真影編4_影鰐
黒が白に、暗が明に。
色彩と明暗が反転し、夜の静けさごと奪われた無音の森。そんな世界を宛てもなく彷徨う青い蝶。
久しく目に飛び込んできた景色は、網膜を焼くほどに鮮烈なものだった。
「────、」
思い出すことが出来たのはベッドで何度も寝返りをうちながら、いつの間にか眠りについたというところまで。
にも関わらず、今私が立っているのは色が反転したフィローネの森。そう認識できたのは、奪われたはずの視覚がどういう訳か戻ってきていたからだった。
そしてそれ以上に私を唖然とさせているのは、目の前に立つ異質な存在。
「……よぉ」
深い笑みを浮かべた彼──ダークリンクは、周囲を囲う大樹の一つに寄りかかっていた。
私にとって、初めて真正面から見る彼の姿。黒衣に身を包み、『勇者』の姿をそのまま反転させたような銀髪と赤い瞳。たった一言発された低い声は、無音の世界で不自然に反響する。
ダークリンクは未だ何も言えないままの私を観察するようにじっくりと見つめ、静かに続ける。
「なーんにも見えなくなっちまった世界は楽しんでるか?」
「……っ、」
ぐにゃりと口角を歪め、哀れな敗北者を嘲る声音。逆撫でられた神経が憤りの感情を呼び覚ますけれど、無理やりそれを抑えつけ、私は剣呑な視線を突き返す。
「……どうも、おかげさまで」
「それは良かった」
皮肉に皮肉を返し、ダークリンクは鼻で笑う。
なんとか冷やした頭でようやく気づけたけれど、今の私は魔剣も魔銃もない丸腰の状態だった。その条件は目の前の彼も同じだけれど、迂闊に手を出せば何が起こるかわからない。
警戒の姿勢を解かないまま、私は目だけで辺りへ視線を巡らせる。
見慣れた光景のはずなのに、不穏な静けさが漂う森の中。隙を見て逃げ出したとて、すぐに迷い込んでしまいそうな得体の知れなさがそこにはある。
「ここは何? どうして私はこんなところにいるの?」
「そう慌てるなよ。厳密には違ぇがここはお前の夢の中みたいなもんだ。話すだけで干渉は出来ない」
言いながら手出ししないという意志を示すように、彼は何も持たない両手を上げてヒラリと振った。
そもそもこれが現実なのか疑問に思ったけれど、おそらく彼自身は本物なのだという実感があった。武器を持っていないのも、今見えている視界も、この世界が彼の支配下にある証拠なのだろう。
そこまで理解した私を待っていたかのように、ダークリンクはくつくつと喉を鳴らす。
「お察しの通り、お前の視力も目が覚めたら元通りだ。眠っている間は景色が見えて、起きれば何も見えなくなる。おもしれぇ皮肉だよなァ」
「…………」
やはり彼は一時の享楽的な感情でなく、何か目的があって私の視力を盗んだらしい。
薄々予想していた答えだった。そうであるなら、こうして接触を図ってきたのも何かしらの意図があるからだ。
ここで視覚を取り戻すのはおそらく不可能。ならば、可能な限り情報を集めなくてはならない。
「……互いに干渉出来ないなら、わざわざ私の夢を乗っ取ってまで何しに来たの」
私の問い掛けにダークリンクは低い嗤い声を漏らしながら、大樹に預けていた身をゆっくりと起こす。
次いで一歩、私に向かって足を踏み出した。
「お前と話をしに来たんだよ」
「話……って」
一歩、さらにもう一歩。静かに歩み寄ってくる影。
すぐにでも逃げ出せるよう姿勢を低くして構えるけれど、その視線に絡め取られるかのような束縛感が私の全身を縛りつける。
彼の手に武器は無く、干渉もしないと告げられたはずなのに。逃げたいのに、逃げるべきなのに、逃げられない。
そうして怯える私の一挙一動を愉しむダークリンクは短く告げる。
「そう、話だよ。──“同類”同士、さァ」
いつの間にか触れられる距離にまで迫っていた彼は、私の顎を強引に引いて視線を交えさせた。
鋭く尖った犬歯が間近で光る。そのまま唇を噛みちぎられると錯覚をしてしまうほどの狂気が眼前に迫り、逸らすことすら許されない。
「なんで……」
「あ?」
「君は魔族じゃないんでしょ……?」
震える声音で漏れ出た私の問いに、影は「んー?」とわざとらしく首を捻る。
彼はそれを冷ややかに笑い飛ばして、私の顔をより近くに引き寄せた。
「魔族じゃねぇよ、俺は。けどそれは……“お前も”だろう?」
「…………ぁ、」
呼吸が止まる。戻っているはずの視界に映るのは、赤一色。
彼に告げられた言葉が、見えない手のように喉笛と心臓を潰し、私から反抗する意志を奪い去った。
そうだ。私は魔族じゃない。
魔族でもなく人間でもない、中途半端な存在だ。
しかし、そうであるなら、
「君は……何なの?」
気迫が失われた問いかけに、ダークリンクは私を解放して軽く突き放す。
彼の元から数歩後ずさったというのに、感覚の全てが囚われたかのように私の体は硬直したままだった。
「見たまんまだよ。世界を救う『勇者』、その影だ」
「『勇者』の、影……」
「お前らが戦ってる勇者サマも来たる時に向けて苦労してるみたいだぜ? “精神の試練”とやらで魂を浄化して、俺みたいな影を切り離さなきゃならなかったんだからなァ」
「……!?」
自身の出生を語る彼は呆気に取られるほど平然としている。物語るのはリンク君と同じ声質なのに、知らない他人のことのように薄い感情で示された事実だった。
何があったのか詳しいことはわからないけれど、目の前の影がリンク君と同じ姿をしている理由は何となく理解が出来た。
「勇者サマは心に悪いもん抱えるのも許されないらしいぜ。哀れだよなァ」
「…………」
脳裏に浮かぶ、精悍な顔つきと真っ直ぐな空色の瞳。優しさと強さを持つ、生まれながらの騎士。
そんな存在からこの凶悪性が生み落とされたということが本当だとしたら、なんとも皮肉で、信じがたい結末だ。
「だから、」
その時、張り付いていた彼の笑みの皮が剥がれ、欲望を露わにした赤い目が私を捉えて、
「最初からお前のことは知ってんだよ」
先程と違って距離は保てているはずなのに、心臓に手をかけられているように獰猛な眼光に射抜かれ、指先すら動かせなくなる。
「お前が女神の一族と魔族の間の、中途半端な存在ってことも……なァ?」
他でもない私のことについて語られているはずなのに、呪詛のような事実の羅列に精神が丸ごと締め付けられていく。
彼が告げようとしている結論を聞いてはいけないと、脳が警鐘を鳴らす。だが私に止める術は、何もない。そして、
「──お前は俺と同じなんだよ、リシャナ」
影が、初めて私の名前を呼んだ。
新鮮味などない、むしろ呼ばれ慣れているような、途方もない共感を含んだ響き。
出会ってからの彼がずっと見せていた狂気や悦楽の感情はもはやそこにはなくて、虚飾を装わない生々しい現実が、淡々と語られる。
返すべき反論は、喉に張り付いて声にならなかった。
「女神の祝福を受けず、空の人間が持つ翼を与えられず、誰かのためのモノになることでしか生きられない──“生きていることにならない”、半端者」
「────」
『半端者』。それは、女神の一族にも魔族にも属さない、世界からはみ出たはぐれもの。
彼の言う通り、私は私のマスターのために生きることによって、生きる理由を初めて得た。
それなら、彼は。
「リシャナ」
影が薄い唇を開く。揺らぐ視界で見た彼の表情は、少なくとも愉悦に歪んだ笑みではなかった。
それはあまりにもこの場に不釣り合いな表情で、私はほんの一瞬目を疑った。
「俺のところに来い。そうすれば……視力を返してやるよ」
私を誘う声音が、私を求める深い赤色が──苦しそうに、視えた。
「……行かない」
その答えを最後に、しばしの沈黙が訪れる。彼は何も言わないまま目を細め、ふっと瞼を閉じた。
それが合図だったかのように私は恐怖による支配から解放され、その場にぺたりと跪く。
「まァ、そうだろうな」
ダークリンクの声音と表情は出会った時の嘲るようなものに戻っていた。
たった今見た表情が見間違いだったのか否か、私に知る術はない。
「わざわざ出向いて視力を奪ってまで舞台を整えたんだ。すんなり屈伏したらツマラねぇもんな?」
「視力が戻らなくても、手を組むつもりはこれっぽっちもないかな。……私はマスターのモノだから」
「……ハッ」
私の反論を笑い飛ばし、屈んだダークリンクは手を伸ばして私の両眼を覆う。
視力を奪われた時とは真逆の、暴力性の欠片もない自然な動作に、私は抵抗することなく身を委ねてしまった。
「目が覚めればまた暗闇に戻ってる。何にも見えない影の中は、お前が本当は何に従うべきなのか考えるのにちょうどいい世界だろう?」
冷たい手で覆われた部分から仄かな熱が生まれる。白く明るく見えていた世界が夜を迎えるように沈んでいき、同時に意識が急降下していく。
私を寝かしつけるように手を添えながら、最後の最後に、影の唇が小さく震えた。
「次にここへ来たら……この世界で一番狂っているのが誰なのか、教えてやるよ」
真っ暗に沈んだ世界を、青い蝶の揺らめきだけが照らしていた。
* * *
「────、」
ぴくりと神経の通った指先に、触り心地の良いシーツの感触が伝わる。
外から聞こえる風の音や虫の声。慣れた室内の匂い。震えたまつ毛がすぐ横に転がる枕を掠めた感覚。そして、隣から聞こえる穏やかな寝息。
それらの情報を集めて、ようやく私は目を覚ましたのだと理解した。
……目に映る景色は、やはり真っ暗だった。
眠ってはいたのだろうけれど、体感でつい先ほどのように感じる夢の中での邂逅は、私の体に不快な疲労感を残していた。
うっすら寝汗もかいているし、視力だけでなく睡眠時間まで奪ってくれたダークリンクに恨みまじりのため息をこぼす。
じっと記憶を巡らせて再生されるのは、『勇者』と同じ、こわいくらいに真っ直ぐな目で語られた彼の言葉だった。
もしあの対峙が夢でなく現実だったら、私はどうなっていたのだろう。
「──っ」
思考を打ち切るように首を振る。彼との再会は遠くない未来に訪れるのだ。気弱になっている場合じゃない。
考えるべきは視力を取り返すこと、それのみだ。
目を覚ますため、私はベッドに腰掛けたまま出来る範囲での身支度を始める。乱れた髪を手櫛で整え、傍らで眠る主人を起こさないよう気をつけながら、ケープを手探りで見つけようとする。
二、三度虚空を掻き、ようやく手に触れたケープを手繰り寄せると、カツ、と固い何かが当たる音がした。
「……?」
内側のポケットに、何か入っている?
小首を傾げてその中へ手を突っ込むと、思いの外ヒンヤリとした冷たさが指先に伝った。取り出しても目で確認する術がないため、それの輪郭をなぞり、正体を探る。
「あ」
思い至ったそれの正体。今の今まで忘れていたその存在に、思わず口を開いてしまった。
それはほんの数日前、スカイロフトでホーリーアゲハを探していた少年が護身用に持っていた銀色のナイフだった。彼から取り上げたまま、持って帰ってきてしまったらしい。
そういえばと思い、私は指を滑らせてナイフの取手部分に触れる。ある程度予想が出来ていた懐かしい感触に、ようやくそのナイフがどこの物なのか思い出すことが出来た。
……たぶんこれは、騎士学校の食堂で使われている料理用のナイフだ。
たしか少年は寄宿舎に住んでいると言っていた。護身用の武器を手に入れようと試行錯誤した結果、この小さなナイフに行き着いたのだろう。いろいろ片付いたら、せめて騎士学校の敷地内にでも返しに行こうか。
指で刃先に軽く触れ、私は再びポケットの奥にそれを突っ込んだ。
同時に、無垢な目をした少年に投げかけられた問いが蘇り、私はゆっくりと瞼を閉じる。
少年への答え。嘘偽りなく答えるならば、私は正義の味方とは真逆。──この世界にとっての“悪い人”だ。
そして、
「────」
私が悪い人ならば、私のことを同類と言った彼も“悪い人”なのだろうか。
その答えを知る者は誰もいない。けれど夢の中に現れた彼は、心の内に浮かんだその問いすらも聞いているような気がした。
真っ暗な視界の中。急に襲いかかる、底知れぬ不安。
私はケープを放り出し、再び傍らの主人の腕の中へと舞い戻った。
(231009改稿)