張りますけど……」

 彼女の肩に額を押し当てながら自重を乗せ、そこに噛み付きたくなる衝動を抑える。目を離せばすぐに戻って来なくなろうとするこの部下に、一つ問わなければならないからだ。
 くすぐったそうに捩れる柔らかい身体を抑え、その耳に唇を寄せた。

「古の女神の軍勢の時代、シーカー族が最も得意としていたことを教えてあげよう」
「……?」
「──暗殺、だよ」

 その教示に腕の中の体はぴくりと震え、固まる。表情はこちらからは見えないが、自らの唇から彼女の耳へ、そして耳から脳の奥へ伝わるよう言葉を重ねる。

「お前に結界は通用しない。が、首を切られればそのまま地獄行きだ」
「────」
「選択肢を与えてあげる。今日のワタシは気分が良い。どちらを選んでもお仕置きはなしだ」

 そう、我ながら遠回しな警告。
 今まで幾千もの魔物たちが女神の軍勢に散らされ亡き者とされてきた。リシャナ以上に深い忠誠を誓った者、失くすには惜しい力を持った者も数え切れないほどに。

 果たしてそれらが同じ場に存在していたとして、こうして選択肢を与えただろうか。
 ……思いの外、酒が回っているのかもしれない。今はそう考えることしか出来ない。

 その思案は自身で思う以上に深いものだったのだろう。気づけば振り返ったリシャナの双眸は真っ直ぐに主人を捉えていて、

「行きますよ」

 迷いなく、口元に笑みを浮かべながらそう告げた。
 先ほどの逡巡が偽りだったのではと疑うほど曇り無く、その唇が言葉を紡ぐ。

「マスターが『死なずに帰ってこい』って命令してくれるなら、絶対に帰ってきます」

 主人を映す瞳に宿るのは根拠もない純粋な答え。その奥で静謐ながらも色濃く存在を示すのは──狂気だ。
 彼女の内側に隠された檻で、凶悪な獣が時間をかけながらも育ちつつある。それを植え付けたのは紛れもなく自身だというのに、その事実は体の奥底をぞくりと震わせた。

 笑みをたたえたその唇にかぶり付く。舌を無理矢理混ぜ合わせると口内で溶け合った酒の匂いが鼻孔をついた。

「──この場で抱く」

 思考の終止符を打つように、強引な口づけで既に溶けかけている部下へ宣告した。

 悪くない夜だった。