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真影編5_影向



 仄かな熱が瞼に柔らかく触れ、目の輪郭に沿ってツウ、と伝う。
 触れているのはたった一本の細い指。それは焦らすようにゆったりとした動きで線を描き、集まった神経が舐られるようでぞわぞわと反応してしまう。
 邪念を振り払おうとしても普段以上に敏感になっている触覚が反応してしまい、私は必死に頬の内側を噛み続けていた。

「ふむ、やはりこの森の奥か」

 予想通りといった呟きが落ち、ようやく目に触れていた感触が離れて私は音もなく吐息した。
 時間にしては短かったはずだけれど、強いられた理性との戦いが終わってひそかに安堵してしまう。
 ……私の眼に植え付けられた魔力を探るだけなのに、あんな手つきで触られる必要はあったのだろうか。

 ソワソワというか、悶々としたもどかしさを感じつつも、私は両眼を隠すための包帯を結び直す。
 主人がその様子を見ていたかどうかは定かではなかったけれど、低い声がボソリと呟いて、

「……視覚が消えていると感度が良くなるというのは本当だったか」
「やっぱりワザとだったんですね!?」
「何の話だかわからないね」

 どんな時であっても、欲に対して忠実な主人だった。


 *


 夢の世界でダークリンクとの邂逅を果たした翌朝。
 私と主人、ギラヒム様はフィローネの森の入り口に訪れていた。

 主人が私の眼に残る魔力を頼りに探ったダークリンクの足取りは、どうやら森の深奥部へ続いているらしい。
 そこに何があるのか、待つのがダークリンク一人なのかは行ってみないとわからない。

 私は呪われた両眼を包帯で覆っているものの、それ以外はいつも通りの装備を身に纏っていた。
 目が見えなければろくに戦うことも出来ないことはわかっている。けれど、視力を取り戻した後でダークリンクとの戦闘がないとは限らない。
 それまでの立ち回りをギラヒム様に任せきってしまうのは、何とも不甲斐なく、歯痒い気持ちではあったけれど。

 不意に衣擦れの音がした。私の眼を見るために屈んでいた主人が立ち上がったのだと悟り、私も慌ててそれに倣う。

「昨日とほぼ位置は変わっていない。律儀にお前を待ち構えているというわけだね」
「……みたいですね」

 いつもと何ら変わらない……というか、ここぞとばかりに好き勝手部下を弄んだ彼の声色は、心なしか機嫌が良さそうにも聞こえる。
 いじられっぱなしで取り乱していた私も気を取り直し、ダークリンクと対峙する覚悟を決めた。

「行くよ」
「はい。……って、え?」

 そう意気込んで返事をした、その時。
 ふわりと、私の手を大きな何かが包み込んだ。

 その正体が何なのか、少し考えればわかるはずだった。しかしあまりにも現実離れした出来事に、数秒思考が停止する。

 やがて手に帯びる淡い熱と柔肌の感触を理解した瞬間。
 反射的に、喉の奥から変な引き攣り方をした悲鳴が上がった。

「ふあッ!?」
「何」

 主人は部下の奇声に鬱陶しげな反応を寄越すけれど、正直それどころではない。

 たとえ視力がなくとも、確信してしまう。
 ギラヒム様と私は今。
 ──手を、つないでいる。

「ままますた、い、いいんですか……!?」
「……何にそれだけ動揺しているのか知らないけれど、手探りで歩くお前を待っていたら日が暮れる」
「そりゃそうですし結果こうなるのもわかりますけど!!」

 彼に触れるのも触れられるのも初めてではないし、なんならそれ以上のことだって何度もしてるし何を今さらと自分でも思う。
 でも、肌に伝わる手の温度とか、大きくて固いのにすらりとした指とか、いろんな情報が手のひらから一度に伝わって全身に熱が集まってくる。

 その光景を目視出来ないのは幸運なのかある意味不幸なのか、そんな判断すらつかない。
 成す術なく閉口してしまった私を前に、呆れたため息が落ちる音が聞こえてきた。
 と同時に、

「そんなにイイなら……手を触るだけでお前を濡らすことが出来るか、検証してみようか?」
「え」

 彼の意味深に低い声が耳朶を揺する。
 間を置いて、指先に触れた小さな熱がするすると弧を描きながら手の甲を伝い、手首を一周。
 行く末に熱がたどり着いた手のひらは、一番神経が集まっているだけあって触れられるだけでぴくりと肩が跳ねる。

「ひっ……」
「これは、どうかな?」

 ギラヒム様の指の腹から伝わる局地的な熱が一瞬離れた。と思えば、今度は私の手のひら全体が彼の大きな手に重なり、お互いの指同士が絡み合う。
 普段は冷たいはずの主人の手。けれど接した部分にだけ熱が生まれて、それを無視することは出来ない。

 そのままゆっくりと、意志を持った熱が私の指と指の隙間を、舐めるように、触れて、ふれ、て──、

「──ッせっかくうぶに照れてるんですから、邪な探究心は膨らまさずに触って下さい!!」
「触ることは拒絶しないんだね」

 結局、歩き始めて数十分。
 途中で気恥ずかしさの限界になり、私はギラヒム様のマントの裾をつかんで歩くことにした。


 * * *


「──同類、ね」

 変な緊張の仕方を強いられた心臓がようやく落ち着き、見えない道を歩くのにも多少慣れてきた頃。私の夢の話を聞き終えたギラヒム様が短く呟いた。

 起きた出来事の全容は伝えたものの、あくまでも私が眠っている間に見た光景のため、どこまでが現実でどこまでが夢だったのか正直よくわからない。
 しかし主人の推測でも、私が見たほとんどが現実と考えても差し障りないとのことだ。私の両眼に呪いをかけた張本人であるダークリンクならば、魔力で干渉し、直接自身の映像を流すことも容易いらしい。
 つまり、あの時私を求めた彼の言葉も全て本物だということになる。

「あと……ダークリンクは、リンク君が“精神の試練”で魂を浄化して切り離された存在って言ってました」
「フン、何から何まで厄介な小ぞ……勇者だね」

 憎々しげに吐き捨てながらもギラヒム様が私の腕を引き、私も抵抗することなくそちらへ身を委ねる。
 森の道は凹凸が目立ち、時折木の根が這い出しているところもある。主人は何気ない動作一つで私を誘導し、おそらく障害物が少ない道を選んでくれている。そんな配慮に罪悪感を抱きながらも、私はそれ以上の敬愛を主人に感じていた。

「……リンク君は、ダークリンクのことを知ったらどうするんでしょう」
「ワタシの知ったことではない。せいぜい、自身の感情の化身を飼い慣らせていないという事実に大いに落胆すればいいさ。……とはいえ、あの純粋無垢に見えたリンク君の中に、具現化するほどの影があったというのはなかなかに興味深いがね」

 ギラヒム様の声音には皮肉と、わずかな憐みが含まれていた。
 主人も一度ダークリンクと対峙し、あの狂気と直接剣を交えている。
 影と一言で表すにはあまりにも闇が深い存在と、そのオリジナルである空の『勇者』。極端に明暗を分かたれた彼らは、敵対する私たちの目から見てもあまりに異質な関係性のように思える。

 しかし両者と視線を交えた私にとって、赤と青──それぞれが持つ目は、とてもよく似ているように思えた。
 対照的な色を持ちながら、正面から相手を見つめ、その真意を真っすぐに捉えようとする眼差し。……私にとって、少しだけこわいと思えてしまう目。
 その片割れである赤色が夢の中で私に向けた感情を思い返し、私は少しだけ俯く。

「どうしてダークリンクは私を誘ったんでしょうか」
「…………」

 ダークリンクがリンク君から出来た存在なら、私のことを知っているのは不思議ではない。けれど彼が私を求めたのはリンク君ではなく彼自身の意志だという確信が私の中にある。

 返事のない主人の表情を窺うことは出来ないけれど、私を連れ添う足取りが少しだけ遅くなって、その言葉の続きを促されているように感じた。

「……同類だから、なのでしょうか」

 同類。つまり、彼が私を求めるのは彼もまた『半端者』だからなのではないか。
 それが私の抱いた、おそらく正解である予想だ。

 彼の言葉に乗せられるべきではないとわかっている。けれど初めて出会った自分と性質の近い存在に、私は思う以上に動揺していたのだろう。
 足取りの重たくなった私に、主人は呆れたように小さく鼻を鳴らした。

「お前の中でその解答が出ているというのに、主人に答え合わせをさせるなんて不躾なものだね」
「う……。ごめんなさいです」

 そんな迷いも、主人にはお見通しだったらしい。
 冷たく言い切られてしょんぼり肩を落としていると、ギラヒム様は「そもそも、」と前置き、私の腕を掴み寄せて、

「お前のその予想が間違っていなかったとして、たったそれだけの理由でワタシの飼い犬を懐柔しようとは。見当違いも良いところだ。あの鬱陶しい笑い声が悲鳴に変わるまで、地獄の業火で炙ってあげねばなるまい」
「さ、さいですね……」

 表情は見えないけれど、どうやら主人のダークリンクへの心証はリンク君以上に最悪らしい。言葉の節々にダークリンクへの苛立ちが感じられて、聞いているこっちがハラハラする。

 その一方で、腕を引かれた私はわずかに主人へ身体を預けるような体勢になったけれど、彼はお構いなしに歩みを進め続けている。
 進む道に障壁があったのか、それとも単純に彼の意志で引き寄せられたのか、私にはわからない。どちらにせよ主人の傍らは温かくて、とても落ち着く。

「……事実がどうであれ、お前という犬を飼い慣らせるのはこのワタシだけだ。お前が認めようと認めなかろうと関係はない」
「あくまでも犬扱いなんですね……」

 そう突っ込んではみたものの、主人に誘導されてでしか動けない今の状況は犬と同じかそれ以下なのではと内心首を傾げる。言ってしまえば認めたことになるから口が裂けても言わないけれど。

 それに、主人の言う通りだ。
 たとえ天地がひっくり返って私がダークリンクのもとへ行こうとしても、ギラヒム様は私の首に鎖を繋いででも阻止するのだろう。自惚れではなく、示された独占欲と彼の主人としてのプライドが物語っている。

「さあ、くだらない存在のことを考えている暇があるなら一歩でも速く足を動かせ、馬鹿部下。引きずって運ばれたくないのならね」
「はーい」

 すぐ傍らのギラヒム様が鼻を鳴らし、私は足がもつれないようなんとか歩調を合わせて歩みを進める。
 いつのまにか手を繋ぐよりも恥ずかしい距離感になっていたことには、気づかないフリをした。


 * * *


「……着いたよ」

 ギラヒム様の声音をきっかけに、私は進めていた足をゆっくりと止めた。
 森に入ってから数時間。頬に触れる空気が湿気を含み、木々の騒めきが濃くなった頃。ようやく私たちはたどってきた魔力の源泉へと到達した。

 立ち止まった主人は無言のまま、おそらく辺りを見回している。
 目の前の空間を私が目視することは出来ないけれど、耳に入る物音の少なさと主人の反応から察するに、何の変哲もない景色が広がっているのだろう。

 それでも、わかる。私の両眼を焼いたものと同じ魔力が色濃くこの場に渦巻いている。──ダークリンクが、近くにいる。
 私はなるべく主人と離れないよう、彼のマントを掴む手に力を入れた。

「近くに、いますよね」
「いる。……鬱陶しい視線だ」

 森の静けさに溶け込んでいるものの、ピリピリとした敵意が肌に刺さるのを感じる。気を抜いた瞬間、すぐに襲われそうな殺気だ。
 しかしその気配は巧妙に隠れていて、私たちに悟られない場所に姿を消している。

 私たちの様子を窺っているのか、奇襲をかけようとしているのか、いずれにせよ一瞬でも油断することは許されない。

 そして漂う気配を追って視線を巡らせた、その時だった。

「……あれ」

 真っ暗な視界の隅で、チカチカと何かが瞬くのが見えた。
 本来何も見ることが出来ないはずの暗闇の中、淡い光が鮮明な軌跡を残す。私は瞼の裏で目だけを動かしてそれを追いかけ、光の正体を口にする。

「ホーリーアゲハ……?」

 その呟きに、すぐ隣のギラヒム様から珍しく虚を衝かれたように驚く気配が伝わってきた。

「お前、あれが見えて……、」

 ──瞬間。主人の声が途切れ、唐突に森の全ての音が遮断された。
 訪れたのは、耳が痛くなるほどの無音の世界。その世界で、ホーリーアゲハはゆらゆらと灯火のような光を残しながら舞っている。

 私は眼前の光景にどこか既視感を感じていた。
 前触れなく訪れた無音の空間と、宙を舞うホーリーアゲハ。スカイロフトで初めてダークリンクの姿を見た時と、同じ光景だ。

「……どうやら、」

 主人の低い声に、私は思わず顔を上げた。その声音に、強い警戒の響きが含まれていたからだ。

「この森は既に、あの影の支配下にあるようだね」

 その言葉で、私は今立ち尽くしている世界がどこなのか理解する。
 私たちは、あの色彩が裏返った森に迎えられたのだ。



「……鬼ごっこが始まるなァ」

 誰にも存在を悟られない木々の奥。
 来訪者を待っていた赤い目が、剣呑な光を宿して、歪んだ。


(231010改稿)