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断章3_ある女性騎士の敗北



「──……」

 予期せぬ方向にかかった重力の感覚で目を覚ます。ぼやけた視界のままあたりを見回せば、日夜走り続けていた馬車が止まっているようだった。
 客車の窓はわずかに開いており、潮風の匂いが鼻を掠める。導かれるように窓に手をかけゆっくりと開くと、燦然とした太陽の光が客車の中に差し込んだ。

 眩い光に溺れながら私はその先に広がる光景を前にし、着の身着のまま客車の外へと降り立つ。

「……団長」
「おう、目が覚めたか」

 私と同様、この景色を見に出て来ていたのか団長が片手を上げる。

 眼前に広がっているのは見渡す限りの水の世界──海。
 朝の日差しを浴びて海面は無限の星空のようにきらめいてる。寄せては返す波は一つの大きな生き物の鼓動を目にしているかのようだった。
 数年ぶりにこの地に訪れたが、何度見ても圧倒されてしまう光景だ。

「……今じゃあ大地が人間の生まれ故郷だと考えられてるが、昔、人間は海で生まれたって考えられていたらしいな」
「聞いたことがあります。異国では、海を“母”と呼ぶ風習もあるそうですね」

 それは海という世界が遠い私たちにとって、馴染みのない考え方だった。海が母であるならば、私たちが生きる大地は揺籠と言ったところか。そして空は……なんと言い表わされるのだろうか。
 益体のない想像を巡らせながら、私は水平線の彼方へと視線を注ぐ。

 海の向こうの国は、既に魔族により落とされていると聞いた。魔族はこの大地の深淵から出でた者ばかりだと思っていたが、異国の地でも人々を混沌に貶めているのだとすると、彼らとの争いは途方もないもののように思えてくる。
 それでも、目先の戦場に私たちは立たなければならない。

 ──七日七晩の旅の果て、私たちはラネール地方へと到着した。
 女神の三大要地がうち一つ。王都を抱えるフィローネ地方に次いで豊かな資源に恵まれた土地だ。
 戦争の影響もあり、現在この地には様々な地方から亜人族が集まってきているらしい。驚いたのは、最新の技術を用いて作られた機械亜人が既に出回っていることだ。商店では早速運用をされており、人間と同じような仕草を見せては人々を驚かせていた。

 活気に満ち溢れ、多様な人種が集まり、産業の力で急速な発展を遂げた地。──ここが、次なる戦場となる。

 眼前の穏やかな光景とは裏腹に、魔王軍との戦況は悪化の一途をたどっている。
 オルディン陥落を皮切りとして魔物の侵略は一気に過激化し、フィローネから離れた小さな村はほとんどが壊滅状態だ。
 行き場を失った人々が王都に集まりつつあり、次に狙われるとされるこの地も以前に比較し市民の往来が少なくなっている。

 それでも活発な声を上げる商人たちの姿を横目に、私と団長はこの地で一番大きな街道をひた歩いていた。

「次に攻め込まれるとわかっていながらこの地に留まることを選んだ人々は……やはり、故郷を捨てられなかったのでしょうか」
「だろうな。生まれ育った地ってのはそういうもんだ」

 王家直属の諜報部隊が調べた結果、魔族が次に侵略しようとしている地がラネールであることは間違いなさそうだ。
 ここに滞在する数日間で、衝突は必ず起きるだろう。気を引き締めなければならない。

 ──その時だった。街道の向こうから近づく馬の蹄の音に気づき、団長が足を止めた。

「……ダギアニス卿だ」

 馬上の人物を目にし、呟く。その名前はこの地に至る前から聞かされていた。
 ダギアニス卿。今回の戦において、総大将を担う軍師だ。

 彼は私たちの姿を目で確認した後に馬から降り、こちらへと歩み寄ってきた。
 一歩前に出て跪く団長の背後に控え、私も同じように跪いて頭を垂れる。

「貴殿がフィローネ支部中央部隊の騎士団長か」
「は」
「此度の助力、心から感謝申し上げる」
「勿体なきお言葉」

 短く答える団長に対し、ダギアニス卿は胸に手を当てて丁重に腰を折る。
 彼はそのまま私たちに頭を上げるように指示し、続ける。

「軍の配備の状況は」
「全部隊恙無く。王家直属の近衛騎士団とも合流し、首尾は万全かと」
「……頼もしい限りだ。互いに、武運を祈ろう」

 それからダギアニス卿は軍の現在の状況、魔族の動向などの情報を団長と交わし、再び馬に乗って去って行った。
 その背を見送った団長が、ポツリと呟きを落とす。

「……噂で聞いた印象と随分違うようだな」
「噂……ですか?」
「おっと、お前は知らんのか」

 私が首を傾げれば、団長は「なんと言えばいいか」と頬を掻き、こう続けた。

 聞けば、ダギアニス卿には一部で囁かれている“黒い噂”があるらしい。
 どうやら彼は王家と真っ向からの対立派であるようで、近年、王家にとっての重要人物を罪人として告発したそうだ。
 結果彼はその功績で一躍名を馳せたが、一方で一連の騒動はダギアニス卿が仕組んだものなのではないかという噂が水面下で流れたという。

「つってもまあ、根も葉もない噂だけで優れた人材を排斥出来やしないけどな。軍師としても騎士としても、実力があるのは間違いねぇんだ」
「……そうですね」

 罪人の容疑があっさりと王家に認められたこともあり、その噂の信憑性はごく薄いものではあるそうだ。方々に名前を渡らせている人間だからこそついて回る、やっかみのようなものなのだろう。

 団長は話を切り替えるように「さて」と区切り、こちらへ振り向く。

「余計な話をしちまったな。俺らも行くぞ。次は本拠地の視察だ」
「御意に」

 今回の女神軍の本拠地は街の北西に位置する時の神殿だ。団長が推測した通り、魔族の最終的な狙いが時の扉であると軍の中枢部も判断したらしい。
 実際の戦場では街は騎士団が、神殿は亜人の戦士と賢者が主に守りを固める。そのため私と団長は市街地を巡った上で時の神殿へと向かった。

 街を歩けば、近年利用法が確立された時空石を用いた技術が至るところで散見された。
 王都では未だ、滅多に見られない技術だ。本来ならばいち早く王都での実用が求められるはずなのだが、ラネールからフィローネにかけて広がる平野は魔物の活動が非常に活発だ。そのせいで情報はなかなか行き届かず、文明の伝達に遅れが出ている。
 私たちのような騎士団の護衛があったとしても襲われるのだから、技術者たちが王都に行きたがらないのも頷けるだろう。

 そういった背景が積み重なり、三大要地の中でも格差が生まれつつある。
 格差はやがて、人々同士の争いに繋がる。
 魔物との争いの歴史が、人間と人間の争いの歴史に塗り替えられないためにも、この戦争は早急に決着をつける必要がある。

「……お、見えてきたぞ」

 不意に前を行く団長が声を上げ、私は四方へ巡らせていた視線を正面に戻す。

 周囲の建物より一際背の高いその建物。巨大な女神の紋章が天へと掲げられ、そこがどのような権威に護られているのかを示している。

 ──あれが、時の神殿。
 時を司る技術を結集させた、時の扉が眠る聖域だ。

「俺たちみてぇな余所モンは神殿内部にゃ入れてくれないらしいからな。せいぜい周囲を見て回ることしか出来ねぇが……ま、王都で待ってる奴らへの土産話くらいにはなるだろう」

 冗談めかして嘯く団長に思わず苦笑する。
 立ち入りを禁じているのは時空石の研究を進める技術者たちだと聞く。街を、ひいては時の扉を守るためにはるばる王都からやってきた騎士団長にすら一切の立ち入りを許さないようだ。
 その強固な姿勢には感心する反面、少々呆れを感じてしまうものがあった。

 それでも遠景に浮かぶ威容に目を奪われながら、私は結んでいた唇を解く。

「……女神様は、何故時を司る技術の発展を後押ししたのでしょうか」

 時の扉の保護、及び時の神殿の創設は女神様が直々に命令を下したという。その目的は私たち騎士団には何も知らされておらず、知るのは事業に関わった技術者、研究者のごく一部のみだ。
 団長は私の疑問に腕を組み、「ううむ」と唸る。

「さあな。……だが、そう考えられる俺たちにはわからん話なのかもしれない」
「え?」

 そう続けた団長の言葉に私は目を見開く。視線でその理由を問いかける私に、彼は小さく顎を引いて、

「この戦争で、既に多くの村や街が魔物どもに襲われている。騎士だけじゃなく、一般市民の被害も数えきれねぇ。……そんな時、家族や友人、自身の未来を失った人間はどう思うか。答えは一つだけだろう」
「……時を、戻したい」

 団長の問いを引き継ぎ、自らの口で答えを紡ぐ。
 団長の言う通り、その絶望は大切な何かを失った者にしかわからない。時を操る力の是非を問う以前に、それを必要とする者の願いを分かち合えるのは、同じ絶望を知る者だけだ。

「女神様がそんな人間を救済するためにここを作ったのか、これからどう使っていこうとしているのかはわからねぇがな。だが絶望している人間が大勢いて、その悲しみの元凶が跋扈している世界じゃ……そういう力が必要とされるのは自然な成り行きなのかもしれないな」
「……そう、ですね」

 静かに結ぶ団長の言葉に頷く。
 ──『時なんて、本当なら誰にも手を出せない方がいい』。それはフィローネを発つ以前に団長が溢した言葉だ。
 その技術を求める人々の存在を知りながら思案げな表情を見せる彼は、やはり人間にとって不相応な力の存在に思うところがあるのだろう。

 遠景に浮かぶ女神の紋章を見つめながら、私はそれらの言葉を胸に留め、思う。

 ──過去に戻れたなら、人は『運命』にも足掻くことが出来るのだろうか、と。


「……さて。急にしんみりしちまったな。ここは一つ、市場へ土産でも買いに行くか!」
「え」
「お前も気に入ったものがあれば買ってやる。遠慮せず、ただし値段の桁数には気をつけて選ぶんだぞ」
「え、え」

 そうして言われるまま団長と共に賑わう市街地へと舞い戻った私は、団長の提案に戸惑いしか返せず、結果剣を磨くための砥石だけを買い与えられたのだった。


 * * *


 ラネールでの滞在はそれから数日間に渡った。
 魔族の襲撃を待つ間、私は市街地と時の神殿周辺の地理を完全に頭に叩き込み、昼は剣を振って過ごしていた。

 駐屯地で過ごしてわかったのは、ここ数日で昼夜を問わず非常に多くの物資が運び込まれているということだ。
 その用途はあくまでも外部の者である私たちには知らされていないが、おそらくダギアニス卿の計らいにより集められた戦争のための武器や食料なのだろう。
 傍目に見ても検問は厳しく執り行われており、小型の魔物一匹でも逃さないという姿勢が見て取れた。


 ──事態が動き出したのは滞在七日目の晩だった。
 魔物の軍団が市街地を囲むように集結し、行軍しているという情報が舞い込んできたのだ。

 オルディン戦線では夜を狙われた。夜は魔物が活発化する時間帯であり、人間は夜目が利かず、女神の加護の力も弱まってしまう。
 此度のラネール戦線においてもそれは同様であるようで、夕刻を目掛け、女神軍は総員の配置を完了させた。

 私を含む騎士団は城門の内側にて隊列を組み、神経を研ぎ澄ませてその時を待ち構えていた。
 緊迫した空気が新緑の地を支配し、草原を撫でる風の音だけが鼓膜を揺らす。

「総員、警戒!!」

 高台で城門の外を見張っていた兵士が声高に叫び、張り詰めた空気が周囲一体に広がる。
 騎士団は一斉に剣を抜き、ついに迎えた衝突の時に備えた。

 やがて彼方から近づいてくる、野を駆ける跫音。一つや二つではない。あまりにも多くの軍勢が波濤のごとく押し寄せてきている。そして、

「──迎え撃て!!」

 進軍の号令と同時に、武器を打ち付け城門を突き破る轟音が鳴り響いた。それだけでなく小型の魔物がカギ爪ロープを放って城壁をよじ登り、上空からは飛行型の魔物が飛来してくる。

 魔物たちは一斉に城壁の中へと雪崩れ込み、人間ごと呑み込む勢いで街へと侵攻する。
 対し、女神軍はその波を可能な限り内側へと引き付け──次の瞬間。

「魔力弾、発射!!」

 一つの号令と共に光が天に昇り、一気に炸裂した。

 途端、魔物たちの絶叫が戦場に響き渡る。光に身を焼かれて悶絶する者、姿自体を保てず消滅する者、視界を奪われた隙を狙って斬り伏せられる者など、光が降り注ぐ下で魔物たちが次々と討伐されていく。

 それはダギアニス卿が考案した策だった。数日かけて集められた魔鉱石を一度に使い、発光させ、擬似的な太陽を作り出す。
 光に弱い魔物たちは動きを封じられるだけでなく、視界を確保した人間側は夜でも優位に動くことが出来るのだ。

 先手は取った。戦局が女神側へと大きく傾き、士気を最大限に高めた騎士たちが一気呵成に魔物たちを追い込んでいく。
 しかし予期していた以上に魔物たちの進軍は勢いを緩めない。光に焼かれた同族の死体を踏み越え、次なる軍勢が押し寄せてくる光景が目に入った。

「────」

 私はその軍勢を前に、剣を構える。
 一人の人間に対し、敵は数百。一瞬でも気を緩めたのなら容易く命は屠られる。だが、

「……進ませはしない」

 一度地を蹴り、剣を閃かせ──鮮やかな風切音とともに、横一閃が魔物の波を撫で切る。
 前線の魔物たちは悲鳴を上げる間もなく上下に身体を斬り分けられ、一掃。それにより後方に控えていた次軍が数瞬及び腰になる。そこを見逃さず、踏み込んだ私は追撃を仕掛けていく。

「あれがフィローネで噂の、騎士の家系か……!」
「一騎当千の働きだ。これなら勝てる。彼女に続くんだ!」

 遠くで騎士たちの歓声が上がるが、衆目を気にする余裕はない。
 反撃に出る魔物の大鉈を体勢を変えずに受け止め、跳ね上げる。魔物が怯んだ隙にその身体を両断し、すぐさま身体を捻って背後で石斧を振り上げていた魔物の懐へ潜り込む。そのまま剣先で下から上へと斬り上げ、魔物の巨体を武器ごと真っ二つにする。
 続けて体を回旋させ、迫る魔物の群れを捌き、貫く。眼前の敵を斬り下すことだけに集中し、やがて押し寄せた軍勢の半数を仕留めた──その時。

 私の目に、ある光景が留まった。

「……?」

 男が一人、城壁の上に立っていた。

 異様な気配に私は思わず剣を振る手を止め、その姿を見上げてしまう。
 まず目についたのは、血の色をした赤いマントだ。その下から伸びる筋肉質な腕が漆黒の剣を手にしており、男はただ、争いが巻き起こす風に白髪を靡かせながら佇んでいる。
 次いで白髪から覗く右目が人間を見下ろし、その口元をゆっくりと歪めた、瞬間。

「──!」

 男が城壁を飛び降り、駆け出した。
 それはまるで、姿を持った疾風が過ぎ去るかのよう。男は私の姿が眼中に入っていなかったのか、横をすり抜け一気に駆けていく。
 後に残された私が抱いたのは、“殺されずに済んだ”という底知れぬ恐怖。加え、

「──あの男を止めろッ!!」

 振り返り、叫ぶ。それは本能のままに口から飛び出た警鐘だった。
 あの男を野放しにすれば良くないことが起きる。戦況が一気に覆るような、あるいは勝敗以上の恐ろしい結末を迎えてしまうような、得体の知れない予感が私の全身を巡ったのだ。

 しかし次に私が目にしたのは、男の姿に気づいて剣を抜いた騎士が黒閃に両断されている光景。
 男は一歩も止まることなく騎士たちを跳ね除け、一直線に駆けて行く。向かう先にあるのは、時の神殿だ。
 私もすぐさま男の後を追おうと体勢を立て直して、

「くそッ……、ッ!!?」

 背後から迫る殺気に反応し、身を翻す。
 反射的に掲げた刀身が受け止めたのは、一振りの剣。──その柄に刻まれるのは、女神の紋章。

「何……!?」

 剣先を絡め取り、咄嗟の判断で相手の鳩尾へと柄を叩き込む。苦鳴を上げて倒れ伏したのは、間違いなく女神軍の甲冑を身に纏った騎士だ。魔物ではない。
 さらに凶行はその騎士だけに留まらず、辺りを見回せば他にも数人の騎士が味方に向けて剣を振るい、果てには鎧ごとその身を断ち斬っている。

「貴様ら、何のつもりだ!!」

 即座にそこへ割って入り、凶行に及ぶ騎士の剣を弾き飛ばすがそれだけでは混乱は鎮まらない。
 味方だと思っていたはずの騎士が、同じ鎧を纏った騎士へ剣を振るう。甲冑に覆われた表情は窺えないが、もはや狂っているとしか思えない。もしくは──、

「……まさか」

 あることに思い至り、私は倒れ伏した騎士に駆け寄り顔を覆う甲冑を掴み取る。すると、

「魔物……!?」

 騎士甲冑の下には──緑色の肌をした魔物が入っていた。
 鎧を纏えば外見だけは人間と変わらない半獣型の魔物。そいつが女神軍の騎士になりすましていたのだ。
 一体いつから。しかも、眼前の光景を見るに一匹や二匹という数ではない。

 私は無秩序となった戦場を掻い潜り、態勢を立て直すため団長と合流をする。
 たった今見た光景を手短に報告すると団長は驚愕と屈辱に顔を歪ませ、拳を握り込んだ。

「くそッ……内部に魔物が入り込んでやがっただと!? 一体どこから……!」
「わかりません。何者かが手引きをしたとしか……」

 眼前に迫る凶刃を捌きながら思考するが、あの魔物たちはこの戦が始まる前に内部へ入り込んでいたとしか考えられない。
 あれだけ厳重な検問が敷かれていたというのにどうやって。答えを導き出すための情報も時間もなく、私は混乱する戦場に引き摺り込まれていく。その時だった。

「団長! ご報告がッ……!」

 一人の伝令兵が団長の元へと駆け寄った。
 命からがらここまでたどり着いたのか、彼は荒い呼吸を繰り返しながら絞り出すように続けて──、

「時の神殿前を固めていた部隊が、一体の魔物に壊滅させられましたッ!!」
「なッ……!?」

 その報告に、その場にいた全員の表情が凍りつく。
 戦場が混戦し始めているとは言え、魔物の群れはまだ時の神殿に至っていないはずだ。
 たどり着いているとすれば、あの赤いマントの男。そこに敷かれた布陣をたった一人が突破した。

 団長は数秒逡巡した後、険しい表情で私の方へと振り返って、

「時の神殿に向かうぞ!!」
「ッでも、街が……!」
「本拠地を攻め込まれたら何もかも仕舞いだ。あそこにゃ戦えない市民も多く避難してる。……それに、奴らに時の神殿を渡したら何に使われるかわかったもんじゃねぇ」
「──っ、」

 団長の言う通りだ。それに戦況が乱れつつある今、時の神殿で控えるダギアニス卿の元へ行き早急に指示を仰ぐべきだろう。……場合によってはこの地を捨てて退くという選択を取らなければならない。

 唇を噛み、私は団長とともに時の神殿へと駆ける。
 混沌の足音が、近づいてきていた。


 * * *


 ──女神の祝福を与えられて生まれた者は、死を迎える瞬間、死後の世界でもその寵愛を受けるため女神に祈りを捧げて息を引き取る。

 死の間際、彼らの頭に過ったのはその慣例だったのだろう。倒れ伏した亡骸のいくつかは胸の上で両手を組んだまま永遠に時を止めていた。
 無論、それをする直前に命を刈り取られた者は無残な形で地に横たわっている。

「なんて、こと……」
「……伝令兵の情報が正しいなら、お前が見た男とやらが全て一人でやったんだろうな」

 たどり着いた私たちを待ち受けていたのは、地獄そのものだった。

 時の神殿は亜人族の戦士や賢者が守りを固め、市街地以上の厳戒態勢が敷かれていたはずだ。
 なのに、今私たちの前に広がるのは、血と亡骸の海だ。
 一体どこからが間違いで、何が足りていなかったのか。何もかもがわからず、理解が出来ない。

 死者に黙祷を捧げ終えた団長が無言のまま立ち上がる。その表情は煮え滾る感情を押し殺したような、形容し難い気迫を纏ったものだった。

「奥に進むぞ」
「……はい」

 神殿内は不気味なほどに静まり返っている。が、そこら中に漂う死臭が、神殿が本来持つ神聖な空気を無残なまでに穢していた。
 どの戦士も鮮やかな切り口を晒し絶命している。おそらく一撃だ。亜人族が持つ様々な能力や武器も、あの男には通用しなかったのだ。

 冷え切った廊下だけが奥へ奥へと伸びている。私と団長は唇を固く結び、狂いそうになる精神を必死に保たせながら一歩一歩進んでいく。

「────」

 最奥には一つ、首の無い男の死体が倒れ伏していた。

 死体は見覚えのある鎧を纏っている。その手には剣ではなく、男の血液で濡れた石の破片が握られていた。
 こんなものも武器として使わなければならないほどに、彼は追い詰められていたのだろうか。

 血溜まりから伸びる赤の道標の先に、切断された頭部が転がっている。
 横たわるその顔を見て、団長は静かに亡骸の主の名をこぼし、
 
「……ダギアニス卿だ」
「──!」

 男、ダギアニス卿は苦悶の表情を浮かべ、絶命していた。
 彼は総大将として軍に指示を出すため、賢者たちと共に神殿内で控えていたはずだ。そこをあの魔物に襲われ、ここまで逃げてきた末に殺されたのだろう。

「そんな、これじゃあ……」

 絶望が、全身を満たしていく。
 形勢は逆転した。総大将が殺された。神殿の最奥も、いずれ落とされる。
 女神軍の敗北は、ほぼ確定的だ。

 ……逃げなければならない。それは拠点で一度態勢を立て直すなどといった理性的な考えのもとたどり着いた結論ではない。
 このままこの地にいれば、私たちも殺される。本能を揺さぶる恐怖が、今すぐにでもここから離れろと金切り声を上げているのだ。

 そして傍らの団長へ、逃げるための言葉が私の喉奥から絞り出される──まさにその時だった。

「……さすがは魔剣の精霊様。死体しか残さねぇ徹底ぶりだこと」
「!!」

 一つの声音が暗闇の中に響き、私たちはゆっくりと振り返る。

「そうは思わねぇか?」

 そう同意を求めながら暗闇から現れたのは、長いツノの生えた魔族の男だった。

 ボコブリン族より背が高く、ツノさえなければおよそ人間の男性と同じような体つきだ。腰には二本の剣が抜き身のまま携えられていて、刃はべったりと赤い血で濡れている。
 何より、私たちに同意を求める表情は邪悪なまでに歪んだ笑みをたたえていた。

「あれこそ鬼畜、ってやつだな。そこの死体も、散々追っかけ回した後で始末したみてぇだし」

 おそらく“魔剣の精霊”とはあの赤いマントの男のことなのだろう。
 魔物はわざとらしい嘆息をこぼし、哀れみと嘲りを含んだ目でダギアニス卿の亡骸を見下ろして、

「ま、この人間も相当のロクデナシだけどな。そのまんま魔族に使われてりゃよかったのに、富に目が眩んですぐに裏切りやがった」
「裏切った、だと……?」

 言っている意味がわからず、そう繰り返した私に魔物の灰色の目が細められる。
 その視線にはそんなことも知らないのかという皮肉が滲んでいた。

「数日間に渡って積荷の中に魔物の卵を忍ばせると同時に、俺みてぇに“好都合”な魔物を人間の中に紛れ込ませた。ついでに、そっちの作戦もこっちにゃ筒抜けだったわけだ」
「何だと……!?」
「そいつとしちゃ、上手い具合に王家の息がかかった騎士団と魔族を全滅させて地位を横取り出来りゃ良かったみてぇだけどな。んな素直に、わるーい魔物様が従うわきゃねえっての」

 軽薄な口調で嘲笑する魔物に、私も団長も言葉を失った。
 ……まさか、ダギアニス卿が女神軍を裏切っていたなんて。
 魔物の言葉を信じる理由はない。だが、先ほど目にした戦場がそれは真実なのだとあまりにも如実に物語っていた。

「あー、それから」

 魔物は肩を鳴らし、つまらない話をするかのように前置きして、続ける。

「街はとっくに落ちてるぜ。そのロクデナシが、中にわんさか魔物を入れてやがったからな」
「──!!」
「人間ってのは浅はかだよなぁ。テメェの感情から生まれた怪物に何も抗えないまんま食われちまうんだ。しかも、あーんなに大勢で死ににくるなんてな。自殺志願者もオドロキってやつだ」

 嗤う男の言葉を耳にし、愕然とする。
 つまりは、敗北。そんな短い言葉で言い表される現実が、絶望となって私たちの胸を巣食う。

「同情はするぜ? どれだけキレーな言葉で女神サマを崇めようと、こうやってモノみてぇに粗末に扱われるお前ら人間を、一切助けてくれはしねぇんだからよ。……希望もクソもねえよな?」
「貴様ッ……!」

 男は口の端を歪め、片足をダギアニス卿の亡骸に乗せる。その冒涜的な行為に剣を抜きかけるが、それは目の前に掲げられた片腕に押し留められて、

「団長……?」

 団長は何も言わずに私を制し、正面から魔物と対峙していた。
 彼はゆっくりとその腕を下ろし、自身の腰に携えた剣の柄に片手を乗せる。

「……そうだな。俺も同意見だよ。これだけの血が流れて、いくら祈りを捧げたところで命が返ってくるわけがねぇ。女神様にすら、それは不可能だ」
「…………」
「だがな、希望は与えられるもんじゃねぇ。──希望は、自ら生み出すものだ」

 団長の決然とした声音が、響く。
 私は目を見開き、その後ろ姿を見つめていて、

「俺はまだ捨てちゃいねぇ。最後の一人になるまで、お前たち魔族に打ち勝つ未来を、希望を信じ続ける。その果てに大切なものの助けになる。……それが『騎士』だからだ」

 それは理想論、と言えてしまうのかもしれない。
 だが彼をここまで『騎士』たらしめた、誇り高き矜持だ。その言葉は、恐怖に塗れて竦んだ足を奮い立たせる力を宿していた。

 対し、反抗的な鋭い視線が団長へと突き刺さり、魔物の男は呆れたように肩を竦める。
 一見、その様子からは戦意が失われたかのように見えた──が、

「……そりゃあ、現実見てから言えよな」
「────ッか、」

 数瞬。何が起きたのか、私にはわからなかった。

 生温い液体が頬へ飛び散り、私は眼前の光景に全ての思考を失う。
 果てしない疑問符、否、現実を否定するための空虚な言葉の渦に陥って。

 何故、あの魔物の剣は新たな赤色に濡れているのか。
 何故、私の目の前で血霧が舞っているのか。

 何故、私じゃなくて、団長の胸を、剣が貫いているのか。

「団、長……?」

 その答えにたどり着く前に、ぐしゃりと、団長の体が崩れ落ちた。

「あ……あ?」

 私は血溜まりに跪き、血液に塗れながらその体を抱く。

 魔物の剣は、私の前に飛び出た団長の心臓を正確に貫いていた。
 見るだけで、わかる。戦場で積んだ経験が、頭にそう理解させてしまう。魔物が剣を構える素振りは見えなかったのに、あの一瞬で団長の心臓は貫かれたのだ。
 しかし目の前の光景の意味が、何も、何も何も、わからない。

「なん、で……何で……?」
「そりゃあ、部下を守んのが……上司の仕事、だかんな」

 譫言のように疑問符を繰り返す私をあやすかのように、団長は穏やかに微笑む。
 けれど、彼の胸から溢れ出る血が止まらない、止まらない。両手の隙間から体温が、赤色が、命が、溢れてこぼれて、流れていく。

「帰り、ましょう……あなた、は……貴方にはッ……帰って、待つ……ご家族がいる……ッ!」
「……ああ、そうだな」

 声が震える。動悸が止まらない。急速に体温を失う団長の体と私の指先。
 彼はそんな私の姿を目で受け止めながら、ゆっくりと片手を己の胸へ運び祈りを捧げようとして──その手を止める。

「だから、」

 代わりにその手は、私の剣の柄へと乗せられた。剣を握れなくなった手が、せめてその意志を継ぐかのように。
 女神でなく目先の部下へ、願いを託すように。

 そして、

「……俺の最期がすげぇかっこよかったってこと、伝えといてくれ」
「…………ぁ、」

 たった今、命が消えた。

 彼の手はずるりと滑り落ち、二度と動くことはない。
 守るもののことだけを想って、ひたむきに生きた、多くのものを守った命が、消えた。

 消えて、無くなったのだ。


「……で、どうするよ?」

 がらんどうの頭に、魔物の声音が響く。
 歪な線を描いて視線を持ち上げると、団長が崩れ落ちた傍らに、見覚えのある花が落ちていた。黄色い花弁は血で濡れているが、それは間違いなく団長の娘が彼の無事を願って渡した花だ。

「このまま首を斬られるか、無様に逃げてみるか。最後の一人くらいにゃ選択肢を与えてやるよ。冥土の土産、ってやつだ」
「────、」

 それは呆気なく、魔物の足に踏み躙られた。

 ──その瞬間、私の中でぷつりと何かが切れた。

 眼前の光景が、真っ赤に染まっていく。少し前まで逃げるという選択肢しかないと思っていたのに。頭を埋め尽くすのは、無数の憎悪の声。

 この男を、殺さなければならない。魔物どもを一匹残さず、みんなみんな殺さなければならない。

 そっと団長の亡骸を地に横たえ、腰の剣を──団長が最期に触れた剣を抜く。そうして掠れた呼吸を喉奥に押し留めて、

「──ッ!!」

 耳をつんざく鋼の嘶きが、冷たい神殿に響き渡った。

 魔物の喉を掻き切るために振るわれた私の剣はその前に魔物の剣に受け止められ、灰色の双眸が歓喜に歪められる。それが不快で、憎くて憎くて、殺したくて、堪らない。

 黒い憤怒の感情が、全身を焦がして、抑えられない。

「おーおー、いきなりやる気出したじゃねぇの。もう一踊りしてやろうか」
「黙れッ!!」

 鍔迫り合い、刀身を弾き、踏み込み両断。その一撃を躱されたとしても斬る、斬る、斬る斬る、斬る。剣撃を掻い潜り、喉元を噛み砕くように犬歯を剥き出しにし、叫び、吠える。

「いいねぇ、見てくれを捨てた、本能で振る剣ってやつだッ……!!」

 フーッと鋭い呼吸音を上げ、急所を狙い、確実に殺すための剣を振るう。全身を捻って身を回し、肉を断つための刃を叩き下す。

 だがその一方で男の剣は私の刃を的確に見極めて往なし、捌いてしまう。
 それでも構わなかった。男の剣が折れるまで刃を振り下ろす。男の喉を噛みちぎるまで吠え続ける。たとえどれだけ血が流れたとしても、命が燃え尽きてもなお怒り続ける。

「ヴァアアッ!!」
「──シッ、」

 吠え猛る私の剣撃を、短い呼気だけをこぼして魔物は捌いていく。

 獣は、私だ。憎悪の感情に突き動かされるまま剣を、否、凶器を振るって。
 こんな存在、『騎士』だなんて言えない。言えるわけがない。
 でも、それでも──止まらない。

「女のくせになかなかやるじゃあねぇの。今までにも沢山殺してきたんだろ?」
「殺す、殺す、殺す──!!」
「……聞いちゃあいねぇな」

 男は苦笑をこぼした次の瞬間、灰色の瞳孔を細め、両手の剣で猛撃を畳み掛ける。上下左右で金属音が高鳴り、鋼が軋り、赤い火花が散り弾ける。
 決定打はない。しかし、受け止めきれなかった乱撃が私の肌を抉り、生傷を増やしていく。焼けるような痛みが私の神経を侵し、剣を持つ手が震えた、瞬間。

「ッ……!!」

 ほんの数瞬の隙を見逃さなかった男の鋭い凶刃が、私の利き手を斬り上げた。
 血を撒き散らし、激痛に頭の中が真っ白になる。でも、目先の敵の姿は消えない。憎むべき相手の姿はそこにあり続ける。だから、

「──ッうあぅ!!」
「おっ、と」

 剣を持たない手で、爪を立てて男の肌を引き裂いた。
 喉を掻き切るつもりで立てた爪は、咄嗟の判断で体を守った男の腕に血の道筋を残す。
 私の反撃に驚いた様子を見せた男は、一拍置いて愉悦を滲ませた笑みを浮かべて、

「人の話はお行儀よく聞かねぇとなぁ!!」
「ッぐぁ!!」

 男の爪先が腹部に捩じ込まれ、私の体は背後へと吹き飛ばされる。
 辛うじて手放さなかった剣が虚しい金属音を鳴らして、立ち上がろうとする体の神経はどこが切れていて、どこが繋がっているのかもうわからない。それでも、

「わた、しは」

 ぼたぼたと血溜まりをつくりながら、再び立ち上がって。

「守らなければ、ならない」
「…………」

 それだけだ。それだけの言葉が、私という存在を繋ぎとめて、剣を手放さずにいて、

「──私はッ!! 守らなければならないんだッ!!」

 立ち上がって剣を振るう。守るために、剣を振る。
 その意志だけに、突き動かされるまま。

 しかし、

「……何をだよ」
「ぁ……、」

 一閃。男の剣はたったそれだけで、私の剣をあまりにも正確に受け止め、跳ね返す。
 その反動で折れた刀身は地に転がり、虚しい金属音を立てた。

「テメェは何を守るんだよ」

 男の声音が落ちる。跪き、暗がりに落ちていく意識の傍ら、その問いははっきりと私の中に届いた。
 けれど答えは、出ない。言い返さなければ、私が剣を振った意味も、団長が私を守った意味も、大勢の命が失われた意味も、無くなってしまう。
 なのに喉は凍りついたまま、掠れ声ですら答えは紡げず、

「今のテメェが守りたいのは、惨めな姿の自分だろう?」
「──!」

 その灰色の目に映る自分は、あまりにも無力で、目を背けたくなるほどに惨めな姿をしていて、

「生半可な覚悟で戦場に立つな。今のお前は何もかも失った……ただの女だ」



 誰であっても、鋼は等しく輝きを持つと思っていた。
 勝敗に限らず、強い意志を持って剣を振るう者全てに。

 あの光は何だったのだろうか。
 私の剣にも宿っていたのだろうか。

 私には、それが何なのかわからない。

 ──わからない、ままだった。



 *



 その夜。魔族──魔王軍によってダギアニス卿率いる女神軍は全滅。
 市街地は魔物に占拠され、ほとんどの市民が犠牲となる。時の神殿は女神の封印によって最奥にまで至られなかったものの、魔物たちの手中に落ち、完全なる支配下とされる。
 捕虜とされた者以外、人間は誰一人生きては戻れず、


 ラネール戦線は、たった一夜にして壊滅した。