series


真影編1_閃影



「──お姉ちゃんって、正義の味方なの?」

 混じり気のない、純粋無垢な瞳だった。
 憧れと、期待。これまで向けられたことのない類の感情を滲ませた視線が真正面から突き刺さって、私の顔を引き攣らせる。

 同時にその視線は私にあることを気づかせる。それは生まれて初めて持った感覚。
 つまり──私は子どもが苦手、という実感だ。


 スカイロフトの夜だった。
 いつも通りの物資調達、兼、情報収集に訪れた日。私は次なる目的地──『詩島』へ行くための手がかりを求めて島中を探索し回っていた。

 スカイロフトの住民すらも滅多に訪れることのない空の孤島。わかっているのは本島からの大まかな位置関係くらいだ。
 プロの鳥乗りでも危険がある空に、飛べない私がどうやって行けば良いのか。いくら頭を捻っても答えは出ない。

 試しにギラヒム様に『空を飛べる魔術ってないですか』と聞いたけれど、哀れなものを見る目を向けられて終わった。そんなものは自分で考えろ……もとい、主人にもその方法はわからないらしい。

「むーん……」

 一人、唸り声を上げながら閑静な住宅街を歩く。
 悩ましい心境に対して肌を撫でる夜風は心地よく、天を仰げば大地では決して見られない満天の星空が広がっている。いつかは主人と一緒に見たい景色のうちの一つだ。

 人々が寝入る時間ということもあり、街は普段以上にひっそりと静かだ。
 よく見れば、屋根と屋根の間を数匹のキースが飛び回っている。以前は市街地に魔物が出ることはそうなかったのに。

 ……そういえば、以前ギラヒム様が教えてくれたことがある。
 私はスカイロフトに魔物が出るのは地上の封印が解かれたからだと思っていたけれど、それだけで女神像が立つ聖域であるこの地に魔物が出現するようになったとは考えづらいらしい。
 曰く、もともとある程度の魔力を持った魔物が存在し、その魔物から影響を受けない限りこんな環境で他の魔物が生きられるはずがないそうだ。

 もしかしたら私が知らないだけで、力を持った魔物がどこかに隠れているのではないだろうか。
 なんて想像を巡らせていた、その時だった。

「──……ん?」

 一つの悲鳴が夜闇を裂いて、私の耳へと届いた。

 声の高さからして、たぶん子どもの悲鳴だ。そう遠くはなさそうで、私は反射的にそちらへ向かおうとし、待てよと足を止める。
 助けに行く理由は、正直ない。そもそもスカイロフトの人間に関わるのは立場的にも気持ち的にもよろしくない。

 しかしこのまま無視するのもなんとなく後味が悪い。相手が子どもなら顔見知りということもないだろうし、必要以上に関わらなければ大丈夫だろう。
 そう強引に自分を納得させ、私はその声の元へと向かった。

「あらま……」

 現場は家屋も人気もない湿った岩場だった。そんないかにも、という場所で小さな男の子がチュチュ三体に囲まれていたのだ。
 男の子は地面に尻餅をつき、震えながら銀色の小ぶりなナイフを手にしている。

 複数体とはいえ相手がチュチュなので、少年の命が奪われるなんてことはないし、刺激しなければ走って逃げることも容易いだろう。
 が、そんな魔族の常識を小さな男の子に当てはめるのはさすがに意地が悪い。

 ここまで来てしまったからには立ち去るのも気が引けて、私はどうどうと少年とチュチュの間に分け入った。

「え、え……誰?」

 少年は唐突な乱入者に目を丸くし、この状況で不審者にまで絡まれてしまったのだろうかと一気に表情を青ざめさせる。
 私は問いには応えず、彼の手に握られた銀色のナイフをひょいと取り上げた。……どこかで見覚えのあるデザインだった。

 状況が呑み込めていない少年はいきなり唯一の武器を取り上げられ、「あっ……!」と絶望に震えた声を上げて、

「何するんだよ! 僕の武器を……!」
「お口チャック。刺激しなければチュチュは大人しいから。ね?」
「んむぐ!」

 なおも抗議の声を上げようとする少年の口を塞ぎ、私はじりじりとにじり寄ってくるチュチュたちと視線を交えた。半泣きになりながらも少年は大人しくなり、沈黙が訪れる。
 やがてチュチュが完全に動きを止めたのを見計らい、私は刺激しないよう低い声で告げた。

「何もしないから、帰っていいよ」
「────」

 その意味をチュチュたちが理解したか否かは定かでない。けれど彼らはじっとこちらを見つめた後、ふと興味を失ったように向きを変えて、茂みの中へと消えていった。

 そこまでを見届けた私はようやく少年を解放する。
 恐怖に駆られたのか、呆気に取られたのか、少年は口をぽかん開いたまま、微動だにせずにいた。

 少しだけ迷って、私はその場に屈み込んで少年と目線を合わせる。
 押し開かれた大きな瞳の中にはフードを被った私の姿が映り込み、その表情は心なしか緊張しているようにも見えた。
 年下の男の子と目を合わせて話す機会なんて数年ぶりで、空にいた時ですら滅多になかったからかもしれない。

 私は慎重に言葉を選びながら少年に尋ねる。

「君、家どこなの?」
「あ……き、寄宿舎」
「え、もしかして抜けて来たの?」
「……うん」

 寄宿舎、ということは親元を離れて騎士学校に通っている生徒なのだろう。
 自分が常習犯だったからわかるけれど、夜の寄宿舎を抜け出すのはなかなかに困難な道のりだ。……私がまさにこのくらいの歳からやっていたので、勝手に共感してしまう。
 しかし当の本人はというともともと罪悪感を抱いていたのか私の反応を非難と勘違いし、慌てた様子で言い訳を口にして、

「だって、夜じゃないと光ってるホーリーアゲハ、見られないから……!」
「光ってるホーリーアゲハ?」

 予想外の生き物の名前が出てきて、私は思わずその名を復唱した。
 ホーリーアゲハと言えば、スカイロフトだけでなく大地にも多く生息している青い羽の蝶だ。活動時間が夜というわけでもなく、むしろ昼間の方が見つけやすいはず。
 光ってる、ということは珍しい種類でもいるのだろうか。もしくはこれくらいの齢の子特有の根も葉もない噂か。

「気持ちはわかるけど、こんな時間に昆虫採集はお姉さん感心しないなぁ」
「……ごめんなさい」

 素直に謝り、しゅんと項垂れる少年。そんなことを言える立場じゃないのにちょっとだけ大人ヅラをしてしまったことを内心で反省する。
 ──と、不意に少年が顔を上げて、

「お姉ちゃん、なんであのお化けとお話出来たの?」
「うん?」
「お姉ちゃんって、正義の味方なの?」

 あどけなく濁りのない眼差しが、私の心臓を一直線に貫く。
 同時に理解した。子どもとはとてもとても恐ろしいもので──私は、子どもという存在が苦手なのだということに。

「えーーと……」

 否応なく向けられる期待を滲ませた視線。
 ここで「はい」と答えれば嘘になる。私はむしろその逆の立場の、割とど真ん中にいる人だからだ。
 当然、馬鹿正直に「いいえ、ものすごく悪い人の部下です」なんて答えれば怯えたこの子から大人へ噂が広まり、スカイロフトの探索に支障が出てしまう。

 けれど、それでも。この目を見ながら嘘をつくのは……罪悪感が、すごい。

「っふ、」
「ふ?」
「普通の人だけど……ちょっとお化けともお話出来る人……かな?」
「そなの? すげー!」

 数秒かけて考えに考え抜き絞り出した答えがこれだった。それでも純粋な少年は尊敬の眼差しで私を見つめてくれた。
 その眼差しの輝きに耐えきれず、私は無理矢理話題を変える。

「そ、それで、その光ってるホーリーアゲハ、見つけたの?」
「……まだ。でももう帰らなきゃ、出てきたこと、バレちゃう」

 確かに寄宿舎から抜けてきたのならあまり長い時間外にいるのは危険だ。しかし少年はその言葉とは裏腹に、“光ってるホーリーアゲハ”とやらを諦めきれていないのだろう。
 悔しそうに歯噛みしている少年を見つめていると、一つの疑問が浮かんだ。

「何か見たい理由でもあるの?」
「…………それは、」

 問いかけた途端、少年は口ごもる。
 聞いてはいけないことだったのだろうか。予想外の反応を返され、私が慌てて取り繕うとした瞬間。

 少年の大きな瞳が、私の背後に向けて一杯に見開かれた。

「あ、あれ!」

 高く声を上げ、少年の細い指先が私の後ろを指差す。
 その指に導かれて振り返ると、そこには一匹の蝶が宙を舞っていた。青い羽がひらめく度に光がちらちらと反射し、闇夜を彩っている。

 たしかに普通のホーリーアゲハとは違う。想像していたような華やかさは無かったけれど、淡く、温かな光の軌跡を描きながら舞う姿は森に住む妖精たちにとてもよく似ていた。

 空の世界で久しく見る幻想的な光景に、私もしばし見入っていた──その時だった。

「──え?」

 予兆すらなかったその変化に声を漏らす。

 闇の中の青い蝶に魅入られていたはずなのに。
 私の目の前には、奇妙な世界が広がっていた。

 私が立ち尽くしているのはつい先ほどと同じスカイロフトだ。だがそこは昼でも夜でもなく、目に見える色彩が反転した景色に塗り替えられていた。
 水中のように響く音は何もなく、時すらも止まった空間を一匹の蝶が彷徨う。

「……!」

 そして、蝶が誘うその先には一つの“影”が在った。

 正確には、全身に黒衣を纏った人だった。だがこちらに背を向け、指先すら動かさず佇んでいる様を見ていると“影”という形容が正しいと錯覚してしまう。
 私は何の声も出せないまま、ただただその人の姿に目を奪われていて、

「────」

 やがて私の視線に応えるように、その人がゆっくりと振り返る。
 交差する視線。その先にある一対の眼は、血のように赤い。

 どこまでも引き込まれてしまいそうな黒と赤。底の見えない深淵そのものが具現化したような存在に息を詰め、動けずにいた私。
 対し、影は愉快げにその口元を歪めて──、


「──すげー! ホントに見れた!!」
「!!」

 私の意識は、すぐ側から飛び込んできた歓喜の声音によって急激に引き戻された。
 気づけば眼前の景色は元のスカイロフトの夜へと戻っていた。

 何度か瞬きを繰り返しながら首を巡らせ、やがて視線は傍らの少年のもとへとたどり着く。
 興奮に昂る彼の姿は先ほどと何ら変わりはない。大きな瞳に映るホーリーアゲハは仄かな光に包まれ、その場をひらひらと舞っているだけだ。

 ……何だったんだろう、今の。
 少年の反応を窺う限り、彼にはあの世界もあの影も見えていなかったのだろう。そもそも自分が目にしたあの光景が現実のものだったのかどうかすらも定かでない。

 しかし幻覚だとするなら、何故あの影は──。

「……行っちゃった」

 ホーリーアゲハは月明かりを帯びる羽をひらめかせ、心残りはもうないというようにスカイロフトの夜空へと消えていった。
 その輪郭が闇に溶けて煌々と瞬く様は、あの空間で見た赤い瞳を彷彿させた。

「綺麗だったね、ホーリーアゲハ」
「うん! お姉ちゃんありがとう!」
「どういたしまして」

 少年はお目当てのものが見られて満足したようだ。
 結局、私は少年が寄宿舎に戻るまで付き添うこととなった。
 道すがらなんとなく仲良くなってしまったので、脱走経験者の先輩風を吹かせて寄宿舎の抜け道を一つ教えるなんてこともした。もちろんお化けのいそうなところは行っちゃいけないと釘を刺した上で。
 彼と別れたのは、日付が変わる直前だった。

 そして、大地に帰るその足で私は騎士学校の資料室へと忍び込み、ホーリーアゲハに関する文献を探した。
 いくつか資料をかい摘まみつつ調べると、ホーリーアゲハ──つまり青い蝶には『共通の願い』という意味があるという。そこから転じて『両想い』という意味があるとか。

 “光ってるホーリーアゲハ”については言及されていなかったけれど、少年がこだわっていた理由が大まかにわかって微笑ましさに口元が緩んだ。

「────」

 同時に、疑問を抱く。
 おそらく私だけに見えた、あの世界。そこで見た影。
 驚く私を前にし、心の底から愉悦に満ちた狂気的な笑みを浮かべた彼。

 その姿が、リンク君と瓜二つだったことに。


 * * *


 雲が覆う大地において夜は闇そのものだ。

 本来生き物が頼りにする月明かりはほとんどが遮られ、視覚とは光がなければこんなにも役に立たないものなのかと思い知らされる。
 だからこそ夜行性の生き物たちは眼以外の感覚器を研ぎ澄まし、狩りや採集を行う。

 それでもその日の明け方、森を丸ごと呑みこんだ激しい豪雨は視覚以外の感覚すら麻痺させた。
 せめてものの施しにと天から与えられるのは雷が落ちる瞬間の白光だけだった。

 ひっきりなしに雷鳴が轟く。一際大きな稲光が迸り、視界の全てを明転させる光が襲う。

「グァッ──!」

 ──喉奥から潰れた苦鳴が落ちた時。彼の網膜に焼き付いたのは、血の色をした二つの眼だった。

「安心しろよ」

 昼のような明るさも瞬く間に終わる。後に続いたのは再びその姿を覆う暗闇と、雨音の中でもやけにはっきりと届く嘲り声。
 徐々に体温が奪われているはずなのに、痛みは未だ焼けつくようにその体を離さない。流れ出る血と体温を、降り頻る豪雨が拭い去っていく。

「殺しはしない。お前らの飼い主に伝言がある」

 ふと声の主が近づく気配がした。否、気配でしかそいつの存在を認識出来なかった。
 まるでそいつ自身が意思を持った“影”のような存在だったからだ。

 影は声に滲む悦楽を隠そうとしないまま、己の足元に倒れ伏した獲物へ吐き捨てる。

「……お前が飼ってる『半端者』に用があるってな」

 その声を最後に、急速に流れ出ていく命に身を委ねて、

 トカゲ族の頭、リザルの意識は途絶えた。


(230911改稿)